ケイはいかにも不機嫌そうな表情で、戦場となるはずの地を見つめていた。
もしあと一日でも時間の余裕があれば、ブリガンテスの兵士たちをドブリスへと進めることが出来たはずだった。そして、いささか強引な方法を使ってでもユーキを儀王の地位から奪い去って、この手に取り戻すことも出来たはずなのだ。
そのための作戦はこの夏の間にきっちりと立てていた。
ユーキは親の復讐のために儀王の地位を捨てられないという。だが、親の復讐が違う方法で出来るのであれば、そして、他の子供が儀王になる必要がなくなれば、ユーキは儀王であることに執着はしないはずだった。
その矛盾を解く手段としてブリガンテスの軍隊が必要となったので密かに呼び寄せており、彼らはすぐ間近にまで近づいていたのだ。
しかし、残念な事にその軍隊の遠征目的は違うものになってしまった。突然に、『海の狼』たちが襲来したせいで、これほど早い侵攻はケイも予想していなかった。
無念だったが今現在、彼を救うためにこの軍勢を使うことが出来なかった。そんなことをすれば、このガリアは、進軍してきた『海の狼』たちにたちまちのうちに蹂躙されてしまうだろう。ユーキが自分のためだけにそんな犠牲を喜ぶはずがない。彼は自分を見捨ててもケイがガリアを救うことを願うだろう。だから、ケイは悔しさに歯を食いしばって軍勢をこの地へと進めたのだ。
ユーキの命運は、広間を出るときに密かに目配せしてきたチューダーの老人に託して・・・・・。
ケイはドブリスから脱出後、すぐに密偵から『海の狼』たちが密かにガリア侵攻のための大軍勢を動かしていることを知り、どこへ向かったのかを正確に掌握している。
今回の侵攻は、ガリアの地をブリテン人のもののままにするか、サクソン人たちに乗っ取られるかの、雌雄を決めるものとなるだろう。ブリガンテスとかドブリスという部族同士が覇権を争っている場合ではなくなっているのだ。
ケイは呼び寄せておいた軍勢の他にも急いでブリガンテスの地に残っている兵力まで全てドブリスの東に集結するように命じた。軍勢を待っている間に、タナタスやガリアのあちこちの地方からこの緊急の知らせを聞きつけた諸侯たちが共に『海の狼』と戦うために続々とケイのもとへと駆けつけてきた。たちまち軍勢はボーディガンたちに対抗できるだけの勢力にふくれ上がっていった
その中には、あのターダッド・コバーの姿も見えていたが、いくら彼が着飾り諸侯たちに次期ドブリスの王として印象づけようとしてしていても、ケイの姿と比べればまったくといっていいほど目立つものではなかった。
単騎で丘の上に立つケイの背後では、人々が行き来し、馬たちは足踏みしている賑やかな音が聞こえてくる。
最後の武器の修理に忙しい武具師たちがかなとこに打ち下ろす鎚の甲高い音がしており、矢羽職人の荷車からは弓兵たちに矢が配給されていく。
たくさんの炊事の煙が雲のように丘の上に広がっていき、馬に乗っているケイにも煙の香ばしい匂いや食べ物を煮るいい匂いが漂ってきた。
もっとも彼にはそんなものを感じられるような余裕はなかったが。
あたりは次第に暗くなっていき、風が強まってきている。ざわざわと草はなびき、明日の戦いが激しいものになることを大地も承知しているかのようだった。
「おい、不機嫌そうだな」
ケイの背後から声が掛けられた。
「チューダーのご老人。僕は今、誰とも話をする気分ではないのですが」
不機嫌そうなケイの様子にも動じず、老人はケイの騎乗する馬に自分の馬を並べた。
「まあ、そう言うな。あの方ならば今すぐに生け贄として殺されることはあるまいよ。わしの部下も見張っているからな」
「あなたの手配には感謝しております。他国者の僕では出来ない事でしたから」
「なんの。別にロバ小僧のためにしたことではないわい。この戦いの大将がしぼんでいたり心配できもそぞろに落ち着かなかったりすれば、わしの命にも関わる事だから、やったまでのこと。感謝されることではないて」
老人はそう嘯いた。
「ただし、彼の命が助かっていられるのは、この戦が大敗しない限りだぞ。もしそうなったら引き止めるどころか生贄にされる口実をあいつに与えるものになる」
「そんなことにはなりません」
「まあ、戦上手と言われた先代のブリガンテス王に引けをとらないと言われているおぬしなら、出来ようよ」
老人は楽しげにそう言った。
