「・・・・・ユーキ様、ユーキ様!」
どこかで呼ぶ声がする。もう決してこの世では目が覚めることはないと思っていたのに。
ゆるゆると重い瞼を引きあけて、ユーキは覚醒する。ゆらゆらとしたろうそくの明かりが部屋の中を照らしていた。どうやら今は夜らしかった。だがまだ視界はぼんやりとかすんでいてよく見えない。
「ああ、よかった・・・・・!ようやくお目覚めになられましたね」
ぼんやりとした人影が、ユーキのからだを抱き起こして、背中に枕を入れてくれた。
「これを飲んでください」
口元に木の椀をあてがってくれた。
椀の木の感触がかさかさに乾いた唇に痛い。けれど、椀を傾けて中からするりと冷たくて甘い飲み物が喉へと下っていくと、そんなことはすぐに忘れてしまった。
こんなに美味な飲み物は今まで飲んだ事がない!
ユーキはごくごくと喉を鳴らして飲み干してほっと息をつくと、ようやくその飲み物がただの水であることに気がついた。そして、自分がどれほど喉が渇ききっていたかにも。
ただの水がこれほど美味しかったのは、自分のからだがかなりの熱をもっているせいなのだということに考えが及んだ。気がついたとなると、頭や頬が火照っているのに、手足やからだが寒いことも気になってくる。からだの節々がきしむように痛む。だが、確かに自分は生きていた。
「・・・・・僕は、死ななかったのか・・・・・?」
声を出して、その声があまりにか細くかすれている事に驚いた。
「はい、本当によかったです!」
ユーキの視界がようやくはっきりとしてきて、自分のそばにいるのが誰なのか知った。
「・・・・・ガラン?」
「はいっ!」
ガランは嬉しそうに何度もうなずいてみせた。
「どうして僕は死ななかったんだ?あの薬酒を飲んだからにはもう助からないと思っていたのに」
「それはですね・・・・・」
ガランは言いにくそうにしていた。ユーキと目を合わさないようにして、肩に上着をかけたり背中の枕の様子を見たりと急がしそうにしていたが、ユーキがじっとこちらを見つめていて話さない事には納得してくれないことにため息をついて、渋々口を開いた。
ユーキが飲まされた薬は、成分は正式な儀式用の薬とほぼ同じだったけれど、幾つかの成分が減らされたり入れられなかったりしていたこと。そして、コーワンの与えた解毒薬が効果をもたらしたせいで、ユーキはかろうじて助かった事などを。
「ですが、本当に危なかったんすよ!ユーキ様のからだは毒と解毒薬の闘いになってしまって、高熱を出されてずーっと眠ったままだったんっす。時折、もうろうとうわごとを話されたり、ぼんやりと目を開けられたときもあったんですけど、はっきりとは意識が戻らないようだったし、熱も高いままで全然下がらなかったんで、ずいぶん心配してたんっす」
「そうだったんだ・・・・・」
ユーキはため息をついた。そう言えば、夢の中で何人もの人間が自分のそばで話していたような記憶がおぼろにある。
誰かが、『この方はもうだめかもしれません』と言っていたようなことも思い出していた。
自分の腕を持ち上げて見てみるとすっかりとやせ細ってしまっている。腕を上げようとしても力が入らない。それでも、自分が生きていることは間違いない。
「本当によかったっす!!」
ガランはぐずっと鼻をこすった。
「何度もだめかと思ったっす」
「心配をかけたね」
ユーキは少ししかしゃべっていないのに疲れてしまったことに驚いた。もう瞼がとろとろと下りてきそうだった。だが、本当に聞きたいことをまだ聞いていない。
「ねえ、ガラン。僕を助けてくれたのは・・・・・ケイ、だよね?」
「そうっすよ。ケイ・トゥゲスト様っす」
「死んだってワコウが言ったのは嘘だったのか」
「あれはワコウがみんなをだまそうとしてただけっすよ。ターダッドはケイ様を戦いの最中に卑怯にも殺そうと仕掛けて、逆に返り討ちにされたそうっすよ」
「そうだったんだ。・・・・・それで、彼はどこにいるの?」
ユーキが首を回してみたが、ガランの他には誰もいなかった。彼を助けるためにあれだけ必死になってくれた人がどうしてここにいない?
