ユーキは久しぶりに自分の名前を呼んでくれた男の顔を見つめていた。
儀王になって以来、彼はいつも『あの方』と呼ばれていて、〈ユーキ〉という親たちがつけてくれた名前を失っていた。その捨てられてしまった名前をこの男はいかにも大切そうに呼んでくれた。
「ぜひともお会いしたかったのですよ、ユーキ殿」
嬉しそうに自分を見ている男は本当にあの宴会のときの冷たく退屈そうな男と同じ人物なのだろうか?
実を言えば、ユーキは既にケイのことを知っていた。彼もブリガンテスからの賓客を迎えての歓迎の宴に密かに招かれていたのだ。こういう公式行事に招かれるのは儀王の特権であり義務だったから。
もっとも、ターダッドはユーキの姿を客たちに見つけられることを怖れて、ごく下座の帳の影の賓客の一行からは見えない場所に席を移してしまったので、ユーキがその場にいたことをケイは知らないだろう。
ソーケル王が壮健な頃だったら、ケイのすぐそばではなくても、儀王であるユーキにはもっと上席が用意されていただろうが。
いつものように城にやってきたユーキは、いつもの儀王の接待役と決められている召使に案内され、いつものように客から離れた席に座り、誰から話しかけられることもなく、それどころか城の者と目線があっても挨拶されることもなく、透明な空気のように扱われて、退屈で苦痛な宴が始まるのをぼんやりと待っていた。
そこにブリガンテスからの賓客だという一行が現れた。かなり遠くのせいもあって、暖炉の煙やちらちらする蝋燭の明かりでぼんやり小さくしか見えなかったが、それでも中央に座っていたケイという名の王子の姿はとても印象的だった。
隣に座っている副官らしいきびきびとした感じの男と時折話をしながら、あたりを値踏みするかのような冷ややかな視線で眺め回していた。その視線がこちらに近づくと、ユーキは帳の影に隠れ彼の目に触れないようにしていた。
このときの、彼を見たときの印象は最悪だった、と思う。
彼の並外れた長身と戦士としても優秀そうなたくましい体躯。そしてそこに招かれている者全ての心を惹きつけるカリスマ性。彼の目立つ容貌と洗練されたしぐさは、年頃の未婚の女性既婚の遊びなれた婦人たちに対するセクシャルな反応を起こさせるだけではなく、年配の戦士をも惹きつけるようなスキのないものだった。
それはユーキが理想として描いていた戦士の姿。そうなりたいと思っていても戦士になれなかった自分、なりたくても戦士を希望することすら禁じられていた自分には、羨望と嫉妬しか感じられなかった。
永遠の命を望む者は
孤高の人となれ。
糸杉を見よ。
一人気高く
空に向かって葉を広げる。
そんな、どこかで聞いた歌が脳裏をよぎっていった。
ドブリスが精一杯の準備で集めたご馳走も彼にはさほど感銘を与えなかったらしいし、隣にはべって彼をもてなそうとしていた美女たちにも粒ぞろいの小姓にも目もくれない。それどころか、この宴が退屈そのもので早く終ってくれないかとうんざりしている様子が垣間見られた。
冷ややかで動じないどころか、この国を没落して行く国だとさげすんだ目で見下しているのではないか。そう考えて彼のことを軽蔑しようとしたのだが、少人数でやって来て、いつ敵として自分に牙を剥くか分からない人々の中にあって、こんなふうに落ち着いていることが自分に出来るだろうか?と後で考えるに至って、彼のその胆力に舌を巻いた。
もう一度、彼には会っている。
彼は、ユーキがムーサイの神殿で曲を奉納しようと出かけた時に、そこにいたのだ。たまたま偶然そこに出くわしたのだろう、と思えた。
そのときの彼は冷ややかで値踏みをするような眼差しでじっとユーキを見つめており、その鋭い視線にいたたまれなくなって目をそらした。だがユーキは目をそらした自分自身に更に腹が立った。
そんな気分にさせた彼と二度と会いたくなくて、いつも帰るときとは違う裏口から帰ったのだ。もう彼とは二度と会うことはないだろうと思いながら。
ところがまた出会った。そして、今のこの彼はどうだろう?