「今おぬしが不機嫌なのは、あの方を自分の手で救い出すことが出来なかったせいか?」
老人の言葉にケイはむっと唇を引き締めた。
「それもあります。それよりも、僕があの広間から彼の命と引き換えに逃げ出した事が腹立たしいのです。僕の方がユーキを救い出すつもりだったのに、彼をおいて逃げてしまった。彼の身が危ういというのに!」
「おぬしは自分以外の力で逃げ出したのが気に喰わんか。それではあの方の選択はおぬしに感謝もされない無駄なものになってしまうわけかの。あの方はさぞ悔しかろうて」
「悔しい、ですって!?」
「そうよ。あの方はもう少しで親の敵に一矢報いることが出来たはずだった。それをおぬしの命を救うために放棄したのだからな」
ぎょっとなってケイは無言のまま老人の方に向き直って話の先をうながした。
「王を選出し新王として認めるまでは、儀王は影の王ではなく、一時期だけ正式の王の権限を持っている。あの時おぬしを解放したようにな。彼は王を選び出す権限と王の下に届いていた懸案を採決する権限があったのだよ。
おそらく亡くなったソーケル王の手元には、モリオス家の分家がなぜ皆殺しにあったのか、なぞを解くための請願が届いていたはずで、あとは王の命令が下されるのを待っていたはずじゃて。
ソーケル王は様々なしがらみがあってその請願を受け入れることは出来なかった。だが、しがらみなど関係ない儀王殿にはそれが出来た。ソーケル王はあの方に自分に出来なかった事件の始末を頼んだのだろうよ」
宮廷に長年いるチューダーの老人には、そのあたりの裏事情を熟知することが出来たのだろう。彼はこれまであった古いいざこざをあれこれと思い返していたようだったが、ため息一つで気分を切り替えてまた話し出した。
「ソーケル王が亡くなったあの時、儀王殿が必ず彼らを殺した者たちを見つけ出し罰を与える事が出来たはずだった。コバー一族も全て宮廷から排除できたはずよ。
しかし儀王殿はおぬしを助ける代償としてコバーを新王に指名した事で、王の代行という権限を失ってしまったからのう。
つまり唯一つの、父や母を殺した者たちへの復讐のチャンスは失われたのよ。
ソーケル王が何と言っても聞きいれず儀王の座から絶対に降りようとしなかったのは、この復讐を成すためであったというのにのう・・・・・」
「それを放棄したのは僕を救うために、ですか・・・・・」
ケイはうめくように言った。
「愛されておるな」
老人はからかうように言ったが、どうやら本気でそう思っているようだった。
しかしケイにはそんな老人の慰めなど受け入れられなかった。自分の思い込みで内心ではいささかユーキを恨んでいたことを心から悔いた。傲慢にもケイは彼が自分に救いの手を差し伸べてくれた事にさえ腹を立てていたのだから。
彼がどれほどの犠牲を払って、ケイの命を大切に思ってくれたのか。
「おぬしがするべきはこの戦に勝って、早いとこあの方をあの地から救い出す事よ。ボーティガンたちなどさっさと海に追い落として終らせることだ、ロバ小僧殿。もうすぐ秋が終って寒くなる。わしは寒いのは骨にしみるのでな」
「ええ。あなたがこの冬は暖かな炉辺で過ごせる事を保障しますよ」
老人はぞんざいに手を振ると、自分の一族のもとへと馬首を巡らした。
「ご老人」
「なんだ?」
「ユーキのことを『儀王殿』や『あの方』ではなくて、名前で呼んでいただけませんか?」
「ふむ?」
老人はふんと鼻息でその提案を退けると、馬を歩ませ始めた。だが数フィート進んでから振り返って言った。
「おぬしがユーキ殿に早く会えるといいがの。ロバ小僧殿よ。早く我が手に取り戻す事だな」
そう言い捨てて自分の陣へと走り出し、ケイはその後ろ姿に向かって軽く頭を下げた。
ボーディガンたちは昨日のうちに、ソルビオダナムから数十マイルのところでカレバ街道の通っている丘陵の間の隙間へ向かって迂回した。そこを通り越してしまえばタナタスへ到達するのも間近になる。
更にタナタスを攻略する事が出来れば、ガリアを征服するための拠点が出来上がることになる。途中でそれを阻もうとする者たちがいなければ、だが。
しかしあいにくとそこには、ケイ・トゥゲストを頭としたガリア全土から集まってきた精鋭たちが彼らを阻もうと待ち受けているのだ。
翌朝、ついにガリアの運命をかけた戦いが始まった。
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