ケイは、生涯その夏の日々のことを忘れることはなかった。
それはなんという黄金の日々だったことだろうか!
ケイがハーブ特有の薫り高い匂いをかいだとき、いつもその日々のことを思い出した。
高く澄み切った青空を見上げた時、ユーキと過ごした日々を思い出したのだ。
ケイはあの事件と和解の後、会えるときには出来る限りユーキと会い、様々な話をし、リラを聞かせてもらった。
それはあの儀王の館ではなく、薬草畑や、廃墟でのことが多かったが。
ユーキは聡明で、外の情報を知りたがった。彼の知っていることはこのドブリスのことだけだったからだ。
「僕の知っているのは、リラのことと薬草のことくらいだからね」
そう言って苦笑してみせたが、彼の薬草の知識はケイが驚くほど専門的なものだった。
「儀王の館にはかなり大きな薬草庫があるんだ。今は亡くなってしまったけど、とても博識な老人がそこを管理していて、僕は彼に薬草のことを教えてもらったんだ」
ユーキの話では、古くは儀王や王のため専門の薬師が館にいたのだという。今は王城に主治医がいるので王には必要なくなっているが、儀王とその候補たちのために彼は薬草庫を管理していたのだという。
「僕は特殊な立場にいたからね。他の子供たちにいじめられたりすると薬師のところにいって隠れていたりした。それで、薬草の手伝いをするようにやっていったんだ。彼が亡くなってからは僕が彼の代わりに子供たちの薬師となっていたんだ」
そう言って、幾つものハーブの名前をあげてみせた。
薄荷、立麝香草、薫衣草、迷送香、西洋鋸草、茴香、丹参・・・・・。
「このあたりなら館の子供たちの健康のために薬やら料理やらに使ってもいたんだけどね・・・・・」
そう言うと、ふっと遠い目をしてみせした。
「薬草庫の奥には子供たちが絶対触れられないように保管されている薬草なんかがたくさん置いてあるんだ。劇薬や毒草、毒虫や毒蛇さそりなどがね。薬師はとても慎重に扱っていたよ。特別の薬に使っていたからね」
「・・・・・もしかすると、老薬師は儀王が儀式の最後に与えられる薬も調合していたのではありませんか?」
ユーキは目を見張った。
「よく分かったね。以前は彼が作っていたそうだよ」
うなずいて言った。
「その薬は強い酒に混ぜて与えられる。それを飲むと、意識が朦朧となって自分が殺されようとしても抵抗しなくなる。そして何もしなくてもそのまま眠るように死ぬことになるんだ。それに、鎮静効果もあるから痛みや恐怖を感じなくなる。犠王はおとなしく処刑者の前に首を差し出すことになる」
ユーキはかわいいピンクの花にそっと触れてたわませてみせた。
「君が触ったことのある、この狐の手袋もその中に入っていた。僕は作った事はないけど、たぶん作ろうと思えば作れる。その材料は全て手元にあるから」
「そんなことを言うのはやめてください!」
「うん。僕が調合する必要がないものだからね」
そう言うと、ジキタリスの花を手放して元どおりにした。ふるりと花が可憐に揺れた。
「では君は、その薬の解毒薬も作れるのですか?」
「うん?まあ作ろうと思えば作れるけどね。でも、そんなものを作って飲ませたって意味はないよ。いずれにせよ首を・・・・・。やめよう、こんな話」
「ええ。すみませんでした」
そうして二人は別のことを話すのだった。迫り来るそのときのことを忘れようとするかのように、そのときのこと以外の様々な事柄を。
ユーキは論客としても優秀で、ケイと一歩も譲らず意見を戦わせることが出来た。それはケイにとって初めてといってもいいことだった。
彼は互いに譲らぬ激しい討論をして相手を小面憎く思っているときでも、対等のちからで話し合える相手を知りえたことを、心から感謝した。
ケイは、約束を守って必要な時以外彼に触れることはしなかった。だが、彼に会えば会うほど愛しさは募る。彼の姿を見て、彼の声を聞いて、彼の演奏を聴く。そんなささいなことが愛しい。純粋に見ているだけで愛しいと思える自分が誇らしい。
そんな幸福な日々の中にあっても、夏の穏やかさが短いように、彼にはこの平穏が長く続くないことは分かっていた。
ブリガンテスからケイへ帰国するようにと言う命令が父王から出されていたが、ケイは何かと理由をつけては帰国を延ばしていた。
最初はこの地での条約、そしてその後はタナタスの文化に興味を持ったことやドブリスと連盟している諸侯との様々な外交があるのだといい訳をして。
だが本当の理由とは、もし自分がロンディウムに帰ればもう二度とユーキに会えないのではないかという深い恐れだった。
今のところソーケル王の容態は安定しており、彼が王位を降りるという話は出てきていないし、世継ぎが誰になるのかも決まってはいない。だが、両方とも近いうちに出て来ることは明らかだ。そのときユーキの命はなくなる。だからこそ、この地を離れたくはなかったのだ。
