「うう、寒いなぁ。雪でも降るんだろうか」
僕はぶつぶつとつぶやいていた。
どうもこのところひとりごとが多くなっている。
数週間前までの僕は、ごく普通に平凡な日々を過ごしていた。
学生時代に目指していたプロのバイオリニストになる夢は諦めて、音楽教師になるもくろみも就職難のせいで断念。仕方なくバイオリンは趣味にして、ごく普通の会社員になった。
心躍るドラマティックな出来事も心揺さぶられるような幸福感もないけれど、それなりに幸せな日々。少し退屈で窮屈ではあったけれど。
でもそんな生活は、まるでろうそくの火を吹き消したかのように、あっという間に崩壊してしまった。
その日、いつものように会社に出勤した僕は、昼休みに上司に会議室に呼び出されていた。
なんとかこの会社に就職することが出来て数年。がんばって仕事を覚え、必死で働いて、ようやく軌道に乗ったと思っていた・・・・・んだけど。
「守村くん、早期退職を考えてくれないか」
「・・・・・肩たたきというわけですか」
「会社の事情のせいなんだ。わかってくれ」
僕が呼ばれたのは、つまりはリストラの通告というわけだった。
銀行との関係が怪しくなってきたとか、本社があれこれの取引をやめようとしているとかいううわさは同僚たちのひそひそ話に出て来ていたけど、それが僕の関係するなんて考えてもいなかった。
でも、僕は縁故で入ったわけではないし、特別な技能や資格を持っているわけでもないから、真っ先に退職者リストに乗せられたってことなんだろう。
なんて、納得できるわけもないけど。
「とにかく、考えておいてくれ。ごねれば退職金が増えるなんて考えない方がいいぞ」
もう退職することが決まっているかのように上司は言って部屋を出て行った。
ぽつんと残された僕は、突然の通告にただ呆然としていた。
うわの空でその日の仕事を終えて、帰路に就く。家に待っているはずの彼女にこのことをどう言おうかと悩んでいた。
僕が邦立に通っていた頃にバイオリンの弦を買いに行っていた音大通りの泉楽器で店員をしていた女性。たまたま同僚に引っ張られて行ったコンパで知り合って、なぜか向こうから気に入られて、そのままプロポーズすることになって、結婚して。
ちょっとわがままだけど、かわいい奥さん。いろいろと無茶振りを言われて振り回されていたけど、二人でそれなりに楽しい生活を過ごしていたと思う。でも、これからの生活をどうすればいいんだろう。
「・・・・・ただいま」
アパートのドアを開けて中に入ると、コートを着て出かけようとしている彼女がいた。足元には大きなスーツケース。
「あれ?どこかに出かける予定があったのかい」
僕が声をかけると、彼女はしまったというようなちょっと気まずそうな顔をして、それから思いなおしたように僕の方を向いた。
「あたし、あなたと離婚するわ」
「・・・・・え?」
何を言われたのか分からなかった。
「どういう意味?」
「そのままよ。もうあなたとは暮らせない」
「なんで突然そんなことを言うんだ!?今まで不満なんて言ったことなんてなかったじゃないか!」
彼女の望むままに、少しでも広いアパートを捜して慣れ親しんだ富士見町から離れて引っ越した。フジミに通うのは一緒にいる時間が少なくなると言われ、退団した。昔付き合っていた川島さんの存在を知ったから、行かないでくれとも。
それから。
バイオリンを弾くのも近所に迷惑だからと言われて、少しずつ弾く時間は少なくなり、今ではほとんど押し入れに眠っている。
そんなふうに彼女の言うままにやってきた。結婚記念日には一緒に食事をし、一緒に買い物にも出かけた。
でも、彼女はそれだけでは満足しなかったんだ。
「ずっときみが望むままにしてきたじゃないか。いったい何が問題だったんだ!?」
「あなたはあたしの望むままって言うけど、いつもきみの好きにしていいよって言うことしかしなかったじゃない!」
彼女が叫んだ。
「あたしは『どうしてそんなことを言うんだ』って言って欲しかったのよ。ちゃんとあなたの気持ちが知りたかったの。
きみの好きにしていいって言うばかりで、いつも自分からこうしたいなんて言ったことないでしょう。
