ざくろ

柘榴






「あー・・・・・うん。君が帰ってこないのがいけないんだ。ずっと待っていたのに戻ってこないから、我慢ができなくなってしまった」

本当はもっと早く彼のもとへと行くつもりだった。もう何日も前から、圭はきっといないって心の奥であきらめてしまっていたんだから。

口に出せば真実になってしまうって思ったから、宅島君や小夜子さん、姉たちにも『大丈夫、圭はきっと生きているから!』って言い張っていたけれど。

そんな僕の気持ちをみんなわかっていたんだろう。表立っては『もう無理だ。あきらめなさい』なんて言ってこなかったけど。

自分の命を粗末にするなんてとんでもないことだとわかっていて、みんなを余計悲しませるってこともわかっていたから、ずっと迷っていたんだけど、もう四十九日。彼のそばに行くならもうリミットなんだってふと気がついたら、もう迷いは消えてしまった。

バイオリンの後始末やこの屋敷のこと、すべて書類に整えた。福島先生へのお詫びや大学への辞表も書き、フジミや姉たちへの手紙も書いた。オーケストラのことは、由之小路くんや宅島君にお任せすることにした。

すべては僕のわがままで申し訳ないとみんなに詫びて。

全部書き終えて、すっきりした気分で残りの時間を夕焼けを眺めて過ごしていた。

でも思いがけないことに、今夜圭は帰ってきてくれたんだ!

それにしても、どうして連絡もなしに帰ってきたんだ?もっと早く連絡をくれれば、どんなに安心したことか。もし帰ってくるのが明日だったら、取り返しのつかないことになっていたんだと思うとぞっとする。

「なんでもっと早く連絡をよこしてくれなかったんだよ。つらくて仕方なかったんだからな」

「申し訳ありませんでした。しかし、悠季。僕は帰ることはできなかったのです。少なくとも本来の意味では」

圭はそっと僕の手をとって甲にキスして言った。

「つまり・・・・・僕はもうこの世のものではないのです」

圭は寂しげな表情を浮かべたまま、思いがけないことを言い出した。

「じ、冗談、だよね?」

僕は笑い飛ばそうとしたけれど、顔は引きつってしまった。

「・・・・・いえ、冗談だったらよかったのですが」

「だって」

圭の言葉をさえぎり、ぎゅっと手を握り締めた。ちゃんと感触もあるし、ほらこんなにあたたかいじゃないか!

「幽霊だったら触れないはずだよ。ジョークとしてはあまり出来がよくないね」

僕の言葉に圭は少しだけ笑った。

「君がこの家に呼び入れてくれなければ入れませんでした。それに玄関に入るまで僕は君に触れなかったでしょう?この家の力を借りているので、触れるようになりましたが」

「嘘だ!」

僕は圭の首にしがみつく。そのままソファーに押し倒すと、噛みつくような勢いで圭のくちびるにむさぼりついた。

すると圭は僕のくちづけにいつものようにこたえてくれて、夢中になってむさぼっていたけど、どこかで圭の言葉が真実だと納得してしまう自分がいた。

からだを起こして圭を見つめると、いつものように穏やかに微笑んでいても、どこか人とは違う存在に思えてくる。それは僕もうすうす感じていたもので。

ただ、認めたくなくて必死で目をそらしていただけなんだ。

「君はいったい『何』になってしまったの?」

「君にもわかったでしょう?」

少なくとも圭は幽霊じゃない。でも今までのような人間のままでもない、と思う。もっとも、そんなことはどうでもいいんだ。圭がいれば!

「だったら君は僕を迎えに来てくれたんだよね。昔約束したもの。君が逝くときには僕も連れて行ってくれるって!」

そうだよ。圭が一緒に連れて行ってくれるなら、どこだっていく。たとえそれがあの世だって、地獄だって、どこでもいいんだ。

「本当にそう考えていますか?」

「も、もちろんだよ!」

「僕の話を聞いた後でも、そう誓えますか?」

そう言って、圭は事故のことを話し出した。










それは僕が欧州のオーケストラに客員指揮者として出かけたときのことだった。本来はリハーサルが行われるはずだったが、向こうの都合で午後からの時間が空いてしまった。

『やあ、ケイ。久しぶりだね!』

ホテルで時間をつぶすつもりだったところに思いがけず知り合いと出会った。

昔の恋人ではない。ほんの顔見知りだったのだが、久しぶりに会って話していて、様々な音楽情報を教えてもらうことができた。なかでも興味深かったのは、名前だけは知っていた近代作曲家の作品で、今は埋もれている名品の情報だった。

