しゅあんのつき
朱殷の月









その日、僕は仕事で東京郊外に出かけていた。

日帰りの簡単なもののはずだったことと、車ではカーナビが難しそうな場所だったので電車を使ってきたのだが、思いがけず時間をとってしまい、帰りは行きと同じ私鉄の終電に乗ることになってしまった。
無理をしてでも車でくればよかったと思ったのだが後悔は先に立たずというもので、仕方がない。

もっとも都心に戻ればまだ宵の口という時間なので地下鉄やJRの乗り継ぎは可能だし、もし間に合わなければ途中でタクシーを捕まえればいいと軽く考えて帰宅の途に就いた。

ここに来た時には二両だったローカル線の車両は、終電ともなると乗る乗客が少ないためか一両だけになっていた。宣伝も兼ねているらしいラッピングされたカラフルな絵が張られていて、普段ならポップな広告など無視するようなものなのに、何かが気になって足を止めた。

まだ若いアイドルらしい女の子がにっこり笑って『―――へ来てね』と誘っている。何の宣伝なのかは、ちょうど柱に隠れて見えなかったが。

ごくありふれた広告のはずなのに何が気になるのかわからないまま、意識から追いやって電車の中へ乗り込んでいった。

さあ帰ろう。悠季が待つあの家へ。

































カタタン、カタタン、カタタン、カタタン・・・・・。











リズミカルな走行音に気づいて、ふと目を上げた。

どうやら気が付かないうちに眠ってしまったらしい。普段なら公共の場で寝顔を晒すのが嫌で眠ることなどないのに、僕としては珍しい。思っていた以上に疲れていたのだろうか。

さて、どのあたりを走っているのかと窓の外を見てぎょっとなった。

行きにもこの路線を使ったからおおよその風景は記憶している。郊外の風景らしく空き地や農地があちこちに見られたが、それでも悠季の故郷の新潟などと違い、このあたりはすでに東京のベッドタウンであり住宅が多かったはずなのに、窓の外の景色はまったく違っていたのだ。

薄いもやのようなものが漂っているせいか、外の月は不気味な赤みを帯びている。灌木の茂みや休耕地なのか荒地の混じった草原は、ほの暗い赤さに染められていた。遠くにちらほらと見えるのは家の明かりだろうか。しかしその明かりも蛍光灯やLEDの明かりとは違うように思われた。

これは乗る路線を間違えたのか。誰かに尋ねようとあたりを見回したが、僕の他には誰も乗っていなかった。眠っている間に途中の駅で降りてしまったのかもしれない。

僕は立ち上がって運転席の窓へと歩いて行った。ここからなら次の駅が見えるかもしれない。だが、運転席の窓は分厚いブラインドが降りていて、運転席の内部をまったく見せない。だから、線路の先がどうなっているのかさえ分からなかった。反対側の車掌室も同様だった。

しかたなく席に戻って駅に着くのを待っていたのだが、いつまでたっても次の駅にたどり着かない。

行きの時は10分もしないうちに隣駅に到着していたはずなのだが。これはやはり行き先が違う車両に乗ってしまったようだ。
しかし乗り込んだ駅は終点で、逆向きに行くことはもちろん、支線など他に行く路線は無いはずではなかったか。

ポケットから携帯を取り出してみる。使えるかどうか?

―――ネットには繋がっているようだ。見慣れた検索ページが出てきたことに安心して、そのまま閉じた。

では、電話はどうか。

宅島のところにかけてみた。だが電話中になっていて、繋がらなかった。

では悠季に・・・・・と思ったところで、この時間では練習中かあるいは寝ているか、携帯にかけてもつながらないだろう。もともと彼は家で練習しているときには携帯を手離しているから受けてくれる確率は少ないだろう。留守電に『遅くなりますが、必ず帰ります』とだけ吹き込んで携帯を閉じた。




















タタタタン、タタタタン、タタタタン・・・・・。







音が変わった。

電車はトンネルに入っていった。間違いなく行きに乗ったときにはこのようなものはなかったと断言できる。

じりじりと胸を焼く不安のせいか、トンネルはひどく長く感じられた。

ようやく抜けると、窓の外の景色は先ほどのような灌木と荒地が混じったものに戻ったが、それはこちらの不安を増すようなものになっていた。

先ほどまでの景色のまがい物があるかのように作り物めいていて、ちらちらと木々の隙間から見える光は・・・・・あれは本当に人の作った明かりなのだろうか?

