ざわざわというざわめきが僕の背後から聞こえて来る。

聞こえてくるのはフランス語。母国語ではない言語というのは郷愁感を誘ってくるものだ。それも日本を何日も離れていて、疲れている時にはことに。

井上さんは一般の待合室ではなくて、ファーストクラスやビジネスクラスのチケットを持った客専用のラウンジ、つまりVIPルームで待てばいいと勧めてくれたんだけど、あそこは一般庶民の僕にはちょっと苦手な場所だ。

ウェイターの人たちがサービスしようと待ち構えていて飲み物や軽食を出してくれるし、人が少ないから落ち着いて座っていられるし、シャワーや仮眠室までついていて、乗る飛行機の搭乗時間には教えてくれる、至れり尽くせりの場所だ。

でも、誰かにかしずかれるって落ち着かないし、居心地が悪い。

それにも増して僕の気に障るのは、BGMとして音楽が流れていることなんだ。

たいていの場合、BGMとしてかかるのはクラシックだ。

一般の人にとってはただのBGMにしか過ぎないだろうけど、プロの演奏家として活躍するようになった僕にとって、クラシック音楽はいわゆる飯のタネであり、誰がどんな演奏をしているのか気になってしまう。

ましてそれがバイオリンだったりしたら、落ち着いていることが出来なくなってしまう。

だから僕はなるべく音楽がかかっていない場所を選ぶんだ。

一般待合室の隅にあるスタンドカフェ。

紙コップのコーヒーを片手に窓に面した席に座ると、背後のざわざわとうるさい話し声には耳をふさいで、今回のツアーのことを思い返していた。


今回僕はフランスを中心にしたあちこちの劇場やホールでコンサートやリサイタルを開いていた。

演奏自体は成功していたと思う。

拍手もブラヴォーもたくさんもらった。そして次の出演依頼を幾つも貰ったから。

けれどいざ帰ろうというときになってトラブルに見舞われた。

僕が最後に出演したのは、エミリオ先生からのお話をいただいて出演する事になった、とある音楽祭だった。

あまり大きな催しではないんだけど、昔から多くの有名な音楽家が出演していた音楽祭だから、まだヨーロッパで名の知られていない僕のような駆け出し演奏家にはとてもありがたいお話だった。

その音楽祭のトリをつとめることになったんだけど、会場の照明関係のトラブルで開始が2時間遅れてしまった。

僕を含めて出演者たちの演奏の出来はとてもよくて、アンコールを何度も受けた。

・・・・・のはよかったんだけど、終了時間が更に遅れに遅れた。

音楽祭の後はお決まりのレセプションがあって、主賓の一人である僕が抜けるわけにはいかなかったから、その夜に近くの空港から乗る筈だった日本への直行便にはとうとう乗ることが出来なかった。

日本に戻ってからの予定が入っていたから、この飛行機に乗れなかったのは痛かった。

でも敏腕マネージャーの井上さんは、僕がこの便に乗れなくなることも予想に入れていたらしく、元々乗るはずだった空港ではなくて、ド・ゴール国際空港に移動してそこから日本へ発つ深夜便に乗る方法を考えておいてくれた。

いざ空港に到着し、日本行きの便は・・・・・?と掲示板を見ると大変なことになっていた。

僕がここまで来るのに使った飛行機は少し揺れたけど、何とか無事に着陸する事が出来た。

でもその直後にさらに天候が悪化して吹雪となり、全ての飛行機の離発着がストップしてしまったんだ。

井上さんがあちこち探し回って、なんとか日本に戻る手立てを考えてくれたんだけど、どうやら天候が悪いのはここだけじゃないらしく、飛行機を見つけることは出来なかったらしい。

「こうなったらしかたないです。天気と喧嘩は出来ませんよ。今回のインタビューは延期してもらえるように頼みましょう。無理はしない方がいいです」

そう。日本に帰らなくてはならない理由とは、テレビの出演のためだった。インタビューと演奏が予定されていたんだ。他にも生徒へのレッスンが入っていたしね。

「申し訳ないですけど、そうしてもらって下さい。生徒の方には僕の方から連絡をして延期してくれるよう頼んでおきます」

「それじゃ、こちらで少し待っていてください」

井上さんは少し離れたところへ行って携帯を取り出した。

きっとテレビ局へ連絡するだけじゃなくて、宅島君に連絡を入れているんだろう。

僕の方も時計を見てから日本へと電話をかけた。

学生たちはヨーロッパの大寒波のことはニュースで知っていたそうで、僕が足止めを食って日本に帰って来られないだろうととっくに推測していたそうだ。

『こちらのことは心配しないでいいです。先生こそ気をつけて無理をしないで帰ってきて下さいね』なんて、逆に気を使って貰う始末。

スケジュールの心配がなくなって、ゆとりが出来てくると頭の隅に追いやっていて、思い出さないようにしていた事が思い浮かんでくる。

その時、僕の隣に座ったらしい人から、ふわりと圭と同じブルガリのコロンの香りがただよってきた。

でもそちらを反射的に振り向きたくなる気持ちをぐっと抑えた。

圭がここに来ている筈はないのだから、わざわざそちらを向いてがっかりすることはない。


圭は今、同じこの国にいるのだけれど。


今頃はちょうどシャトレ座でのリハーサルをやっている最中だろうか。

僕がロン・ティボーのとき、ガラ・コンサートを開いた場所だ。

僕たちがいる場所は同じフランスではあっても、距離の問題もあったし会いに行くにもスケジュール的に無理だったから、今回は彼に会いに行くのは諦めていた。

彼とは何日もすれ違いになっていて恋しくなっていたから出来れば会いに行きたかったけど、どちらも大事な仕事があったわけで、残念ながら涙を呑んで我慢していたんだ。

でもこうやって災い転じて福というか、時間の余裕が出来たわけだし、圭に会いたくてたまらなくなってきた。

彼のコンサートを聴けるのならぜひ行って聴きたい気持ちももちろんあるんだけどね。

ただ、今回のプログラムの中にブラームスのバイオリンコンチェルトがあったから、彼と他のバイオリニストがどんな演奏をするのか、ちょっと複雑な気分があったけど。

『彼とベストな演奏をするのは僕だ!』という自負がへそを曲げるんだ。

そんなことを考えながら井上さんが戻ってくるのを待っていた。

天候が回復するのを待つ間、圭のいるシャトレ座に行きたいから手配して欲しいというつもりで。

『失礼、今日もバッハ先生とのデート中ですか?』

隣りの席の男性から、突然イタリア語でそんな声がかけられて僕は飛び上がった。

言葉の内容はどうでもいい。その若々しいバリトンは間違いなく圭の声だったから。

さいおうの うま