あたしと向き合ってけんかもしてくれなかったから。
あなたが力を入れていたオーケストラのことだって、昔の彼女がいたことなんてたいしたことじゃなかったのよ」
それに。
彼女はため息をついて言った。
「バイオリンのことだって『やめることなんて出来ない』って言って欲しかった。でも、あなたは『どうせ趣味のバイオリンだし、そろそろ頃合なのかも』なんて言って、そのままあっさりやめちゃったし。
それじゃあまるであたしだけが悪いみたい。わがままな女で言いたい放題を言っているみたいじゃないの!」
「そんなことないよ。あれは・・・・・本当に僕が決めたことなんだからいいんだ。きみが悪いわけじゃない」
「ほら、そう言ってあたしが気まずい思いをするなんて考えてないわよね。でもあなた、あたしがバイオリンをやめてくれって言った時、真っ青になってすごく傷ついた顔をしていた。でも笑ってバイオリンを押し入れにしまったのよね」
だから、
と彼女はつづけた。
「あたしがいないときに、こっそりバイオリンを取り出してながめていたでしょう?見ちゃったのよ。
ねえ、あなたはあたしをひどく恨んでたでしょう?いえ、憎んでたわよね」
「そんなこと・・・・・」
「いえ、あたしさえいなければって、ずっと思ってた。あたし、知ってるんだから」
ぐっと言葉がつまった。
心のどこかにそんな思いを持っていたことに気がついてしまったから。
「あたしに心を開いてくれない人とは暮らせない。愛せないから。ずっと向き合ってくれることを期待してたんだけど、もう疲れたわ。だから、出て行く。本当は何も言わないで出て行って、あたしが何を思っていたのか考えて欲しかったけど、もういいわ」
「待ってくれ。もっと話し合おう。僕が悪かったならちゃんとなおすから!」
「いいえ。もう話すことなんてないわ。あたし、好きな人が出来たの。ずっとおしゃべりもするしけんかもする人よ。だから一緒に住むことにしたの」
ふっと彼女はため息をひとつついて、ぺこりと頭をさげた。
「ごめんなさい。あたしじゃなくて、他のひとをさがして。最後にちゃんと話せてよかったわ。それじゃあね。外で彼が待ってるの。離婚届は郵送するから、サインして送り返して」
彼女に出会った頃、僕は彼女のえくぼが浮かぶ明るい笑顔がかわいいと思っていた。そのえくぼは変わらないけど、今は昔とは違う陰のある泣いているような悲しげな笑顔をちらりと見せて、彼女は出て行った。
僕は呆然と見送ることしか出来なかった。
そうして、―――僕は守るものもよりどころとするものも喪ってしまった。
仕事を続ける気力も失せていたから、あっさり会社のいうままに流されて、退職してしまった。
彼女からの離婚届が届いたから、そのままサインをして返送した。
何もすることがない毎日。誰もいないアパート。
耐えられなくなって、ある日思い立って、ずっと足を向けていなかった富士見町のモーツァルトへと足を伸ばした。なつかしいにこちゃんの顔を見て、久しぶりにおいしいコーヒーを飲めば気持ちが上向くんじゃないかと思ったから。
フジミをやめて行きづらくなった富士見銀座は、シャッターのしまった店が多くてなんだか記憶の中よりも寂れているように思えた。それでも、モーツァルトの扉を見つけ、以前と変わらずに営業していることにほっとした。
「いらっしゃいませ。おや、守村くんじゃないか。久しぶりだね」
ちょっと老けた感じのする石田さんは、うれしそうな顔で僕を迎えてくれた。
「お久しぶりです。お元気そうですね」
「うん、まあまあってところかな。それで、きみもこの店の閉店を知って名残を惜しみに来てくれたのかい?」
「・・・・・えっ?」
「なんだ、知っててきてくれたわけじゃなかったのかい」
指さして見せたのは、閉店を知らせる張り紙だった。
「そろそろからだもきつくなってきたし、子供たちや孫たちが住んでいるから実家のある北海道に戻ろうかって話になってね。Uターンすることになったんだ」
「そう・・・・・なんですか。寂しくなりますね。でも、そうするとフジミはどうするんですか?」
「おや、守村くんのところに手紙は届かなかったのかな」
