「・・・・・・・・・・?」

「えっ?」

 ケイのつぶやきはあまりにも小さくて聞き取れなかった。

 と、急にユーキの視線がぐるりと回転した。びっくりしているうちに背中に衝撃があり、自分が床の上にひっくり返されてケイに圧し掛かられているのを知った。逃れようとしても、両手が押さえつけられ、下半身はケイのからだが重く抑えていて身動きする事を許さない。

 ぎょっとなったあと、手足が震えて冷たくなっていくのを感じていた。

―― 怖い!!――

 からだは確実にあの時のことを思い出す。ケイに何を言っても聞き入れてもらえなかったあの激情の夜のことを。

「ケイっ!もう僕に無理強いはしないと言ってたじゃ・・・・・!」

 悲鳴のような声が震えていた。

「ええ!!」

 悲痛な声でユーキの抗議をさえぎって彼の肩先に顔をうずめた。ユーキはびくんとからだをすくめたが、ケイは何もせずに耳元に言った。

「確かに僕はそう言いました。ですがこのままでは君は自分の責任を全て僕に押しつけ、僕を見捨てて去っていく。この暗黒の中にたった一人で置き去りにして!卑怯です!!」

「暗黒の中って・・・・・?君は明後日には王冠を頂くのだし、これからガリアの王として立派に治めていけばいいだけじゃないのか?君の未来は素晴らしいものになるはずなのに」

 ユーキはケイのからだが震えているのに気がついた。嵐に怯えてしがみ付いてくる幼子のように。

「父のやったことはそれだけではないのですよ。『海の狼』たちがこの時期ガリアに攻め込んだことさえ父の企みだったのですよ。恐ろしい敵さえ自分の野望のために駒として使ってしまう、そんな危険な手を考える男なのです。

父は、確かに僕の力を認めてくれていたのでしょう。

僕がガリアの部族を結集し、戦力を全て『海の狼』たちにふり向けるだけの求心力があると。だから危険な賭けをしたのですよ。

今の季節は海が荒れていて彼らの全勢力がガリアに集結出来ない時期です。それを狙い、全勢力がガリアに入ってこないように仕向けた上で、僕たちを戦わせて敗退させるつもりだったのです。
敵と味方の人間の命をチェスの駒のように扱って自分の思うままにしようと企んだのですよ。

そして、僕はその思惑どおりに動いてしまいました」

 ケイはため息をついた。

「そんな非常識で残酷なことを考えるのがトゥゲストの中に流れる血なのです。僕にも同じ血が流れている!」

「でも、お父さんには君が出来ると信じていたんだろう?それだけの戦略眼があるってことじゃないか」

「父は、ガリアの軍勢が負けても構わなかったのでしょうね。もし、『海の狼』に僕が率いるガリア軍が敗れれば、今度は彼らに妹を送って彼らと和平を結ぶ事も計画されていたそうですから。つもり父にとって戦いがどちらに転んでも構わなかったのでしょう。彼にとってはブリガンテスが一番重要で、ガリアの地を誰かに蹂躙されても構わないと考え、他人の血であればいくら流されても平然としていられた。
父は望みのためなら手段は選ばない人間なんです!」

「でも、お父さんは君に王位を譲ったのだから、君の手腕を認めて後を託したんだろう?だったら、君がブリガンテスの今後の方針を変えていけばいいじゃないか?綱渡りのような手段を使わずに済ませ、血を流さない外交手段を講じることだって出来るだろう?」

 ユーキの言葉にケイはぐっと息をつめた。

「・・・・・ユーキ。懺悔します」

 押し殺した声が続ける。

「僕は絶対に許せないと思いました。ガリアを『海の狼』たちの手に落ちるかもしれないような危険な手を打った父を。どんな手を使ってでも自分の望むように人間さえ動かそうとする父を。

ですが、今の僕は王太子ではあっても王ではない。軍隊も大臣たちも僕よりは父の言う事を聞く。密かに非道な命令が下されてもそれを完全に阻止することが出来ないのです。

父は次にドブリスを必ず手に入れると決めていた。僕がそれに反対してもどうしても聞き入れてはもらえませんでした。あと一手でガリア全土が意のままになりブリガンテスの支配となる。あと一人を葬れば全て支度が整うのだと。それが一人の命が購われる事になるのなら安いものだと言い放ったのですよ。

