儀王の館の中に招かれ、ユーキに勧められるままに暖炉の前の椅子に座ったイダは、落ち着いた儀王の様子になんとも居心地が悪かった。あの晩の彼のむごい様子を見ているのだから、なおさらと言える。

 本当に彼はあの晩ケイ王子がしたことを恨んでいないのか?何もなかったことのように平静なのは、ただのポーズで、実は何か復讐でも考えているのではないのかと気になってくる。

「僕に何か御用だったのでしょうか?」

 儀王が澄んだ瞳をこちらに向けた。その眼差しの中には怯えも憎しみも浮かんではいない。

「これをこちらに届けるように頼まれまして」

 イダが殿下からの品物を差し出すと、彼は微笑みながら受け取った。

「これは、ありがとうございます。僕が欲しいと言ったのを覚えていて下さったのですね」

 彼は渡された果物の匂いを気持ちよさそうにかいでいる。

「ねえ、あんたはあんなことをしでかした殿下を恨んでいないのかい?」

 とっさに言葉が飛び出してしまった。あわてて口をふさいでももう遅い。

「彼がしたことについて、ですか?」

 ユーキはイダの言葉に目を見張ってみせたが、ふわりと微笑んで口を開いた。

「あなたは僕がどんな生き方をしていたのかケイから聞いていますか?」

「ああ、その、小さい頃に儀王の館に入れられて育ったくらいのことは・・・・・」

 そこでかなり孤独な立場だったらしいことも。

「僕はずっと僕を僕としてみてくれる人を待っていました。儀王となる前、祖母が生きていた頃にはユーキと呼んでくれましたが、彼女が亡くなって儀王になると僕は『あの方』になっていた。誰からもそう呼ばれていました。自分でも覚悟の上のことでしたが、それでも実際は寂しいものでしたよ。

 何人か僕を知らない旅人が、たまたま僕と出会って話しかけてくることもありましたが、それも僕が儀王であることを知るまでのこと。僕の素性を知ると黙って去っていきました。ギオウは犠王ですからね。悪運がつくとでも思ったのかもしれません。確かに、僕は半分冥府に足を入れているようなものですから」

 彼は肩をすくめて寂しそうに笑った。

「ですが、ケイは違った。僕が誰なのか知った上で、儀王ではなくユーキとして僕を見てくれた。・・・・・そして、僕を欲してくれた。
 それが非常識な手段で自分の側に置きたいと願ったからといっても・・・・・僕にはそれをとがめる事は出来ない。僕の中のどこかでそれほど求めてもらえることが嬉しい気持ちがあるのですから」

「殿下を・・・・・ケイ王子を愛している、ということですか?」

 さっとユーキは首を横に振った。それは否定するしぐさというより、聞きたくない言葉を振り払うようなものだった。

「いえ。分からないのです。僕に人を愛することが出来るのかどうかも分かりません。僕に時間はないのですから。ですが、しっかりと見定めたいと思っています。僕が彼をどう思っているのか・・・・・」

 まいったね。

イダは自分の心の中にそう呟いた。

 それは立派な愛の告白ではないのか。

 けれど、彼はそれを自覚していない。が、自覚するのも時間の問題だろう。もっとも、この恋が無事に成就するとは誰から見てもとうてい考えられないのだが。

イダはそんなふうに皮肉っぽく心の中で呟いていた。

「儀王殿。俺としちゃあ、殿下のことをきっちりすっぱり振って欲しいっていうのが本音ではありますがね。彼はあなたにめろめろだ。だがあなたは儀王の立場から降りようとはしていない。結果的にこの先彼を振るのと同じことになるのは間違いないんじゃありませんかね?」

 儀王が犠王である限り、彼にはいずれ過酷な運命が待っている。

 ふっとユーキが目を伏せた。

「分かっています。僕は彼にひどい覚悟を強いることになってしまう。ですが僕も儀王の座を引くことは出来ないのです。ですから彼にはここで出会ったひと夏の淡く楽しい思い出だけを持って、早くドブリスを去ってもらいたいと思っているのです。

・・・・・僕が生きているうちに」

 ユーキの最後の言葉はイダの心にしみた。

「生きている姿だけを知っていて欲しいというわけですかね?」

「ええ。それにソーケル王が亡くなれば、ケイの命も保障出来なくなるでしょう。ターダッドは彼を無事には帰さなくなるかもしれません。彼には早く無事に故国に帰って欲しいと思っています。彼はこのガリアにとって大切な人間ですから」

 別離の時は近いうちに来るだろう。砂時計は残酷なほどにその道へと突き進んでいるのだから。

 ユーキの真剣な表情には恋人を失う怖れだけではなく、国を思う者の心配がにじんでいるように思えた。イダはこれが儀王ドブリスの王族として、ケイが高く買っている資質なのだろうかと思った。だからこそ、彼に惹かれたのだろうか、と。
 
