「圭!?」
思わず周囲が振り向くような大きな声を出してしまったのはしょうがないだろう。
まさか今頃忙しいはずの人気指揮者がわざわざ会場を離れて空港に来て、僕の隣に座っているなんて、誰も思わないだろう?
「どうして君ここに来ているんだ。今頃はリハーサルじゃなかったのかい?」
もしかして、君・・・・・?
「僕が我儘を押しこんで、公演をキャンセルしてきたと思ったわけではないでしょうね」
ちらちらとからかい笑みが浮かんでいる。ああ、久しぶりの圭の笑顔。
「い、いや、そんなことは考えてないけどね」
は、はは・・・・・。
本当はちらっとそんな事を考えなかったわけでもないけどね。
僕のことをべたべたに愛してくれているこの男なら、僕の誕生日だからと言ってやりかねないな。なんて一瞬思ったから。
でも音楽に対して真摯に接している指揮者桐ノ院圭なら、恋人のためだからって大切な指揮を放り出してくるなんてことはしないはずだった。
「実は楽団のストライキのためにリハーサルが延期になっているのですよ。ですから君がこちらへ向かっている事を知って迎えにやってきたわけです」
オーケストラのユニオンが強くて事務局への要求を通すためにストライキを起こすってことは聞いたことがある。
僕のマネージャーの井上さんと圭のマネージャーの宅島君が連絡を取り合っているから、僕がここの空港に移動するっていうことは分かっていただろうけど、僕が日本行きの飛行機に乗れなくなってしまったってことは、ついさっき分かった事だ。
だから圭が会いに来ても会えたかどうか分からなかったはずなのに、わざわざ会いに来てくれたのか。
ん?いや、今彼は『迎えに来た』って言ったんじゃなかったか。
「君がプロのバイオリニストとして活躍されている姿は喜ばしい限りですが、人気が高くなりすぎて、君の誕生日を一緒に祝えなくなっているのが寂しくてたまりませんね。本来なら今日は二人きりで君の誕生日を祝っていたはずだ」
圭がなげいた。
「それは僕以上にあちこちに引っ張りだこのモテモテな指揮者さんが僕のパートナーだからさ」
圭はいつも僕の誕生日を祝ってくれたがる。でも二人のスケジュールが(特に二足のわらじをはいている僕の)が増えるに従って、すれ違いになってしまう事が多くなっていた。
なるべくお互いの予定を合わせて会えるようにしていたし、電話やメールで頻繁にやりとりをしていたけど、会えないということはやはり寂しいものだ。
圭の誕生日を祝うのは比較的楽だ。
8月はバカンスシーズンなので、音楽界にとってはオフシーズンということになっているんだ。
でも、僕の誕生月の2月はちょうどシーズン真っ盛り。コンサートの依頼が続く時期なんだ。
コンサートの依頼は中身を厳選して受けるようにと圭は言うけれど、プロとして駆け出しのバイオリニストにとっては、仕事を下さると言うのならありがたく受けなきゃならない時期なんだ。
圭もやはりサムソンに入った直後に馬車馬のように働いていたように、ある程度実績と顔を売るためには忙しくしなきゃならないようで、よほどひどい内容じゃなければ僕というバイオリニストを知ってもらうために、どこへだって依頼があれば行くことになる。
ちょっとの時間でも会いたいからとわがままを言うので、二人のマネージャーさんたちの頭を悩ませてしまうことになっているのがこのところの傾向だ。
「どうやら飛行機が欠航になったみたいだから、君のコンサートを聴きに行こうと思っていたところなんだ。会いに来てくれてちょうどよかったよ」
「そのことなんですが・・・・・」
言いかけたところで、ちょっと待ってくれと手で止めた。
そのままスーツに手を入れて取り出した携帯から呼び出し音がする。どこかから掛ってきたらしい。
「僕です。・・・・・そうですか、それはよかった。1時間後に開始ですか?ではこれから急いで戻ります」
宅島君、かな?ストライキが終わったのかも。
携帯を元に戻して圭が席を立った。
「急ぎましょう!シャトレ座に戻ります」
「えっ、な、何?」
「話は道々お話します」
何が何やら分からないまま、圭は僕の背中を押して飛行場の外へと向かっていく。
「あ、僕のバイオリンと荷物!」
「井上が運んでいます」
前を見ると、止めてあるタクシーの前に、バイオリンを持った井上さんが立っていた。
「テレビ局の方には連絡が付きまして、出演は3日間の余裕を貰いました。どうぞ、荷物はもう積んであります」
「ありがとう」
僕はタクシーの中へと押し込まれ、圭と井上さんも乗り込んで走り出した。
いったい何を急いでいるんだろう?
