【8】








――彼は儀王で、この国が栄えるのを祈るっていうのが大まかな役目だ。だからもし今度ブリガンテスが攻めてくるとなると、あの方が一番つらい思いをするだろう――
 
そう、コーワンは言った。

だがそれが具体的にどのようなことなのかは言わなかった。ケイがそのことを詳しく聞かないようにうまくごまかしていた事に、後になってからようやく気がついて舌打ちした。

 本当に秘儀があったのかどうかも分からないのに、自分は質問することをいつの間にか遠慮させられていたのだ。

 ケイが彼に恋しているのではないかとからかい、動揺している間にうまくそのあたりをあいまいにし、外交上の駆け引きに勘が働くケイの意識を逸らすことに成功し、聞かれたくないことは言わないようにしたのだ。決して嘘は言わない。しかし、全ては言わない、と。

 だが、今のケイはそのことを深く詮索する気にはならなかった。それよりもまず彼に会って、話が出来ることのほうが重要な問題であり、関心事だったからだ。

 コーワンがケイに教えてくれた場所というのは、城砦の壁のすぐ外の森と森との間隙にある野原だった。薬草が自生している場所なのだという。彼はそこで自分や子供たちのための薬草を摘んでは蓄えているのだそうだ。そこに彼が現れそうな条件の日や現れる詳しい時間を伝えてくれた。

 ケイは教えられた風のない晴れた日の午後に出かけた。野原は気持ちのよい陽だまりの中にあった。周囲を木々で囲まれているために、冷たい風が辺りから入って来ず、他の場所よりも植物の生育が早いらしく、もう春の花々が咲き始めている。

 コンフリー、ヤロウ、カモミール、ラベンダー、ヤネバンダイソウ、タチジャコウソウなどなど・・・・・。
様々な色と形の花が巧まずして豪華なタペストリーを広げていた。

「これは・・・・・素晴らしい!」

 ケイは花々の間にごろりと寝転んだ。すると顔のすぐそばにラベンダーの花が垂れてきて柔らかくくすぐりながらよい香りを漂わせてくるのがなんとも心地よい。

 この野原には一足先に穏やかな春がやってきており、やってきた者をくつろがせてくれる。空は春独特の刷毛ではいたような雲がうっすらとかかっている。ぴりっと冷たさが残る風がときどき頬をなでていくのも気持ちがいい。
その心地よさにケイは目を閉じた。ふわりと浮き上がり解きほぐされていくような気分は、ドブリスに来て以来どこか張り詰めていた気持ちがあったことを気づかせてくれた。

ああ、自分は緊張していたのか、と。

いつの間にかうとうととしていると、さわさわと草の上を歩いてくる人の気配に気がついた。ケイは戦士である以上人の気配には敏感だ。しかしその足音はごく小さくあまりに軽やかなので、子供か女性が歩いてきたように思えた。これは待ち望んでいた『ユーキ』という人物ではないだろうと思えた。どうやら街中の女性が花を摘みにやってきたらしい。

ケイは濃い緑のクロークを身にまとい、草丈の高いラベンダーの茂みの間に横たわっていたから、やって来る者にはこんなところに人間がいるとは気づかないで向かってくるらしい。そのままケイのそばを通り過ぎて行こうとしていた。

 ケイはこのうららかなよい気分を壊したくなくて、目を閉じたまま『彼女』(?)を黙ってやり過ごすつもりだった。だが、足音の特徴が近づいてくるに従って明らかになってきて、みるみるうちに覚醒していった。

やってきた人物の足音は確かに軽やかだが、子供や女性のものにしては歩幅が広い。

目を開けてみると目の前を通り過ぎていくサンダル履きの引き締まったくるぶしが見えた。上に目を上げれば膝辺りまでむき出しの素足になっている。これは長いスカートを穿いている女性のものではない。


 彼だ!


「待ってください!」

「うわっ!!」

 ケイが行過ぎそうになった相手の足首をとっさに掴むのと、ユーキが足首をつかまれて悲鳴を上げてひっくり返るのとがほぼ同時だった。

「・・・・・ああ、申し訳ありません!おけがはありませんか?」

 ラベンダーの茂みに座り込んでしまった彼は、大きく目を見開いて自分を転ばせた人間を見つめていた。

 なんて綺麗な目なのだろうか!

 こんなときでも、ケイは相手の顔を間近に見られたことに感激し、うっとりと相手を眺めていた。

 彼の目は驚きと不審とで大きく見開かれていた。ケイの顔を見つめる目には驚きしかなく、親しみは欠片もなかったが、濃いまつげに彩られた瞳はヒースからとれる甘い蜂蜜のような濃厚な琥珀色をしているのが見て取れて・・・・・
一目で惹かれた。

 彼はドブリスの人間の中でも肌の色が白い方だろう。歩いてきたためか頬にはほんのりと血の色が浮き上がり、ぽかんと開けている唇はふっくらと柔らかそうで、思わず口づけをしたくなるような綺麗な形をしている。

うっとりと彼の顔を見惚れていたケイだったが、彼がむっと口を引き締めるのを見て気がついた。

「・・・・・あの、大丈夫ですか?」

 彼は何も言いださない。怒っているのではないかということにようやく気がつき、不安になった。・・・・・そう、ようやく。

「あの、お怪我は・・・・・?」

しかし、彼からはいまだに何の返事も返っては来なかった。それどころかふうっと一つため息をつき、顔をそむけてひょいと立ち上がると、ぱたぱたと服についた葉や土を叩き落として、黙ってそのまま歩み去ろうとしていた。何事もなかったかのように。誰にも会わなかったかのように。

「待って!行かないでください!」

 ケイが急いで彼の腕をつかむとぎょっとした様子でケイの方を見た。

「あなたとお会いしたかったのです。どうか僕と少しの時間でいいですからお話していただけませんか?」

「・・・・・君は他国者なんだね」

「そうです。ブリガンテスのケイ・トゥゲストと申します」

「だろうと思った。最近ここに来た大国の王子だってね。僕も噂に聞いているよ。だったら教えておくが、僕に話しかけてはいけない。僕に触ってもいけない。それがここのしきたりだ。わかったかい?」

 そのまま立ち去ろうとする腕をあわてて掴みなおした。

「いえ、僕はブリガンテスの王子としてではなく、ケイとして、あなたとお会いしたかったのです!」

「なんで僕と話をしたいのか分からないけど、僕には関係ない。僕を引き止めるのは止めてくれ。たとえ王子であろうと、乞食であろうと、君と話をするつもりはないんだから」

掴んでいる手を離せと振り払ってみせたが、ケイは離さなかった。

「僕は一人の男として、あなたとお話がしたいと思ってお待ちしておりました。ユーキ殿!」

「・・・・・どうして僕の名を?」

 ユーキは目を見張り、それから不思議そうに目をしばたたいた。

その名前を呼んだことこそが、ユーキにとっては大きな驚きと喜びとをもたらし、彼をそこに引き止める役目を果たしていたことを、ケイは知らなかった。