家の明かりには見えない黄緑色で、不気味さしか感じられない。

混乱しているうちに光景はまた変わった。木々が増えていき、窓の外を覆って景色をふさいでしまっていたのだ。

ふと、先ほど乗り込むときに感じた違和感の正体に思い当たった。

今までなんで思い出さなかったのか。

車両にラッピングされていたのは昨年自殺したアイドル歌手で、その死んだときの事情がスキャンダルなものだったために、女性アイドルになど興味がない僕でも彼女の名前を知っていたのだ。

あの事件のせいでどこの企業でも即刻広告を下ろしていたはずだ。まして公共の交通機関であるなら、そのまま放置してあるはずはない。それがなぜ僕が乗り込んだ車両に張られたままだったのか。


あの、『―――へ来てね』というメッセージはいったいどこへと誘う言葉なのか。


背すじに冷たいものが走る。

本来僕はこの手の霊感じみたことには縁がなかったはずなのだが。

考えられるのは、以前悠季を狙った祟り神の一件のせいで恨みを買ってしまったというあたりだろうか。だがあの神社は撤去し清めたはずで、どこにも存在していないはずだから、あれではないはず。しかし他にこのような現象を起こすものに心当たりがない。

とにかく、今はこの事態をなんとかしなければ。元の場所へと戻るにはどうすればいいのか。どうやってここから逃げ出せばいいだろう。家では悠季が僕を待っている。


必ず彼のもとに戻らなくては!






















タタン、タタン、タタン・・・・・。






電車の音が少しゆっくりになっている。窓からは線路が少しカーブしているようで、その先には駅らしいプラットフォームが明かりに照らされているのが見えた。

よかった。駅だ。ここに降りて帰り方を考えよう。


暗い林の中にゆっくりと電車は止まってドアが開いた。出口から外をのぞき込んでみると、どうやらここは無人駅らしい。薄いもやが漂う中、プラットフォームには電車を待つ休憩所と駅の看板があるくらいで、ささやかな街灯が駅であることを示している。

なんという駅だろう。

駅名が書かれた看板のあたりは照明が当たっていなくて、その上枯れた蔓のようなものがこびりついているせいで、何と書いてあるのかよく読めない。

こんな場所に降りても大丈夫なのだろうか?

いますぐ降りなければというじりじりとした焦燥感がわいているのだが、一方で頭の隅にはここはおかしいと、警戒音のように響くものがある。

迷っている間に、どんどん時間は過ぎるが、いつまでたっても発車する気配がない。

まるで何かが僕の行動を息をひそめて窺っているかのようにさえ感じられる。

だがこの不気味な電車にこれ以上乗っているのはもっと危険だろう。無人駅だから誰もいないとしても、携帯は通じているのだ。駅の外へ出てタクシーを呼べばいいではないか。

思い切って降りてしまおうと足を踏み出したとたんだった。

「ここで降りたらもう帰れなくなりますよ」

ぎくりとなって足が止まった。

ふいに背後から聞こえた声で、頭から冷たい水でもかけられた気分になった。今まで電車には誰も乗っていなかったはずだ。なのに、この言葉。

踏み出しかけていた足をさっと戻した。どういうことかと振り返ろうとした途端だった。

不意にガーッと音とともに突然ドアが閉まり、発信ベルも鳴らさずに荒々しい運転で電車は動き出した。まるで何かが獲物を捕まえ損ねて腹を立てたかのようだった。

ぐんとスピードがかかったせいで思わずよろめいてしまい、あわてて近くの手すりをつかんだ。

「よかったですね。これで家に戻れますよ」

また声がかかり、圭は思い切って振り向いた。

それまで誰もいなかったはずの席に座っていたのは、長い黒髪をおろし切れ長の目をした利発そうな女の子だった。まだ床に届かない足をぶらぶらと揺らしながら、動揺したままの圭を面白そうに見つめている。

