次の日。ケイは城壁の外に出かけるつもりだったが、あいにく夜半から降り出した雨が朝になっても降り続いていた。
ユーキは雨の日には出かけないと言っていたので、あの場所に出かけても無駄足なことは分かっていた。しかし、万が一のことがあるかもしれないと気分が落ち着かず、また出会った場所へと足を運んでみた。
薬草の茂る野原は、そぼ降る雨にしんなりと頭を垂れた花たちでいっぱいだった。それはまるでユーキが今日は現れないことを知っていてがっかりしているように思えた。そんなはずはないのに、とケイは一人苦笑した。どうやら恋する男はロマンチックになるものらしい。
ケイは厚地で細かい織りのクロークをきっちりとからだに巻きつけて木の根元でユーキが現れるのを待った。油抜きをしていない羊の毛で出来たクロークは雨を通しにくいが、それでも時間が経てば木から滴り落ちてくる雫が容赦なく肩先に零れ落ちてきて冷たく沁みてくる。
まだ本格的な春になっていない今、冷たい雨に打たれていては風邪をひいてしまい、肝心な時に彼に会うことが出来なくなってしまう。
ケイはしぶしぶあきらめて、またの機会を待つことにした。
それから何日も雨が続いた。この雨は春を呼び込むためのもの。雨は大地を潤し、大地の下に眠っている植物たちを揺り動かして起こしてくれるだろう。もっとも、ケイにとっては邪魔な雨でしかなかったが。
数日後。ようやく待ちわびていた太陽が出てきて、冷えこんだ空気をしっとりと暖めてくれた。ケイはこの前出会ったときと同じ時間を足踏みしたい気分を抑えながら待ってから、あの野原に出かけた。
今日こそ彼に会える!
期待と興奮が高まっていく。この期待は彼が楽器を弾いてくれるのを聴くのが楽しみなのか、彼自身に再び会うのが楽しみなのかケイにも分からなかった。そのどちらも、なのかもしれなかった。
あの野原に行ってみると、前にも増して一面の花畑になっていた。ケイは居心地のよさそうな場所を見つけて座り、彼を待った。
ひたすら待つだけという時間は長い。特に想い人を待つ時は。
ケイはなんとなく周囲の花々を眺めていた。色も形もとりどりな花たち。彼の目の前には白い筒咲きの綺麗な花が咲いていた。何気なくむしってみると、中にしたたるようなしずくがついていた。
子供の頃にはよくサルビアの花をむしって蜜を舐めたことがある。これも蜜だろうと、ひょいと口にしようとしたときだった。
「やめなさい!死ぬつもりですか!?」
あわただしく駆け寄ってくる者があり、ケイの手を乱暴に叩いて花を捨てさせた手があった。
「は?」
ケイが呆然として視線を上げると、彼が待ちわびていたその人が、息を切らしながらケイを睨み付けていた。
「キツネノテブクロですよ。猛毒だということはあなたも知っているでしょう!?」
「ああ、キツネノテブクロ(ジキタリス)だったのですか。白い花もあるのですね。僕はピンク色に咲いているものしか知りませんでしたよ」
「あなたはうかつすぎます!ここは薬草ばかりが生えている場所なのですよ?人間にとって使える薬というのは、使い方を間違えると毒になってしまう。逆に毒も少量なら薬になる。知らない人が考えなしに手を出していい植物たちではないのです!」
「ですが、僕が口にしようとしたものは蜜ですよ?もしこれに毒があるのなら虫たちも毒でやられているはずではありませんか?」
「虫たちと僕たち人間とでは血が違うんですよ。血が暖かいものは決してこれには触れません。熊や鹿たちもこの花を食べようとはしませんよ。あなたは熊や鹿以下になりたいのですか?」
「・・・・・もうしわけありませんでした」
ケイはそう言って詫びたが、その視線はユーキのぎゅっとしかめられた眉や厳しく引き締められた口元が愛らしく感じられて思わず微笑みに緩んでしまい、心から詫びているように見えなかった。
「何をにやにやしているのですか?僕は君の身を心配しているのですよ?」