楽譜は隣町の図書館にあり、貸し出しは無理だが、直接行って許可を取ればコピーしてもらえると聞いて、僕はこの空き時間を使って出かけることにした。

「宅島、隣町まで行きますが、夕方には戻ります」

「天気が怪しくなりそうだから、気をつけろよ」

「ええ」

宅島に行く先を告げると、僕は車を借りて隣町まで走らせた。

ヨーロッパの道のいいところは道路が広く、運転しやすいことだ。その分スピードを出す車も多いが、車線が多いから問題はない。

僕は教えてもらったとおりに行き、無事図書館に到着して目当ての楽譜を手に入れた。その他にも気になる資料を見つけ、思いがけない収穫に満足しながら帰路に着いた。

しかし、問題はその後だった。

「・・・・・まずい」

ホテルを出るときに怪しげな雲行きで、図書館に到着する頃にはぱらぱらと雨が降ってきていた。しかしたいしたことはなかったから気にしていなかったのだが、図書館を出るときには雪が混じっており、道半ばの頃には完全に雪となり、次第に降りが激しくなってきていた。

この時期としては思いがけないほどの悪天候。

視界が狭くなってきたために、僕はいつもよりもさらに運転に注意しながら車を走らせていた。しかし、災難は突然やってきたのだ。

不意に激しい衝撃とけたたましい音。

気がついたときには、僕は横倒しになった車の中に閉じ込められていた。

『やっちまったぜ。マズイよな、こりゃ・・・・・』

外からそんな声が聞こえてくる。

『そこの君、車から出られないから手を貸してくれ』

僕は救助を求めたが、フロントガラスを覗き込んできた男は、そのまま後ろ向きに消えていった。

どうするつもりなのか?

そう思っていたときだった。ガクンと車が揺れ、ゆっくりと動き出す。ギギーッといやな音をたてながら車はじりじりと道路の端へと移動していく。しかしそこで止まらなかった!一瞬ふわりと浮き上がったように思え、次の瞬間一気に落下していく感覚が!

『悪く思うなよ。事故を起こしたのがバレるとまずいんだ』

気を失う直前に、そんな声が聞こえた気がした。




次に意識が戻ったとき、僕の運転していた車は雪に埋もれていた。割れたフロントガラスからは大量の雪が入り込んでいたが、そのせいでかろうじて僕が死ぬのを防いでくれていたらしい。

しかし、からだはまったく動かない。下半身の感覚は失っており、かろうじて動く右手も血にまみれていた。外はすでに夜の闇に包まれ、雪の白さがわずかにわかる程度。

助かったのか・・・・・?

しかしその幸運も風前の灯だった。必死で動かそうとしてもからだは動かなかった。どうやら事故の発覚を恐れた卑怯者の運転手は事故の通報よりも自分の過失を隠匿する道を選んだらしい。

事故車をがけから落として、そのまま逃げて行ったようだ。必死で助けの声をあげてみたが、反応はない。それでも助かるためには僕が動かなくてはならないのだ。

なんとかしてここから脱出して助けを求めにいかなくてはならない。ここで死ぬわけにはいかないのだ!悠季のもとに帰らなくては!

必死で車から脱出しようとしていた。だが、いつしか意識は朦朧としていき、雪さえふわふわの気持ちよいものに感じられてきた。

まずい!誰か助けてくれ!どんなことをしても生き延びなくては!

そんなときだった。


――――助けてあげようか?――――


突然声がかけられた。

「その声は誰だ?」



それが、メフィストフェレスとの出会いだった。






「僕は取引をしました。助けてもらう代わりに彼らの仲間になることを承諾したのです」

「それじゃ、圭は人間じゃなくなって、魔物になった・・・・・って言うの?」

「・・・・・はい」

「な、なんてことしたんだよ!そんな取り返しのつかないことを!」

「ですが僕が君の元に戻りたかったのです。きみの元に帰る事だけが僕の望みだった」

「・・・・・なんだよ、それ」

そのためだけに、圭は魔物になったというのか・・・・・?

「僕は君の元に戻って今までのような生活をするつもりでした。しかし残念ながら、それは叶いませんでした。人ではなくなった僕が人間の世界で暮らしていくことは不可能だったのです。ただ一度、君に会うことは許されましたが」

つまりそれは、僕に会うためだけに堕ちたということになるのか?なんてことを!

「・・・・・圭」

「ああ、そんな顔をしないでください。後悔してはいません」

「だって!」

「このままでは終わりませんから。必ず復活する道はあるのですよ」

にこりと微笑んでいたけれど・・・・・。どんな策が彼の頭の中にあるものか。

「ただ恐れたのは君のことでした。もしかしたら君が僕の後を追って自殺するのではないかと心配だったのです。僕が迎えに来る前に」

「えっ!それって・・・・・!」

言ったでしょう?君を一人にしないと。僕が逝くときには必ず君を連れて行くと。覚えていませんか?」

「覚えているさ!だからこそ僕は君の後を追うつもりになったんだから」

「でしたら僕とともに来てくれませんか?君のことは僕が必ず守ります」

なりふり構わない彼の必死さ。それがどんな場所であろうと圭と一緒ならかまわないではないか?