僕が反対し、抵抗してももう道は決まっているのだと言ったのです。ですから」

 ケイは更に声をひそめた。

「完全に阻止できる道を探しました。僕は父を・・・・・力で脅迫して退位させたのです」

 ケイはユーキの耳元に一気にその言葉を吹き込んだ。

 その言葉を聞いて、一瞬でユーキの顔色が青ざめた。

「つまり、僕はそんな男なのですよ。やはり僕もトゥゲストの一族の男なのです自分の目的のためには手段を選ばない」

 ケイは冷ややかに嗤った。

 ユーキはぎゅっとケイのからだを抱きしめた。絶対に言うつもりなどなかったはずの言葉を彼に言わせてしまった後悔がユーキの胸を浸す。

 けれど、ここでケイの思いを受け取ってガリアに残れば、二人にとってもガリアにとっても決してよいことはない。

 せっかく必死で自分に言い聞かせ歯を食いしばって決意したと言うのに。彼と会うべきではないという気持ちと、どうしても会いたいという気持ちの狭間で、自分の心を引きちぎられるような気持ちになっていたというのに。

「どうか行かないでください。哀れみでも同情でもいい。僕を置いて行かないで欲しいのです。どうか僕のそばにいて僕の良心になって僕を抑えていて欲しい!どうか!!」

「だって、僕が君のそばにいたらまずいんだよ!君はガリアの王になるべきなんだ!」

 ユーキが叫んだ。

「僕なんかを愛したりしないで誰かもっとふさわしい女性を王妃に迎えて、立派な王様になって欲しいんだ!」

「僕の愛しているのは君だけです!!女性など相手にする気にもなれない!」

 答えるケイの声が必死さを帯びた。

「だって、それじゃ困る人がたくさんいるじゃないか。それに、ドブリスの王家の血筋の人間がそばにいるなんて許される事じゃないはずだろ?」

 ユーキは苦しそうに言った。

「ロンディウムに着くまでにあちこちでさんざん聞かされたよ。ドブリスは古い国で、まだ昔の栄光の残照が残っている。ドブリスの次の王はガリアの王になれる可能性がもっとも高い人物だと。
だから、ブリガンテスとしてはドブリスがこれ以上過去のような力を取り戻して対抗するようになって欲しくないと考えている、とね。
 今回の戴冠式にドブリスの王の可能性がある僕が現れることは、ドブリスがどう動くつもりなのか、そしてブリガンテスに対してどう向き合うつもりなのか、いい判断材料になるだろうと噂されているのだそうだ。ドブリスは恭順するかそれともあくまで対抗し続けるのか。
君が僕を招待したって事は、そのまま火の中に栗を放り込んだようなことになりそうなんだよ」

 ユーキはため息をついてみせた。

「だからブリガンテスの人たちは警戒する。そして、ドブリスも疑ってしまう。ブリガンテスを守ろうとする者によって僕が暗殺される危険性さえあるんだと、ここへ一緒に来た者たちが疑心暗鬼になりかけている。そして、もし僕の身に何かあればすなわちそのままガリアを二分する戦いになるだろう、と怖れている」

 ケイが口を開こうとするのを押しとどめてユーキは話を続けた。

「でも、僕は君の邪魔になるつもりはまったくないんだ。ドブリスの王になるつもりはもともとなかったからね。
だから僕は君の顔を見たら、そのままこの地から消えようと思っていたんだ。君の顔をもう一度だけ自分の目に焼き付けるつもりで。
 僕がドブリスからそのまま消えるのが一番いい方法だろう?そうすれば騒動のタネはなくなるんだ。
 ユーキ・モリオスという人間は無責任でドブリスの王位を継ぐ器量はないって誰もが思うはずだから。そうすれば君は何の憂いもなくガリアの王になれる」

「ですが、それでは僕の気持ちはどうなるのですか!?」

 ケイはユーキを揺さぶった

 ユーキは手で顔を覆うとすうっと息を吸った。

「・・・・・そうだね。それがどれほどつらいかなんて僕だってよく分かるよ。・・・・・君を好きになってしまったから」

 ほとんど聞こえないほどの小さな声が早口でささやく。

「ユーキ?」

「言ってしまった。・・・・・絶対、君には言うつもりなんてなかったのにね・・・・・。馬鹿なんだ、僕は」

 指の隙間から涙がこぼれ落ちた。

【41】