「手紙、ですか?」
「うん。先週で富士見市民交響楽団は解散したんだよ。そのお知らせの手紙を送ったんだけど」
「そんな!・・・・・知りませんでした」
「最近は新しく入ってくる人がいなくなってたし、辞めちゃう人も何人も出てたし。ボクがこの店を閉めることになって、世話役をする人がいなくなっちゃうからね。それでみんなで相談して解散が決まったんだ」
「でも、市川さんや長谷川さんがいるでしょう?引き継げなかったんですか?」
「市っちゃんは定年退職して新しい仕事に再就職したんだけど、富士見町から少し遠くて大変らしいんだ。一般の団員なら続けられるけど、世話役までは引き受けられないって。長谷川のトンちゃんは、この間病気で入院してね。もうよくなっているんだけど、やはり無理はできないんだそうだ。他の人にも相談したけど、やはりいろいろ事情があって無理をできないってことになったんだよ」
フジミが解散したという事実のショックが大きすぎて、あまり話もはずまないままコーヒーを飲み終わると逃げるようにしてモーツァルトを出た。
もし、僕がフジミを辞めなかったら、もし僕がバイオリンを続けていたらなんとかなったんだろうか・・・・・。どうしようもない無念さが胸をかむ。でもリストラされて明日の仕事もままならない身では何も言う言葉はなかった。
アパートに帰って、彼女がいなくなってから整理する気力もないままに雑然とテーブルの上に積んであったダイレクトメールやポストに放り込まれるたくさんのチラシの山の中をさぐっていくと、石田さんからの手紙を発見した。
日付を見ると彼女が出て行ったその日だった。
中身は先ほど石田さんから聞いた事情が述べられて、できればフジミの解団式の日には来てほしいと書いてあった。でも、そこに書かれていたのは、もうすでに過ぎてしまった日付だった。
そうして、今僕は大事に思っていたものをすべて失ってここにいる。
アパートに一人でいても何もする気力がない。ハローワークに行って次の仕事を探さないと、とか実家にも連絡したほうがいいだろうか、とか考えてはみるけど、どうにも動けない。
それどころか、食欲も失せ、夜も寝がえりばかりで眠れない日々が続いている。
数日前、ついにモーツァルトが閉店した。
最後の日に出かけて石田さんに挨拶したけど、他のフジミの人たちと会うのがつらくて、石田さんが引き留めるのを振り切ってそのまま帰ってしまった。だから、これでもうフジミの人たちとも完全に縁が切れてしまった。
この街に長く住んでいたはずなのに、今の僕はどこにも居場所がない。アパートも一人で住むには広すぎるし家賃もそれなりに高い。失業中の身としては、引っ越すことも考えないといけないだろう。まあ未練もないし。
今の僕には我が家ではなくて、ただのうすら寒い箱にしか思えないから。
もんもんとしながら部屋の中にいるより、寒くても外にいた方が気が楽で、その日僕は駅から近いところにある小さな公園のベンチに座り込んでいた。
今日はどんよりと雲が立ち込めている。もしかしたら雪になるかもといった空模様なので、子供たちは誰も遊んでいない。
いるのは僕一人だった。
不意に強い風が吹いて、ざぁっと思いがけないくらいに大きな音で枯れた木の葉を舞わせている。
音は僕の耳に違うものに思えた。あれはまるで・・・・・。
―――観客たちの拍手のように聞こえた。
演奏中、僕の意識は音楽の神髄の奥深くに沈んでいたけど、曲の終わりとともにゆっくりと浮上していく。
弓とバイオリンを下すとゆっくりと目を開けた。とたんに耳には観客の人たちの熱心で好意にあふれた万雷の拍手とヴラボーの賞賛の声が入ってきた。僕は僕の音楽が受け入れられたのがうれしくて、客席に向かって深くお辞儀をした。
そして振り返ると、共演していたオーケストラの人たちも拍手をしてくれていた。指揮台に立っていた背の高い指揮者も、満足そうに僕に向かって拍手をしてくれていた。
何回かのアンコールと挨拶の後、僕と指揮者は控室に戻ってきた。
「今日は特にいい出来でしたね。素晴らしかったです」
「ありがとう」
「悠季」
にっこりと笑うと、彼は僕にハグを仕掛けてきた。
え?