「それがっすね・・・・・。ユーキ様の容態が峠を越えたのが分かってすぐに、ドブリスを発たれました。どうやら急用でブリガンテスにお戻りになられたようなんっすけど」
遠慮がちにガランが言った。
「そう・・・・・なんだ」
「きっと、『海の狼』たちをやっつけたから忙しくなったんじゃないかと思うっすよ。なんだかあの方をガリアの王にしようって声が大きくなったらしいっすから」
「・・・・・ああそうか。そうだよね」
ユーキは、がっかりした気分のまま目を閉じた。もう疲れたからだが眠る事を要求していたのに、意識だけは冴えてくる。
・・・・・なんだか泣きたい気分。
まるで子供のように感情の押さえが利かなくなりそうだった。
「ユーキ様。寝る前に少しでも滋養があるスープを飲んでからにしてくださいよ」
「・・・・・いらない」
「だめっす!それじゃからだが回復しないっすよ。早くよくなるためにもからだに栄養をつけなくちゃ」
ユーキはため息を一つついて、スープ椀を受け取ろうとしたが、ユーキの手は力を失っているのでガランは手渡さずに器用にユーキの口へとスプーンで飲ませてくれた。
温かくて美味しいスープだった。ひと匙飲ませてもらう度に、からだの芯がほんのりと温まっていく気がして、手足に血が通っていくようだった。椀に入れられたスープ半分ですっかり満腹になって、瞼が落ちてくる。
「お休みなさいませ、ユーキ様」
ガランはほっとした様子で、ロウソクの灯りを下げて部屋から出て行ってくれた。
ユーキは闇の中に一人きりになると、思ってもどうしようもないことを考え続けていた。
ケイが故国に帰ったことを残念に思うことも、帰らないでそばに欲しいと願う事もユーキには出来ない。それは分かっている。
彼と別れるまでの間に親密な関係を――あのお互いに忘れたい夜のことを別として――結んでいたわけではなかったし、そんなことを言える権利はなかったのだから。
それでも、せめてユーキが目覚めるまでケイがここにいて欲しかった。わがままだと分かっていても、心が納得してくれない。
「ばかな事を・・・・・。彼はこのガリアになくてはならない人間だ。どうでもいい僕なんかと一緒にはいられないんだから。いつまでも僕にかまってはいられなくなったんだから」
ユーキはひっそりとつぶやいた。閉じられた瞼からつうっと涙が零れ落ちた。
「あきらめろ。あきらめるんだ」
彼は呟き続けて、そのまま眠りへと落ちていった。
昏睡ではない、からだの回復を助けるための優しい睡眠だった。
ガランはこっそりと扉を開けて部屋の中をうかがい、ユーキが眠ってくれたのを知ってほっと息をついた。
ユーキに言いたくない本当の事を、今は言わずに済ませることが出来たのだから。
ヤハンがなぜ致死毒が入っている薬酒をユーキに与えず、もっと効果の低い薬薬を与えたのか?
それは、ガランの口からは言いたくなくて、ユーキが聞き出そうとしなかったので、内心ほっとしていた真実。
正式な薬酒は犠王となった者を苦しませずに、脱力し麻痺させて意識を失わせ、そのまま命を消す目的をもった薬だった。あの薬酒を飲まされると、意識はもうろうとなり、感覚が鈍くなって苦痛もほとんど感じなくなる。殺される恐怖さえ感じなくなるのだ。
だが、ヤハンはもともとユーキに手を出したくてたまらなくて、いつも機会を狙っていた。だからこんな絶好で唯一のチャンスに、意識のない人形のようなからだのユーキにするつもりはなかったのだ。嫌がってもがくようなイキのいいユーキを抱くつもりでいたのだ。
それで、元宮廷の薬師だった男を探し出して、正規の薬よりも効き目を減らし、ほとんど麻痺が起きない薬を作るように命じて、ユーキに飲ませた。
ユーキは朦朧として覚えていないかもしれなかったが、草むらの中に引き込まれた自分のからだに何をされていたのか・・・・・?