「それはどういう・・・・・?」

「ほら、見てごらんなさい」

窓を示されので圭が顔を上げて窓の外を見て思わず息をのんだ。駅を出るとすぐに見渡す限りの広い荒野に変わっていたのだ。






一面にススキのような枯れ草が生えているただ中を電車は走っていく。窓の反対側もまったく同様だった。赤錆色の巨大な月に照らされて、赤黒くに染まった穂が風にそよいで手招きしているように見える。まるで人間の手のように。ぞっとするほど恐ろしくも美しい風景だった。



こんな場所が首都圏の近郊にあるとは思えない。間違いなくここは本来いるべき場所ではなく、異次元に迷い込んでしまっていた。






先ほど僕が降りるのをためらっていた理由もわかった。

駅にはあるべきものがなかったのだ。

風の音虫の声、そんなささいな音が聞こえていなかった。いつも小さく唸っているはずの電車のモーターの音さえ聞こえていなかった。
あるべき音が聞こえていなかったのだ。
そして、そんなことにも気が付くことが出来なかったこともまたおかしかったのだと今ならわかる。


だが、今のこの状況は助かったということなのだろうか。もしかして別のトラブルに巻き込まれてしまったのではないか。


「きみは・・・・・」

―――もしや、あの祟り神の眷属なのか。

「違いますよ」

少女は、僕が声に出す前に答えた。

「・・・・・僕の心を読んだのか?」

「読まなくてもわかりますよ。あなたの考えていることはね」

にこにこと笑いながらこたえてくれた。見かけは子供のはずなのに、その眼は深い淵をのぞかせるようで底が知れない。

「では教えてもらいたい。きみは誰なのだ?そしてこれはいったいどういうことなのか答えたまえ」

ヒトならぬものに対して、言葉がきつくなってもかまうまい。

「そうですね。まずは・・・・・今回のことはあなたの推測どおりあのものによる意趣返しというべきものです。あのものはまだこの世界に存在していますから」

「あのもの・・・・・。つまり先日悠季を引き込もうとした祟り神のことか。あいまいな物言いをしているが、あれの名はモノ・・・・・」

「名前を呼んじゃダメですって」

少女はあわてて僕を止めた。

「ボクがここにいる以上、地上のことわりとは違う力が働いているんです。この地はまだあのものの力が及ぶ場所ですから、あなたに名を呼ばれたらあれは喜んでここにやってきますよ」

「・・・・・言霊ということですかね」

言葉、特に名前には力があるという。神の名前というならなおのこと。

「ええ。ですので、同様にボクの名前もここでは言えません。ですがあなたに敵対するものでないと言っておきます」

話の続きをしてもいいですか?と子供は言って、また説明を始めた。

「祭司の末裔が社を打ち壊し祓い清めて消滅させる前に、あのものはあの場所から逃げ出して今は別の場所に存在しています。
まだ力が足りないので大きなことは出来ませんが、あなたが今夜崖のふちを歩いているのを知って、その前にちょっとした石を置いてみたというところでしょうか。
けつまづいて崖から落ちればラッキー、落ちなくてもまた次を狙えばいいという程度の」

「待ってください。僕が崖のふちを歩いていた、ですか?」

「ええ、今夜は新月です。闇に一番近い。そして星回りやこの場所の関係で、この線路は現在他の世界とつながりやすくなっていたのですよ。そこに何も知らないあなたがやってきたのを幸いに罠をしかけたのでしょうね。

あの無人駅に降りたら、あなたは此方地上から消えてしまいます。神隠しにでもあったようだと言われることでしょう。そしてもう元の世界には戻れなかった。

そうなったらあなたを失って彼は絶望したでしょうし、あのものは望みのものを手に入れたかもしれませんね」

なんということだろう。ではまだあれは悠季を狙っているのか。ならば今度こそ探し出して・・・・・。

「言っておきますが、今あのものがいるのは、あなたでも手を出せない場所ですよ」

いろいろと言えないこともあるので、ナイショです。子供はかわいらしく人差し指をくちびるの前に立てて見せた。

「そして、ボクが今回あなたに手を貸した理由ですが。あなたのパートナーに感謝してくださいね。彼がボクの住処をきれいにしてくれて縁が出来たから、あなたを助けることが出来たのですから」

