歓喜に寄せて
演奏中の僕の意識の半分は曲をどれほど良い音でよい演奏をするかということに集中していて、もう半分は冷静に圭の指揮やオーケストラの音を追って、協調しながらどれほどバランスよく成立させるかに腐心している。まるで二人の僕が協力してより良い音楽を差し出そうと集中しているみたいだ。
そうして、曲が終わったときはホッとする半面、もう終わってしまうのかという寂しさがある。
意識は曲の中に深くに沈んでいたけど、曲の終わりとともにゆっくりと浮上していくのがわかる。
弓とバイオリンを下してゆっくりと目を開けた。とたんに観客の人たちの熱心で好意にあふれた万雷の拍手とヴラボーの賞賛の声が耳に入ってきた。僕は僕の音楽が受け入れられたのがうれしくて、客席に向かって深くお辞儀をした。
どんどんという足踏みが足元から響く。振り返ると、共演していた団員さんたちも拍手をしてくれていて、手が楽器でふさがっている人たちが足踏みで拍手のかわりをしていた。指揮台に立っていた背の高い指揮者も、満足そうに僕に向かって拍手をしてくれていた。
僕が以前所属していて現在は名誉団員になっているフジミは、圭が今も指揮者を務めていて、10年前にフジミ音楽ホールのこけら落としと同時に正式名称を富士見二丁目交響楽団と改名して新生フジミとして以前にも増して活動している。
フジミの古参の団員さんたちは今もバリバリに元気だ。
長谷川のトンちゃんは少し前に入院したものでみんなを心配させたけど、今はすっかり元気になって、店は息子さんに任せることにして、市川さんを手伝っている。
市川の市っちゃんは、以前の事務所を定年退職したあと、フジミ音楽ホールの館長に就任している。
ヌシのような存在になっていて、ホールの掃除はもちろん簡単な補修なんかもやってくれている。遊びにやってくる古参の団員さんたちの集会所と化した事務所に陣取って毎日過ごしている。
そしてモーツァルトの石田さんは、一度年令を理由に店を閉めることも考えたそうだけど、なんとお孫さんが東京の大学に入学するために北海道からやってきて、下宿しながらアルバイトとして店を手伝うようになってくれたせいで、店を続けていくことになった。お孫さんはこの店に興味があるらしくて、店を譲ることも考えているそうな。
モーツァルトは以前は町内の常連さんや駅周辺にやってくるサラリーマンが主な客層だったけど、フジミ音楽ホールのついでにやってくる客が増えているんだそうだ。
五十嵐くん・・・・・じゃなくて春山くんが教えてくれたのは、増えてきた客はいわゆる『聖地巡礼』の人たちなんだそうな。
なんだそれ?と思ったけど、もともとはアニメからの言葉で、登場してくるゆかりのある場所を訪れて楽しむことだそう。圭のファンたちが、桐ノ院圭の指揮者として立った思い出深い場所へと足を運んでくれているってことらしい。
あ、僕のファンもそこに入っている・・・・・のか?
そして新しい団員さんは何人も増えている状態だ。邦立の音大生が数人参加している他に、フジミの演奏会を見て参加してきたという人も何人かいる。
フジミは自前の楽器さえ持ってくれば、来るものは拒まずという最初からのスタンスがあるから、垣根が低くて入りやすいせいか、ずいぶんとにぎやかになっている。
昔はまったくの初心者の人が音楽教室がわりに参加なんてことがあって、僕が弓の持ち方から楽譜の読み方まで教えていたってこともあったけど、今はそれなりにやっていた人ばかりらしい。
昔やっていたけどまたやりたくなった人とか、音楽教室には通っているけど、合奏の楽しさを味わいたいっていう人とかいろいろだ。
そんな新生フジミと桐ノ院圭オーケストラの練習場としてフジミ音楽ホールがお披露目されてから10年経ったことを記念して、フジミと桐オーケストラが合同してコンサートを開くことになったんだ。
本来であれば五月三日が正式な記念日ということになるんだけど、この企画が急に決まったこともあり、大人の事情がいくつもあってゴールデンウィークに実現できなかった。
まあ、つまりだ。
ありがたいことに桐オケのスケジュールが来年まですでに決まっていたことや、僕自身の予定も入っていたこと、それに加えて団員さんたちもGW中は家族サービスしないとまずいだろうということになった。いつもフジミに協力してくれている奥さんや子供さんたちに申し訳ないってことで、日付がずれた。
なんとか五月中にはやりたいってことでスケジュールを合わせて、五月二十日に開催が決まった。
第一部の曲目は、なつかしのアイネ・クライネ・ナハトムジーク、それから現在フジミでやっている曲がいくつか。第二部は僕のソロでチャイコフスキーのコンチェルトということで決まった。