事実を知ったケイは怒り狂って、あっさり死なせたことをひどく後悔していた。ガランはその激怒する姿を見て恐れおののいたくらいだったのだ。
「ユーキ様。どうぞゆっくりとお休みになってください。元気になられたら、また大変だと思いますから」
ドブリスの後継問題で、ユーキは重要な人間となっている。もうじきこの病室も平穏ではなくなるだろう。それまでの間だけでも、静かにからだを回復していって欲しかった。
長く厳しい冬の間、ユーキは自分のからだを回復させることに専念していた。外部からの雑音はガランやコーワンが壁となって、なるべく彼の耳に入れないようにしてくれた。
ケイはあわただしく祖国へと帰ったままだった。もうドブリスなどに興味がないのか、未だにごたごたが続いているドブリスの首都タナタスに戻っては来なかった。
ユーキはずっと彼からの便りを待ち望んでいたのだが、まるで彼に興味がなくなってしまったかのように連絡はまったくなくて、落ち込んでいた。
そこに追い討ちをかけるように難問が出現してきた。
ともすると、ユーキを次のドブリスの王にしようと考えるものがやってきてユーキを説得しようとする。あるいは、他の人間を王に据えようと考えている者が、ユーキを邪魔者としてタナタスを出て行くようにと嘆願してくるようになったのだ。出て行けと、脅迫じみたことまで言われたこともあった。
別にユーキにはドブリスの王になるつもりなどまったくなかったのだが、だからといってことの決着がつくまでこの地を離れる事も考えてはいなかった。
ユーキにはこの国の行く末を見守る義務があったのだ。彼はこのドブリスの仮王であり、次の王に王位を渡す役目を負っていたのだから。
そしてようやく厳しい寒さもゆるみ、荒野にはゴースやヘザーの花が咲くようになってくると、旅人が頻繁に出入りするようになってくる。各地からの情報が分かるようになり、健康を回復してきたユーキの元にもブリガンテスからの噂が入ってくるようになった。
「ブリガンテスの王位が移譲された?」
「そうらしいですよ。ブリガンテスではそれで大騒ぎだとか」
ユーキにその知らせをもたらしてくれたのは、現在タナタスを臨時で治めている老チューダー候の片腕として働いているコーワンからだった。
では、それが理由でケイが祖国に帰った後なんの音沙汰もなかったのかと、ユーキは考えていた。儀式やら宮廷の引継ぎやらで、ユーキに手紙を書くどころではなかったのだろう。
それはさらにユーキの気落ちを誘うものだったが。もう自分は彼の役に立つこともないし、関係はまったく無くなってしまったのだと思い知らされて。
今までだったら、それで構わなかったはずなのに、いざ自分が犠王として死ななかったとなると、彼との関係が無くなった事に未練がある自分に気がつく。
未練 なんて軽い気持ちじゃない。自分勝手な気持ちに気がつくと、さらに自己嫌悪してしまった。
もうケイに僕の気持ちを伝えるチャンスははないんだな。
・・・・・僕の気持ち?
ユーキはそう考えた事にうろたえた。いつの間に彼が心の中に住み着いてしまったのだろうか?
「そ、そうすると、ケイが王位に就いたの?」
興味深げにユーキの様子を見守っているコーワンの視線に気がついて、ユーキはあわてて物思いを止めた。
「ええ、そうでしょうね。戴冠式は暖かくなって出席する人たちが動きやすくなる初夏に、ということになっているようですが」
「そうか。それじゃドブリスも祝賀の使者を出さないとね」
「ああ、その戴冠式についてですが、ユーキ様にもご招待がきておりますよ」
「・・・・・ケイからの招待?」
「いえ、ブリガンテスからドブリスの王へのご招待です。現在は事前のお知らせという形になっていますが、まもなく正式な招待が来るでしょうね」
「僕に?僕は王じゃない。ドブリスにはなんの権限もない人間だよ?僕には関係ない話だ」
ユーキは驚いて言い返した。
「ですが、形の上でユーキ様はこのドブリスの仮王です。次の王が決まらない以上、最高責任者としての外交上の招待はあなたに来るんですよ」
そして、仮王じゃなんて、正式の王になってくださっても構わないんですがね。というコーワンのひとり言には大きすぎるつぶやきに対しては、ユーキはほほえんだままで何も答えなかった。
「ドブリスからは、ユーキ様しか行っていただく資格のある方はいないのですよ。おそらくこの戴冠式はガリア全土から諸族のほぼすべてが集まる事でしょう。ブリガンテスの王はもうガリアの王と呼んでもおかしくない存在になっていますから、ドブリスがお祝いのために行かないとなるとまずいです」
「・・・・・でも」
「ぜひ、行っていただかないと困ります」
コーワンのきっぱりした言葉に、ユーキは困惑していた。
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