「悠季が?」

いったいどういうことかと尋ねようとして、ふと気が付いた。

「もしや・・・・・きみはあの空き地の祠の主か?」

悠季が掃除をしたという、家の裏手で見つけた古びた祠の。

「ええ、そうです。今回のことはお礼とご挨拶がわりいうことですね。彼があなたのことを心配していたので手助けしたわけです。あのものの呪力よりもボクの方が力が勝っていますからね」

胸を張って得意そうに言った。ただ子供が声をかけたからドアが閉まったという単純な話ではなかったらしい。

「それだけの力があると言うのなら、以前悠季がさらわれかけた時にも手助けしてくれてもよかったのではないですか?」

皮肉めいた声になったとしてもかまわない。あのときどれほど心配したことか。

「言っておきますが、ボクだって万能じゃないんです。ボクを見つけてくれなければ存在しないことと同様なんですから。存在を知るということで繋がるんです。ですからもし彼がもっと早く社に気が付いてボクを見つけてくれていたら、あのものからも守ってあげることが出来たんですよね」

それは、このヒトとは思えない存在の加護のもとに入るということなのだろうか。今は味方として手助けをしてくれたが、本当に信用しても大丈夫なのだろうか。











タタタン、タタタン、タタタン・・・・・。






電車は小さな川を渡る鉄橋に差し掛かっていた。川の色は黒々としていて、月があるのに光を反射せずとろりと粘度のある液体のように見えたが、渡ってしまえばそこには先ほどのような違和感を感じさせるものは残っていなかった。

リズミカルな電車の走行音は、先ほどと違って軽やかに聞こえる。

「ああ、そろそろ駅に近づきましたね」

今度こそ本当の駅です。と子供は言った。

ちらりと窓の外を見ると、ごく普通の住宅街を走っていて、遠くに駅らしい明かりが近づいて来るのが見えた。

「ではボクも失礼します。ああ、そうそう。言っておかないと。あなたがボクの社を撤去してもボクは消えませんよ。ボクは大神の眷属ですから、元の場所へと戻るだけです。ですが、そうなったらあなたとも彼とも縁が切れますから、またあのものがちょっかいを出しても助けられませんけどね」




《まもなく終点―――駅に到着します》




今まで聞こえていなかったアナウンスが不意に頭上から響いた。

僕はどきりとして思わず天井に目を向け、あわてて視線を戻すと、あの子供は座っていた椅子からすうっと消えていき、バイバイと手を振っているのがかろうじて見えた。

煌々と明るい光に照らされて電車が止まったのは、間違いなくここへ来た時に乗ってきた始発駅だった。ドアが開くと、今までいなかったはずの乗客が何人も立ち上がっていた。彼らは出入口に立ったまま動こうとしない僕を不思議そうに見ながら降りていく。

そうだ、今降りて行ったのは乗り込んだ駅で先に電車の向かいの席に座っていた人だ。見覚えがあった。しかし、ついさきほどまでは確かに姿はなかったのだが。

では、やはり僕だけが他の場所へと誘いこまれかけていたというのか。

「お客さん、終点ですよ。降りてください」

呆然としている僕に車掌が声をかけてきた。恐る恐る電車を降りた僕は、何も起こらないことにほっとしながら、振り返ってみた。そこにあったのは、ポップな広告が張られた車両で・・・・・。




数人のアイドルグループらしい少年たちが商品らしいドリンク剤を持って屈託のない笑顔で笑っていた。


『元気にやろうぜ!』というセリフとともに。

















朱殷(しゅあん)とは、日本古来の赤の呼び方の一つで、時間がたった血のような暗い朱色のことです。
血の色や血染めの色など、 凄惨 な様子を表現する色として使われてきたそうです。
どうも夏になるとこの手の話が浮かぶことが多いです。
元ネタはテレビで見た本当か嘘かわからない話でした。

・・・・・使える!

見た途端に思ったことでした(爆)


ちなみに、作中で圭が恨みを買った神様の話とは、2016年に掲載した「怪談」のことです。




















2020.8/9 UP