【5】
軽やかな足取りで近づいてくるその人を見たとたんにケイの胸はざわめき、周囲から切り取られたように彼の姿がケイの目に焼きついた。
その人は暖かな大地の色の髪が風に吹かれてやや乱れていて、寒さでほんのりと血の色を浮かせた頬をしていた。唇は自然のものとは信じられないほど鮮やかな血色をしており、大きな瞳はわずかに伏せられ、長い睫毛の陰に隠れていて色は分からない。
「・・・・・なんという綺麗な人なのだろう!」
ケイは呆然と自分の前を通って神殿へと進んでいくその人の顔を、ただ見守ることしか出来なかった。
ふいに、彼が顔を上げてケイと目が合った。くっきりと大きなはしばみ色の瞳を見張って一瞬足を止めたが、顔を背けるとまた何事も無かったように神殿へと歩みを進めていく。
彼は、足取り軽く祭壇への階段を上っていくと、歌舞音曲をムーサイに捧げるために舞台の中央に立った。
片手に持ってきていた、リンネル布で丁寧に巻かれた軽そうな荷物を慎重に広げると、中からは楽器らしい美しい木の細工物が出てきた。木目も美しい、精妙に細工された楽器。
その楽器は、ケイも見たことのない珍しいものだった。おそらく遠い東方からもたらされたものなのだろうと思われた。胴は楕円形の箱型をしており、中央がややくびれている。ネックの先にはライオンらしい動物を象った模様が彫りこまれており、四つの糸巻き状の木の部品がついていた。そこから四本の弦が伸びていて、ぴんと張られている。
その楽器を彼は左の顎と肩とで支え、右手には弓と思われるものを持ちあげて、構えた。
弦がある楽器と言えば竪琴しか見たことのないケイには、弓でこすって音を出す楽器は初めてだった。
彼はおもむろに弦の音の調子を調べていた。糸巻きをねじり、隣の弦とのバランスを考えて調和した音を探し出す。まろやかで、心地よい音が周囲に響く。
その間に、周囲にいたある者は彼のそばへと行き、持っている財布の中身に応じて金貨や銀貨を、あるいは身につけていた装飾品を黙って置いてから元の位置に戻っていく。
最初はざわめいていた人々も音が響いているうちに黙り、しんと静まって、奏者が奏でる舞台は整った。
そして、突然演奏が始まった。
その一音からケイは心を鷲掴みにされるのを感じた。
彼が構えている楽器からは、様々に彩なした音が繰り広げられていく。甘い、辛い、怒り、脅し、悲しみ、哀しみ、喜び、誘惑・・・・・。
ケイの目の前には色も味も感じられるような音のご馳走が並べられているのだった。
曲の名は知らない。しかし、演奏されるどの曲もケイの心を惹きつけてやまない魅力を持っていた。
音は心の赴くままに人々の心を振り回し、好きなところへと放り出していく。その快感と苦痛に満ちた体験は、夜の帳の中で行われる秘めごとにも似て、密やかで艶かしく、何度でも味わいたくなる習慣性があった。
しかし、同時に聖なるものであり、人の心の中にある澱を洗い流し清めてくれる力を持っていた。
演奏が終ってケイが我に返ったとき、ケイの周囲にいた何人もの人が黙って涙を流していたが、それを不思議なこととは思わなかった。なぜなら、ケイの目にも同じように感動と浄化の涙が溢れ落ちていたのだから。
ケイは拍手をすることも忘れて感動に浸っていた。それがよかったのだろう。不思議なことに、聴いていた人たちは誰一人として演奏が終っても拍手を贈っていなかった。もし、ケイが拍手をすればあっという間によそ者がいると知られてしまっただろう。
ケイが周囲からの拍手がないことを不思議に思っているうちに、彼は突然楽器を下ろし自分の前に置かれていた硬貨や装飾品の類を手に取ると、祭壇の後ろへと姿を消した。
そのさりげない態度のせいで、ケイは演奏していた彼が休憩するために出て行ったのだとしか考えていなかった。聴衆が彼に拍手をするのは休憩後の演奏が終ってからするのがこの地の風習なのだろうと解釈して。
だが、それまでその場を動かなかった人たちは、奏者の姿が消えたと同時に一様にはぁっとため息を吐き出してゆっくりと立ち上がり、歩き出し、風に吹かれた木の葉のようにその場から散り散りに立ち去っていった。
「・・・・・これはどういうことだ・・・・・?」
ケイがこの言葉を言うのは何度目のことだったろう?
演奏は終ってしまったのか?なぜ彼の演奏に対して誰も拍手を贈らなかったのか?
だが、集まっていたほとんど人々が立ち去り、わずかに残っている人たちは商売やら友人とのおしゃべりやらと、別な理由で残っているのは明らかだった。
彼らには、次の演奏がないのが分かっているらしい。
ケイは急いで神殿の裏へと走っていった。演奏が終ったとしても奏者の彼はまだそこに残っているはずだった。こちらに出てこないのだから。
だが、神殿の裏へと廻ると、そこには裏へと抜けられる通路があって誰もいなかった。
ケイは彼と出会える唯一のチャンスを逃したことを知ることになった。
あわてて周囲を探し回った。それまでの経緯でケイが街の人々に尋ねても彼について答えてくれないことは分かっていたのだが、それでも諦めずに周囲にいる何人もの人たちをつかまえては尋ねてみた。
ここで演奏していたのは誰なのか?と。
「さあ。旅の楽師ではありませんかね?」
あるものは嫌々ながらにそう言い、
「どこかの誰かが勝手に演奏してたんでしょう」
と、あるものは迷惑そうに言う。
返ってくる返事はおよそ予想通りとはいえ、芳しいものではなかった。
こうなったら自分の目で見つけなければならなかった。
不審な目で見られるようになっても結構とばかりに、ケイは周辺を探し回った。けれど、ケイを一目惚れさせた音色と美貌の持ち主は、どこにも見つけることは出来なかったのだった。
ケイは彼に会いたいという想いをつのらせ、焦がれた。
ドブリスとの社交や交渉の合間を縫って、あの奏者を探し出すことに自分の時間と労力の全てを費やしたが、あの奏者に出会うチャンスは訪れなかったのだった。