とは言っても何もせずに手をこまねいていたわけではない。何とかしてユーキを救えないかとあれこれ模索していた。ユーキが儀王を降りようとしないのは、次の犠王を決めなくてはならず自分以外の子供を犠牲にしたくないという願いと、古くからドブリスに伝わっているしきたりが彼を縛っている。
では、そのしきたりを破るにはどうすればいいのか?ケイは、ドブリスと取り巻く諸侯との契約を探り出そうと奔走し、ユーキを救うための解決方法を探っていた。
ケイは、イケニ、ダムノニ、カムルーなどこのドブリスと同盟している諸侯たちと会っては様々な事を話し合っていた。
特にケイが会えたことを喜んだのは、その中の一人。
「よう。ロバ頭の若頭領。どうやらまだ馬から落ちて死んでなかったようだな」
「相変わらずお口の悪い。もうとっくに棺おけに足を突っ込んでおられると思っていましたよ。チューダーのご老人」
ケイに『チューダーのご老人』と呼ばれた老人は、ドブリスと同盟している諸侯の中で最年長になる。鋭い毒舌の持ち主であり、諸侯の中でも飛びぬけて勢力を持っている一族の長老だった。
以前ロンディウムで会って以来、年齢を超えて意気投合した関係であり、何かとケイにちょっかいをかけてくるうるさ方でもある。
老人はケイの言葉に大笑いした。
「ばかいえ。悪行深いお前さんよりも先に死んでたまるかいっ!ところで、今回おぬしがここに来ているのは、ドブリスの跡継ぎ問題のためか?」
「それもあります」
「・・・・・ほう?どうだ、これからわしのところに来んか?」
ケイのなにやら意味深な言葉に興味を示した老人は、ケイを自分の館へと招いて詳しい話を聞きたがった。
暖炉の中ではちらちらと緑色の炎が踊っている。どうやら老人はわざわざ香りのよい林檎の枯れ枝を火にくべてケイを歓迎してくれたらしい。
「ドブリスと同盟している諸侯とは、どのような絆でドブリスと繋がっているのでしょうか?」
「ゲッシュのことか?それはブリガンテスの跡継ぎに軽々しく話せることではないのだが・・・・・」
老人はためらった。
「ですが、事は『海の狼』が関わってくるのですが」
「・・・・・なんだと?」
ケイはコバーとボーディガン王との密約について語った。
「なんと・・・・・。それが本当なら我々も考え直さなくてはならん」
老人は思い切り顔をしかめてうなった。
「ボーディガン王がコバーとの密約を守る人柄とは聞いていません。彼は仲間の間の約束は違える事はないでしょう。しかし、敵同士との約束は破る時まで守るのだと聞いています。つまり、いつでも彼の望む時に約束は破られるのだと」
「確かにな。わしもそう聞いておる。だが、我々がドブリスとのゲッシュを破棄することは今の時点では出来ないのだ。・・・・・もしかして、おぬしもうすうすそのことを知っているのではないのか?」
老人は苦笑して、ついにドブリスとの誓いを語リ始めた。
本来これは人の口に出されないもの。だが、老人はそんな掟を破って、ケイに詳細を教えてくれたのだ。
それは遠い昔から彼らの間に合った事。諸侯とドブリス王の間で誓いとして定められていたものだった。
諸侯は、王に全ての力を貸すことを誓う。
その誓いは、王が亡くなるまで続き、新たな王が選ばれたとき、新たに誓うことになる。
誓いはドブリスとの同盟をしたもの全てが集うきまりであり、1つの部族が欠けても成立しない。
儀王はその誓いを神と王とをつなぐ見届け役として立ち会うのだ。
「だが、コバーはこの誓いのことを軽視しておる。我々がいつまでもドブリスに従属すると思っておるのだ。だが、もし彼に王位が譲られても、彼と同盟し誓いを立てられるどうか・・・・・さてどうなるやら」
老人は鼻で笑って見せた。
「ソーケル王の即位の時でさえ、われわれの中にはもう誓いを辞めて自由になってもいいのではないかという部族がいた。ソーケル王が立派な王であることを示し、われわれとの絆を大切にしてくれたからそのまま従属しておったが。
とはいえ、次の王が誰になるかいまだにはっきりと決まっておらんし、今度こそどうなるかのう。
それに、ブリガンテスの方でもこの同盟を切り崩す工作をしておったのだろう?ドブリス攻略のために」
ケイはその質問には答えず、黙って出されたワインを味わっているように見えた。
「おい、ロバ小僧。儀王殿に会った事はあるか?あの方は美人だろう?」
「・・・・・っ!」
突然の言葉は、ケイがワインにむせるのに十分だった。
「ああ、はい。ありますが・・・・・」
「ほう?その様子だといろいろありそうだな」
ケイはポーカーフェイスを引き締めたが、それは老人を更に興がらせるものだったらしい。一人でなにやら考えてはほくそえんでいた。
「まあいい。せいぜいがんばれ。わしは疲れた。年寄りは先に休む。お前の部屋はそこらにいる従者に言ってくれ。用意してある部屋に案内してくれるはずだ」
「・・・・・何をがんばれと・・・・・?」
老人は答えずに手を振ると、上機嫌な様子で自分の部屋へと帰っていった。
「・・・・・古狸」
ケイは眉をしかめてつぶやいたが、その言葉にはどこか親しみと尊敬が込められていたようだった。
【23】