 ふるりと髪を揺らすと、ユーキは話題を変えた。

「ところでイダさん。少し尋ねたいのですが」

「何でしょうか?」

「ソーケル王の城の中でソホンという名前の人に逢ったことはありませんか?40歳くらいの赤毛の人物なのですが。あるいは、彼の最近の噂は何かご存知ありませんか?」

「ソホン殿ですか?名前は知っていますが、最近は見かけたことはないですね・・・・・」

「そうですか」

 ユーキはなにやら深刻な顔で考え込んだ。

「もしかして君の大切な人なのかな?」

 イダがからかうと、

「そうです。とても大切な人です」

 真剣な顔でそう返されて鼻白んだ。

 先ほどまで、ケイ王子のことを大切に思っているといった口から、他にも気にかけているものがいるという告白!?

 こりゃとんだ食わせ者かも?

 イダは内心でうなった。

「おっと、そろそろ帰らないと。それじゃ、俺はこれで失礼しますよ」

「はい。ケイ殿下に僕からの礼を言っておいて下さい。今度何か僕からお返しをしますと」

 イダはそれ以上は何も言わず、頭を下げて儀王の館を辞した。





「イダが君に何か言ったのではありませんか?」

 翌日例の花畑で待ち合わせしたケイは、ユーキに会うなり心配そうな顔でそう言った。

「いや、別に。ただ、そろそろ君もブリガンテスに帰らないとね。国で父上が心配されているんじゃないのかい?」

 穏やかな顔でユーキは言う。しかし、ケイの顔を見ての言葉ではなかったが。

「そんなことはありませんよ。父は僕以上の策謀家ですからね。僕一人を殺す事でブリガンテスが得る利益が大きいとなれば、さっさとトカゲの尻尾のように切り捨てられる男ですよ」

 ケイは腹立たしそうに周囲に生えているカモマイルの葉をちぎった。流石に以前のようにキツネノテブクロには触れないようにしている。

 季節は移り変わり、盛りだったハーブもそろそろ少なくなっていたが、吹き通っていく風はまだ冬の厳しさは持っていない。風の中にぴりっとした草の香りがするのもまだ夏なのだと思わせるものだった。

「自分の父上のことをそんなふうに言うもんじゃないよ。ほら、機嫌を直して。向こうに行こう。美味しいお茶を入れてあげるから」

 そう言うと、さっさと薬草籠を下げて歩き出した。しぶしぶケイも後をついていった。

 廃館に着くと、ユーキはミントやらカモマイルでお茶を淹れ、麦粉と蜂蜜で出来た菓子を添えた。

「さあどうぞ」

「・・・・・いただきます」

 ハーブティはさわやかな後味で、ささくれていたケイの心を解してくれる。

「ねえ、ユーキ」

「ん、何?」

 だが、ケイはその先を言おうとはしなかった。

 いつになったら君は僕を愛していると言ってくれるのでしょうか?

 その言葉は、今の穏やかな雰囲気を切り裂くものだ。白か黒か相手に決断を迫るもの。だから、待つと言ったケイの口からは言う事は出来ない。

 けれど、ケイの眼差しはユーキを息苦しくする。視線はいつも彼から離れず、彼を圧迫する。

 ユーキは迷っている。迷い続けている。果たして、ケイを愛してもいいものかどうかと。

「・・・・・すみません」

 ふっとケイが視線を外した。それだけで、ふっと息がつける気がした。それほど緊張感を知らず知らずに感じていた。

「あのね。ケイ、僕は・・・・・」

 ユーキが困った顔で口を開くと、ケイは手を上げてその先の言葉を止めた。

「いいのですよ。君はゆっくりと考えてください。考えている間は僕が君の心に住んでいるのだから。ですから急いで結論を出す必要はないのです」

「・・・・・うん」

 ごめん。とユーキは口の中で呟いた。



ダン!ダン!ダン!ダン!ダン!ダン!ダン!ダン!ダン!ダン!・・・・・・・・・・



 突然、どこかで聞きなれない音が鳴り響きはじめた。まるで何枚もの盾を叩いているような音。
 音は鳴り止まず、城壁の中からは何やら人々が騒ぎ始める声が混じりだした。

「あれは・・・・・!」

 真っ青な顔になってユーキが立ち上がった。

「どうしましたか?」

「ソーケル王が危篤という合図だ!・・・・・僕は行かないと・・・・・!」


 そう言うとケイが呼び止める暇もなく、あっという間に城の中へと走り去っていった。

【25】