「いいよ。君についていく」

僕があっさり同意すると、意外なことを聞かされたとでいうように、圭はまばたきした。

「・・・・・いいのですか?」

「なんだい。君から言い出したのに、そんなにびっくりすることないじゃないか」

「実のところ、僕は君が拒否することを望んでいたようですね。君まで引きずり落すのは、本意ではなかった」

くしゃりと髪をかきあげ、困惑した表情をうかべている圭。確かにこれは圭だ。魔物が僕をだますためにやってきたわけじゃない。

「君に誘惑されたからついていくわけじゃない。ただ、君が僕の圭で、僕は君のものだから、一緒にいたい。それだけなのさ」

「・・・・・はあ」

魔物になるなんてイヤだと拒まれると思い込んでいたんだろうか。だから、僕がすすんで彼のもとへ行こうとすることに戸惑っている。

でも、僕の中では単純だ。

彼といっしょにいたい。

ただそれだけのこと。

「それで、僕はどうすればいいの?」

「では、これを」

圭が手を差し出すと、次の瞬間てのひらの上には赤く丸いものが乗っていた。

「柘榴?」

「そうです」

見たことのないようなつややかで真っ赤な柘榴だった。

ぱきりと二つに割ると、中には大粒で真っ赤な実が詰まっており、いくつかぽろぽろと床に落ちていくと、そのまま消えてしまった。やはりこれはこちらの食べ物ではないらしい。

「黄泉の食事を取れば戻れない、だっけ」

昔、ばあちゃんから聞いた日本神話にあったな。夫であるイザナギが亡くなった妻のイザナミを迎えに行ったけど、彼女は黄泉の食事をしていたから戻れなくなっていたって。

【黄泉戸喫】よもつへぐいですね。僕としては君をペルセポネーになぞらえたつもりだったのですが」

「ギリシャ神話かい。つまり君は冥界の王、ハーデースってわけ?」

「まあ、そんな大物になったつもりはありませんが」

「僕はペルセポネーみたいなかわいい娘じゃないし」

「愛らしい人であることは同じですよ」

「僕としては、エウリュディケーのほうがいいな。オルフェウスの妻のさ。音楽家だし。とにかく、これを食べればいいわけね。12粒以上食べないといけないのかな」

圭とのこんなやりとりは久しぶりだ。楽しい気分になりながら、僕はがぶりと柘榴の実に歯を立てた。

たっぷりと露を含んだ柘榴は甘酸っぱくておいしかったけど、果汁がのどを通っていくと、一瞬のうちに身が熱くなっていく。まるで圭に抱かれたときのようにほの暗く甘い官能が。

「ああ・・・・・!」

ため息がこぼれる。けれどその熱はすぐにひんやりとした冷たさに変わり、身の奥で凝っていくようだった。からだに力が入らなくなってぐらりと傾いでいく。

柘榴の実はぽろりと僕の手から床に落ち、ころころと転がっていくのが視界の隅に見えた。

「おっと危ない」

僕のからだは圭が受け止めてくれ、くちびるには圭のくちづけが落ちてくる。

「君のからだは変化していきます。しばし、おやすみなさい」

繭にくるまれるように意識が消える。

「君は僕のものです。愛しています、悠季」

圭の背後に黒いマントのように闇が広がっていき、僕の視界をふさいで暗黒が僕を包む。どうなってもかまわない、圭がそばにいてくれるのなら。

「僕も・・・・・愛してる」

そして、暗転。





白々と冷たい朝の光が音楽室の中を照らしていくと、誰もいない伊沢邸に電話のベルが鳴り響く。

やがて留守電になっていったが、誰もいない部屋に宅島の声がむなしく響いていくだけ。

部屋の隅に転がっていた血赤色の柘榴は時間とともにすべってきた朝の光に触れ、溶けるように消えていった。












裏の裏で柘榴を使ったのは2度目。
前回は血肉の味としての柘榴でしたが、今回はギリシャ神話がモチーフ。
ちなみに出てきた2つの話は
ハーデースにさらわれたペルセポネーは4粒の柘榴の実を食べたせいで
冬の間は地獄に留まらなくてはならなくなったという話。
もう一つは、オルフェウスは冥界に妻を迎えに行き、振り向いてはならないという約束を破り、妻を取り戻すことが出来なかったという話でした。
圭が魔物になったとして、いったいどんな魔物になったのでしょうね。
魔王だってOKような気が(笑)









2014.12/29up