どうやら本格的に怒らせてしまったらしい。
「本当に申し訳ありません。あなたが僕のことをそれほど心配してくださったのだと知ってうれしかったのですよ」
「僕は別にあなただから心配しているわけではないんですがね!」
ユーキはぶつぶつと言ったが、まだケイが微笑んでいるのを見てとると、ふいに視線をそらして取り落としていた荷物を持ち上げた。
「楽器は無事でしたか?」
落とした荷物が楽器だったと知って、ケイはうろたえた。その楽器がユーキにとっても大切なものだということは分かっているのに。
「ええ、ここは草が茂っていますから大丈夫ですよ」
「こんな危険な毒草は抜いておいたほうがいいでしょうね」
ケイが鈴のように並んだかわいい花をつけている草の根元をつかむと、花はふるふると可憐に揺れて露をこぼした。
「待ってください!抜いちゃいけません」
「ですが、毒草なのでしょう?」
「大量に用いれば確かに毒草です。しかし、少量を使えば強心剤や利尿剤に使えるのです。ですから抜かないでください。それより、うかつに草の汁がついた指をなめたりしないでくださいね。それだけでもからだの具合が悪くなったりしますから」
ケイがキツネノテブクロをつかんでいた方の手首をつかむと、ユーキは足早に歩き出した。野原を抜け、森の小道を通っていくと、そこには小さな泉が湧いていた。
「手を洗いなさい」
ユーキの厳しい口調は相手を素直に従わせるものがあった。ケイは泉にかがみこんで水に手を浸した。泉の水は雪解けの豊富な水量とともにぴりっとしびれるような冷たさを持っていたが、それは清浄な心地よさをケイにもたらした。
「洗いましたか?では行きましょうか」
「・・・・・どこへ行くのですか?」
「森の中では音が広がってしまいますから演奏には向きません。それに僕はここで演奏することは許されていません。ですから、演奏できる場所まで移動します」
ユーキは慣れた足取りで泉の更に奥へと進んでいった。ユーキが行く道は現在は荒れ果てて使われていないが、以前は使われていた道らしかった。
大半の敷石は今ははがされ持ち去られていたが、前には敷いてあったらしい広い石畳の形跡がかすかにうかがえた。だが途中には、倒れてきたとは思えないような大きな木が道をふさいでいて、これ以上先に進むことを拒んでいてこの先に道があったことさえ消し去りたい様子が伺えた。
これは、これ以上先に行くなという『止め』のしるしなのだろうと思えた。
だがユーキは構わず倒木を乗り越え、枯れている雑草や生えかけている雑草を踏みしめて歩いていき、やがて視界が開け、貴族のものらしい大きな館が見えてきた。
ユーキは何のためらいも見せずにどんどん中へと入っていった。
ケイはここが彼の住まいなのかと考えたのだが、裏手から建物の内部に入ってみて自分の認識が間違っていることに気がついた。そこはところどころ火が入ったらしく無残に焼け落ちた廃墟だったのだ。
「ここはいったい・・・・・?」
ケイがあたりを見渡していると、広間に立ち止まってユーキが言った。
「ここでならリラを弾いても大丈夫です」
どうやら彼は何度もここに来ているらしく、焼け落ちたり朽ちたりしたものを運び出して、何とか人が居られる場所を作りあげてあったらしい。
ケイにあちこち焦げがついている大きな椅子を持ってきて座るように勧めた。その椅子には丁寧な彫刻が入っていて、そこに住んでいた人たちのぜいたくでごく趣味のよい雰囲気をうかがわせていた。
ケイがあまりに不思議そうにあちこちを見まわし、ここは何かと質問したそうな様子でユーキの方をうかがっているのを知ると、彼は肩をすくめて言った。
「ここには以前、裕福な貴族の住む館でした。しかし彼らを反逆者と告発する者があり、王がここを焼き払いうよう命じて、住んでいた人たちは全て殺されたのです」
「全て、ですか?」
「全てが、です」
【10】