戸惑っているうちに彼の顔が近づき、それから・・・・・。
「うわぁぁぁっ!」
僕は悲鳴を上げてベンチから飛び上がっていた。バクバクと心臓が暴れていた。
見回せばそこは先ほどと同じ公園のベンチで、うっかりと僕は眠気に襲われたらしかった。
「なんだったんだ、今のは!?・・・・・僕はゲイなんかじゃないのに!」
なんで僕が男とキスしなきゃいけないんだ!?
まだ感触が残っているように思える唇に震える指でちょっと触れ、それからごしごしと拭いた。
夢の最後はひどいものだったけど、そこに行くまではとてもすてきな夢だった。
もし、僕が本物のプロのバイオリニストになって、ソリストとして活躍出来ていたなら、きっとあの夢の中のような満足感も感激も感じることが出来ていたかもしれなかった。
「・・・・・いったい何を間違えちゃったのかなぁ」
プロになることを諦めたことだろうか。それともバイオリンを趣味なのだと思い込もうとしたことだろうか。
今はもう、取り返すことが出来ない。
ならば、せめてあの夢がもう一度見たい。見ることは出来ないだろうか。
僕はぎゅっと目を閉じた。
今いるところが外で、とても寒くて、天気が悪くなってきていることなんて頭から消えてしまっていた。
もう風の寒さも頬や手に落ちてくる冷たいものが何なのかにも気が付かなかった。
このところ眠ることが難しくなっていたけど、今なら眠れそうだった。
だから、もう一度、あの夢へ。
「打ち上げは『ガランドー』だったよね」
「ええ、さあ行きましょう」
彼は微笑みながらドアを開け、僕は足を踏み出した。
翌日、新聞には今年初めての雪が積もったことが話題になっていた。
そして。
地方版の記事欄の目立たない片隅に小さな死亡記事が載っていた。
そこには富士見町の公園のベンチで男性が凍死しているのが発見されたと書かれていた。会社からのリストラや離婚問題が原因ではないかと、あいまいな推測されていた。
それから、その記事の隣に並んで、もう一件の死亡記事が。
同じく富士見町にあるマンションの一室で、急性アルコール中毒で男性が亡くなったと書かれていた。
彼はMHK交響楽団で副指揮者をつとめていたが、周囲の話では最近、仕事である指揮者の音楽についてひどく悩んでおり酒量が増えていたという。
もし、悠季が河原でバイオリンを弾く気にならなかったら。
もし、圭が散歩の足を延ばさなかったら。
あったかもしれない。そんな話。
タイトルはショパンの「別れの曲」からです。 なんとも救いのない話で申し訳ありません。 毎年、ハロウィーンの頃になると思いつく、甘くないフジミの話の中でも、最高に苦い話になりました。 一度思いついたら、どうしても離れなくなってしまいまして、でも書きたくなくて、なかなかまとまりませんでした。 それでも、対になる救いのある話を書くのを思いついたせいで、なんとか形になりました。 お口直しに「歓喜に寄せて」にどうぞ! |
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2020.01/10 UP