フジミとは以前、僕がイタリア留学中にも一時帰国してやったことがある思い出の曲だ。
あの時は僕が欲しいスピードについて来られない団員さんが何人もいて、最後の方はバイオリンがバラけかけて危うく曲が止まりそうになったのを、なんとか強引に引っ張ってフィニッシュを決めた、ハラハラドキドキした曲だ。
それで、今度はリベンジをかけたいってことらしい。
引っ張られるんじゃなく、僕と競い合って曲を作り上げたいっていってくれたんだ。
そして、今。
公演の幕が上り、プログラムは進んで最後のコンチェルト。
フジミの実力は上ってきたんだなあと一緒に演奏していてよくわかった。
客席からの盛大な拍手と喝采は、リベンジが成功したことを伝えてくれていた。
何回かのアンコールと挨拶の後、名残惜しそうな拍手に送られながら僕たちは控室に戻ってきた。
汗びっしょりの圭は用意してあったタオルで汗をぬぐいながら隣で同じく汗を拭いていた僕に声をかけてきた。
「今日は特にいい出来でしたね。素晴らしかったです」
「ありがとう」
「悠季」
にっこりと笑うと、彼は僕にハグを仕掛けてきた。
そのままくちびるにキスされた・・・・・ところで僕はぐいっと彼を押し戻した。
「こらっ、公私の公だろっ!こんなとこでキスしちゃだめだって」
「失敬。先ほどの演奏があまりすばらしさに酔ってしまったようです。感激のあまりに、つい」
「つい、じゃないよ。きみの場合は確信犯だって」
「それは・・・・・」
圭が微笑みながら言葉をつなげようとしたところで、控室のドアがノックされた。
「あー、そろそろお客さんを入れようと思うんだけど、あれこれはもう済んだかい?」
ひょいとドアの隙間からマネージャー兼社長の宅島くんが顔を出してきた。
「あれこれってなんですか、宅島さん」
「はは、ボスが暴走する、とかなー」
あーあー、宅島くんもわかってる。
「・・・・・一息つきましたから、どうぞお通ししてください」
「了解」
そうして何人もの僕のサインを欲しい人たちや知り合いの人たちに入ってもらって挨拶をする。
「昔、お会いしたことがあったんですよ」
そう言ってにこにこ笑っていたのは、今日最後の客で、音大通りにある泉楽器で店員をしていたという女性だった。
あそこの店は音大生の御用達のような店で、様々な楽器の販売の他に弦などの販売や弓の毛替えもやっていたし、課題の楽譜などを扱っていたから、僕も大学で使う楽譜を買ったり、松やにとか弦を買ったりしていたし、いつも毛替えを頼んでいた。
彼女はそこで僕と会ったことがあるらしい。もっとも僕はあまり覚えていないんだけど。
「守村さんの名前を新聞で見つけてすごくうれしかったんですよぉ。ウチは音楽関係のチケットも扱ってますから、コンサートのチケットに守村さんのものが入ってきたときはとても感動しました!」
他に待っている客がいなくなったから、という気安さもあるのか、なかなか話が終わらない。
そろそろのっぽの指揮者の『早く帰りたまえ』というツンドラ光線が発射されるんじゃないかと思うと気が気じゃない。
ついに背後に気配が、と思ったらやってきたのは宅島くんだった。
「歓談中に恐れ入りますが、そろそろ閉館時間ですので、お引き取り願います」
「あっ、はぁい」
圭ほどじゃないけど、背が高くて派手目な服が好みの宅島くんの声は、言葉は丁寧だけど思わずビビリそうな迫力がある。
「それじゃあ、これからもがんばってくださいね」
しぶしぶといった様子の彼女は、ドアのところでずっと待っていたらしい男性のもとへ行き、一緒に部屋を出て行った。彼は最後にじろりと僕をにらんでいったけど、僕の方を恨むのはお門違いだ。
「なんでいつまでもしゃべってんだよ。おまけにすごく嬉しそうだったし」
ドアが締め切られない前に、そんな男性の声が聞こえてきた。
「あらぁ、いいじゃない。自分の近くに有名人が出たんだもの。友達に自慢できるんだからさぁ。さっそく写真をインスタにアップしよぉっと」
「だからってべたべたしすぎだって」
「うるさいな。なにごちゃごちゃ言ってるのよ。あと、このCDサイン入りってことでオクに出したら高値で売れないかなぁ。どう思う?」
あ、あはは・・・・・。
聞こえちゃってますよ。ミーハー丸出しだなぁ。
「まったく失礼な!こんな公共の場所でそれも本人に聞こえる場所で言うなんて、無礼にもほどがある。そのうえオークション転売ねらいなど、犯罪だぞ」
先に宅島くんがかんかんに怒ったもんで、僕のほうはちょっと冷静になった。僕としては圭に聞かれなくてほっとしている。きっと宅島くん以上にカンカンに怒っただろうから。もちろん僕としても腹が立つし不愉快なことだけど、個人の品性の問題だから放っておくしかないんじゃないかな。