嬉しそうにユーキの腕をつかんでいる彼は、印象よりもよほど若々しく快活で人懐こく見える。まるで子供のように手放しで喜んでいる彼は、宴会の時の彼や神殿であった時の彼とは別人に見えた。
「なぜ僕に会いたいと思ったのですか?」
悠季は用心深く尋ねた。
きっと彼は自分の国にはない儀王というものに興味を惹かれたのだろう。だが、それもほんのしばらくのことだ。やがて、周囲の反応を見て声を掛けては来なくなるだろう。儀王というのは外交の切り札にはなるはずもなく、ただこの国の古くからのしきたりの延長にあるだけのものに過ぎない。彼もユーキに利用価値がないことを知ればすぐに離れることだろう。
ユーキはもうそんなふうに何度も失望を味わわされてきたのだから。
「あなたとお話がしたかったのです。僕は音楽が好きです。あなたの奏でる音楽に魅了されてしまいました。ぜひまたあなたの演奏が聴いてみたいと思いましてお探ししていました」
「・・・・・は?」
ユーキは意表をつかれた。
まさか彼がユーキの音楽に興味を持っていたとは。
「僕が儀王だから会ってみたかったのではないのですか?」
僕がこの国で担っている役割を知って・・・・・。と続けるつもりで、やめた。どうせそのうちにおせっかいな誰かが彼に教えてくれるだろう。
「あなたを捜しているうちにあなたが『儀王』と呼ばれている人だということは知りました。ですが、それが僕があなたを知りたいと思った理由ではありませんよ」
「・・・・・あの、腕を放していただけませんか?痛いのですが」
「あ、これは失礼を・・・・・」
ケイがあわてて腕を放すと、ユーキはため息をつきながら腕をもんだ。この馬鹿力、と思いながら。ところが彼がそんなユーキのしぐさに驚くほどうろたえて心配しているので、逆にとまどってしまった。
また新たにこの男の意外な面を知った気がする。
「あの、本当に僕のリラ(Lyre)が聴きたいとおっしゃるのですか?」
「あの楽器はリラというのですか?」
「はい。あれは、昔ある楽師がこの地にやってきたときに、手ほどきを受けて楽器も譲られたものです。はるか東方から伝わってきた楽器を改良したものらしいですが」
「そうですか。東方の・・・・・」
なにやら納得した様子でうなずいていた。
「僕は肩に乗せ弦を弓でこする楽器というのを初めて聴きましたよ。実は前に東方の楽器でよく似たものならば見たことならばあります。そのときの楽器はあなたのように肩に乗せて演奏するものではなく、膝の上に立てて弾くものだったらしいですがね」
「ああ、それならばこのリラの原型、親楽器だったのかもしれませんね。この子を僕に譲ってくれた楽師が言っていましたが、これが東方から欧州に渡ってきてからさまざまな楽器に変化していったらしいです。楽器の変化と共に演奏方法も変わってきたのだとか」
「そうでしたか。あー、それでですね。・・・・・わがままを申しますが、あなたにあの楽器をまた演奏していただくことは出来ないでしょうか?ぜひまた聞いてみたいのです!」
ケイは意気込んで頼み込んできた。
「それで僕を捜していたのですか。・・・・・でも、そんなに聴いてみたいのですか?」
「ぜひ!」
その様子は幼い子供か大きな犬が尻尾を振っているかのようで、巧まざる愛嬌があってユーキを微笑ませた。
よいではないか?彼は外国人で、すぐこの地を去るのだろう。僕が彼と親しくなって話をしようが演奏を聴かせようが、王宮の誰も咎めることは出来ないだろう。
そう、思った。
そう思ったことで、ユーキは自分がどれほど人と話をすることに飢えていたかに気がついた。
「では、今はリラを持ってきていませんが、今度またこちらにいらっしゃることが出来るなら持ってきて、演奏しましょう」
「ありがとうございます!」
ケイは大喜びをし、その幼い子供のように素直な表情にユーキもにっこりと笑い返したのだった。
それは、ケイが初めて見たユーキの笑顔だった。邪気のない何の駆け引きもなく、裏をさぐるようなこともない笑顔。
彼の笑顔を見たとき、ケイはユーキに恋をしている自分に気がついたのだった。
【9】