「どういうことなんだい?」
「君は幸運の持ち主ですよ。実は、今回のソリストの女性がインフルエンザで倒れまして、その代役に君を使ってもらえるよう宅島に交渉して貰っていました」
「ちょっと待った!僕が日本に戻ることになっていたのは知っていただろう?
向こうでインタビューに出ることになっていたし。今回はやむなく延期してもらう事になってしまったけど、それはたまたま天候が悪くなったからなんだぞ!」
「ええ、知っています。ですから幸運の持ち主だと言ったのです。
まさか僕も君と協演できるチャンスがあるとは思ってもいませんでした。ソリストの具合が悪いと聞いたときに、もし君がここに来ていたら協演できるのにと歯がみしましたよ。
君は先週ブラームスのコンチェルトを演奏したばかりなのを知っていましたのでね。
直後に井上から連絡があって、君がこちらへ向かっていると聞いてまず思ったのは、君を愛してやまないミューズたちからの要請が、君にチャンスを与えてくれたのだと信じましたよ!」
なんて、僕の都合も聞かずに押し込んじゃったのかい?
「あー、たまたまそうなっちゃったわけだけどね。でも君、宅島君に支配人を説得するような無理難題を押し付けたわけじゃないだろうね?」
「僕はほんの駆け出しコンダクターですよ。シャボワ氏に向かって意見を通せるような権限を持っているはずもありません」
って、本当はどうだかなァ・・・・・。
「それで、急いでいるってことは、宅島君が僕を押しこむ事に成功したってわけ?」
そりゃあ、シャトレ座への出演なら、M響との協演の時よりもすごい話なんだろうけど。
「はい。先ほど連絡がありまして、支配人のOKを得たそうです。
君がブラームスのソリストに抜擢されました。申し訳ありませんが、急いでいるのはオーケストラとの練習時間が迫っていて、時間が限られているためです」
そうか。ストで時間が押されているんだったなァ。
「このあと1時間後に合わせ練習を開始して、明日の午前中にリハーサル。午後にはゲネプロをやって、夜には本番となります」
「うわ!無茶すぎ」
僕には無理だ!という言葉は呑み込んだ。
以前の僕ならきっと言って断わっていたはずだ。
でも今は僕もプロのバイオリニストのはしくれで、無理難題にも応じることを期待されているんだ。
急なスケジュールにあせっているのはむしろ圭の方が大きいだろう。ブラームスの他にも幾つもの曲をオーケストラと合わせなければならないんだから。
一曲だけでも彼の手助けはできるだけの力と実績は積みつつあるんだ。『僕には無理だ』なんてビビって、一人ここで逃げるわけにはいかないじゃないか。
「君のブラームスについては呑み込んでいますが、オーケストラと合わせる必要があります。協力をお願いします」
落ちついた圭の態度と裏腹に、彼の眼の奥ではどうか断わらないでくれと必死に願っている様子がよくわかった。
「うん。僕でよかったら協力するよ。君と協演するのは楽しみだしね」
「ありがとう。感謝します」
僕はそっと井上さんに見られないように、圭の手をとった。いつもよりもひんやりとした彼の手は、彼の内心の緊張を伝えてくれた。
大丈夫だよ。そんな気持ちを込めてぎゅっと握ると、圭は柔らかく握り返してくれた。
さて、ブラームスのコンチェルトか。ロン・ティボーのコンクールの後、何回か演奏しているけれど、そのたびに新たな課題と発見が続く大曲だ。
圭との協演も以前に経験しているけど、今回彼はどんなふうに向かってくるのか・・・・・。
急遽出来た機会だけれど、彼と音楽で戦わせるのは怖くもあり、楽しみでもある。
ましてシャトレ座はロン・ティボーの時にガラ・コンサートを開いた場所だ。どれほど僕の演奏に磨きがかかったか、耳の肥えた聴衆があらを探そうとすることだろう。
僕は急いで頭の中に楽譜を引っ張り出して、さらいはじめた。
向こうに到着したらスーツケースの中から楽譜を取り出して練習開始だ。
「今回のチャンスは、ミューズたちからの贈り物なのかそれとも嫌がらせなのか分かりませんが、終了後は必ず君を取り戻して誕生日を祝ってみせますよ」
耳元でささやかれた最後の言葉は・・・・・?
えっ、僕の聞き違いじゃないよね?
覚悟しなさい・・・・・ってねぇ。
圭、お手柔らかに頼むよ?