「次にまたこんなことがあっては困る。ホームページで注意喚起しておきます」
宅島くんはきっぱりと言うと、ドアの方をにらんでいた。
「そのあたりは任せるよ。僕じゃどう対応したらいいのかわからないから。ところでいつの間にか部屋から消えてたけど、一番騒ぎそうな怖い男はどこに行ったんだい?」
「ああ、ボスなら俺に親方の虫よけ役を頼んでおいて、役所の職員と打ち合わせです」
「ああ、例の補助金のことかい?」
「ええ、そうです」
桐ノ院オーケストラは、スタート直後から独立採算制をとっており、スポンサーなどついていない。
一度は公益財団法人になるべく主務官庁へと申し込んだんだけど、圭が自分のマネージメントを管理するために作ったプロダクションが営利目的の団体だと思われてしまって、申請は却下されたんで、今までそのままで活動していた。
それでもなんとか赤字に陥らずに楽団は経営してきたんだけど、最近になって富士見市の方から補助金に申請しないかという打診が入ってきたんだ。
フジミ音楽ホールが出来て以来、富士見町の駅の周辺や富士見銀座の様子はとても変わった。駅から近く、大き過ぎず小さ過ぎないこのホールは、町の様々なイベントに活用されている。
もちろんフジミの練習に使うことが最優先だけど、一般にも公開されているから、ピアノの発表会や幼稚園のお遊戯会とかの他にも、趣味のダンス発表会とか講演会などにも使われている。
他にもほんの雑談から始まった【土曜日のお愉しみ】は、今も毎週土曜日の午後に開催されているけど、フジミの有志によるカルテットとか音大生によるリサイタルなんてことをやっている。桐オケの中でパーカッションとブラスの団員さんで結成されたバンドによるミニコンサートなんかも人気がある。
ブリリアントオケ時代の友人がやってきた時には、突発でミニコンサートを開いたりするし、僕も参加(時々強制参加)することもある。熱心なファンがホールでの詳しいスケジュールをネットに挙げてくれているようで、遠くからもお客さんが来てくれたりしている。
おかげで町を行く人の動きが活発なわけで、富士見銀座周辺の商店街は活気づいている。
フジミ音楽ホールは、今も火・木・土の夜をフジミの練習日として優先で使っていて、他の時間については、公平に申し込み順になっていて、ダブっての申し込みがあった場合は抽選になっている。そのあたりは昔フジミが市の会議場を借りていた時と同じだ。
フジミの練習日を優先で押さえていることを不公平だとクレームを言ってくる人が時々出てくるけど、そこはこのホールの設立趣旨を伝えて納得して貰っている。
ここで口を出してきたのが市役所だった。駅の近くの手ごろな建物だからと、市のイベントに使いたいのに予定を押さえるときに優先権を持っていない。一般と同じ扱いだ。そこで補助金を出すかわりにいくつかの枠を押さえたいという申し出だった。
駅周辺が来訪者が増えて活気を持ってきたのを知って、あわよくば桐オケとフジミ音楽ホールを富士見市の活性化のシンボルにってことで、役所のアピールに使おうと狙っているということらしい。
紆余曲折ののち、圭は幾つかの条件を相手に呑ませたうえで、市の文化活動に協力するということで公益法人の条件を満たしてオーケストラの財団法人化させ、桐オケとフジミ音楽ホールに対する市の補助金を受けることになった。
でも・・・・・いわゆるひも付きになるんだけど、圭は納得した上で受けたんだろうかと思ってたら、市からの補助金というのは、年収に影響するほどの大金じゃないらしくて、発言権は弱く、それほど問題視することもないらしい。
経営のことなんてまるっきりわからない僕は、このことに関しては黙ってみているだけで、陰ながら応援するくらいしか協力できなかったわけだけど。
「お待たせしました」
背後から深いバリトンのいい声が聞こえてきたんで振り向いた。
「お疲れさん。打ち合わせはもう済んだのかい?」
「挨拶程度でしたので。おおよその事はすでに決まっていますから」
あっさりと言ってるけど、音楽のことなんてあんまり知らない役所の人たちとの融通の利かないやり取りにずいぶんストレスをためていたのを知っている僕としては、さっきもポーカーフェイスをかぶりまくっていたんじゃないかと思う。
もっとも、そんな圭を押さえる役目の宅島くんの方がきつかったかもしれないけど。
「もう打ち上げに行かなくちゃ。みんな先に行ってるよ」
僕がファンとご挨拶している間に簡単な後片付けも済ませて、桐オケの人もフジミの人も移動していってる。みんな顔なじみだから、もう会場で和気あいあいと盛り上がっていることだろう。
「いいコンサートだったね」
「ええ、とてもいい音楽でした。フジミの人たちとの共演で、我々のオーケストラにも感じるところがあったようですし」
やはり圭は指揮者としての視点が先に来る。
「実を言いますと、今日は五月二十日ですから、きみと二人きりで記念日を祝いたい気持ちもあったのですがね」
「ん?何の記念日だったっけ?」
圭は記念日をたくさん作って覚えてるからな。僕の記憶力では把握しきれないよ。
「きみのバイオリンを初めて知った日です。河原での出会いの日ですよ。あれが僕の音楽を変えた最初のエポックですね」
「ええー。だってきみはあの頃すでにM響で副指揮者をやってただろう?僕に会わなかったってプロとして活躍していたはずだよ」
「ですが、僕がベートーヴェンの第五で苦心惨憺していたのは覚えているでしょう?もしきみに出会うことなく、フジミの音楽を知ることもなければ、いつかどこかで挫折していたのではないかと思います。
あー、酒におぼれていたかもしれません。いったいどうなっていたことか」
「まさか」
でも、そう言えば、あれは僕がイタリア留学中で、五十嵐くんが同居していた頃の話だ。五十嵐くんが心配になるくらいに荒れた生活をしていたそうで、酒瓶がたくさん転がっていたとか。
もし演奏会が殻を破るきっかけにならなかったら・・・・・どうしてただろう。
「フジミでの演奏会が僕の限界を打ち壊してくれました。今の僕があるのはきみとフジミのおかげですよ」
「それを言ったら僕なんてきみに会わなかったらプロになることもなかっただろうね。せいぜいが音楽教師になったか、それとも普通の会社勤めになって趣味のバイオリンですなんて言ってたかも」
「きみの音楽への愛情は僕が嫉妬してしまうくらいに深いものですから」
圭はそんな言葉をしみじとした口調で言った。
「時間を忘れてしまうほどの集中力や探求心を持ち合わせておられます。そしてそれはプロの演奏家になった今、いかんなく発揮されていると思います。
しかし、そんな熱い火を胸に待っているのに、もしきみが演奏家として立つことがなく趣味で終わっていたらどうなっていたか。愛情の深さは逆にきみを傷つけていたかもしれないのではないでしょうか。
僕が河原で聞いたきみのバイオリンに涙するほど感動したのは、無意識のうちにあらわれていた思うようにならない切なさや苦しみと音楽への強いあこがれに共鳴したのだと思います」
「・・・・・そう、かな」
あの頃の僕はフジミで弾くことだけが生きがいで、どうにもならない自分にいらだちとあきらめが混じった毎日を過ごしていた気がする。だから、自分の意地をとおしてプロになっていた圭に思いっきり嫉妬したんだよなぁ。
「やっぱり劇的に僕の人生を変えてくれたのはきみと出会えたおかげだよ。ありがとう、感謝してる」
誰もいないことをいいことに、僕は圭の肩を抱いてチュッとキスした。圭はちょっと複雑な表情をしながらも僕のキスにお返ししてきた。
「もっと態度で示していただけませんか?悠季」
彼は僕の腰を引き寄せてからだを密着させてきて、深いキスに誘ってきた。
・・・・・圭、なんだかかたいものが触るんだけど。
コンコン!
不意にドアがノックされた。
「おーい、そろそろ照明を落とすって言ってるぞ」
ドアの向こうで宅島くんが怒鳴ってきた。
「なんと無粋な」
圭がぶすっとつぶやいた。
「まあまあ、続きは家に帰ってからね」
「ええ、そうですね。家に帰ってから」
圭が僕の言葉をなぞったけど、意味は違うよなぁ。
含み笑いがなんだか怖いぞ。
「では、行きましょうか」
「 うん。打ち上げは『ガランドー』だったよね」
「ええ、さあ行きましょう」
圭はドアを開けて僕をエスコートしてくれた。
そうして僕たちは控室を出て歩き出した。
富士見二丁目交響楽団と桐ノ院圭オーケストラ。
僕らが出会ってから過ごしてきた日々が作り出した二つの成果。二つのオーケストラの競演を祝う場所へと。
タイトルは、もちろんベートーベンの交響曲第九からのものです。 タイトルからしてなんとか年末に、遅くても正月中に!とがんばってアップしました。 ちょっと説明っぽくなった話です。 悠季と圭がずーっと楽しく暮らしているんだろうということで、こんな話。 実は、混沌の森(裏の裏)の話が出来上がったときに、どうも重くて暗すぎるので、その口直しとして作った話ですので、甘さが薄くて軽いです。(笑) |
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2020.01.07 UP