ケイは浮かれた気分で城壁の中へと戻ってきた。
どうやら奥手で初心らしい儀王殿と次に会う約束を交わした上に、その約束のキスだと言って甘い口づけを一つさらってみせたのは自分でも上出来だと思った。
次はまたあの廃墟で3日後に会える。もっと頻繁に逢いたかったが、彼は許してくれなかった。
彼はなぜ日にちを決めてくるだろう?
なぜ自分が住んでいるところを教えてはくれないのだろう?
教えてもらえれば、彼の姿をかいま見られるだけでも幸福な気分を味わえるだろうに。
たとえそこに大勢の人間がいて、二人きりになれないとしても。
誰かに他人を連れて行くことを禁じられているのか?
いや、誰の影も彼の後ろに見えてはいない。
それとも、彼の住んでいる場所に誰かを入れるわけにはいかないのか?
いや、彼の会話の中にそんな禁域といった様子はなかった。
それに・・・・・。
ケイは先ほどのユーキとの会話を思い出して、何か微妙な不審感が拭えなかったことを思い出した。
それは悪意や策謀などとは縁がないように思える彼の言動の中に混じるごくかすかな違和感で、ごくかすかであるがゆえに、どうしても気になってたまらない。
だがそれは、彼が嘘をついているからというわけではなさそうだった。何かの事情を既に誰もが知っている事実としていて、それを前提にしゃべっているように思えた。
ただ単にケイが外国人であるからその事実を知らないだけであって、彼は単純に省略して話していたのだろうか?
もっとも、ケイにはそれが何なのかは皆目分からなかったが。
考えれば考えるほど、疑問は幾つもつのっていく・・・・・。
ケイがそんなことを考えながら、自分たちの宿舎と定められている建物に入ると、そこには眉をしかめ、いらいらとしながら自分を待つイダの姿があった。
「遅い!いつまで外をふらふらしているんですか!?」
「何かありましたか?」
ケイはイダのとげとげしい声にも動じず、彼の横を通り過ぎて歩いていった。
彼の頭の中にはまだ先ほどのユーキの顔や話してくれた言葉がいっぱいに溢れていた。
イダは、浮かれた顔をしてやがると呟いた。
「あるもなにも・・・・・。あなたが私に言いつけていた件がやってきましたぜ」
「ほう?すると食いついた魚がいましたか」
ケイはわずかに眉を上げてみせたが、イダの心配するほどの重大な事ではないと、表情は淡々としていた。
「お前さん。誰がやってくるかまでわかっていたんじゃないのか?」
「まさか。そこまでは分かりませんよ。ですが、きっと誰かくるはずだと思ってはいましたよ。ドブリスが置かれている状況を考えればね」
あっさりと言いながら、ケイは自分の部屋へと足早に進んでいた。その後を少し息を切らせながらイダが続く。
「それで、現れたのは誰ですか?」
「あの城の中で家令をしているというワコウというヤツだ」
「家令、ですか」
「意外そうだな。え?」
「いえ。ただ、来るとしたらターダッド・コバーの部下の・・・・・、ああ、ヤハンあたりが来るのではないかと思っていましたので」
家令とは、言わば城の財政や家政の取締役で、城内部の金銭的なこと全般を取り仕切る役目をする。本来は王の親族やごく親しい間柄の者が任されることが多い。
ケイは扉の前に立つと、心得たイダがさっと開いてケイを通した。
中では、座らずにじりじりとしながらケイを待っていたらしい男が、ケイが入ってくるのを見てぎょっとして飛び上がり、あわてて深々と頭を下げた。
「初めて御目もじ致します。偉大にして強大な王国ブリガンテスのケイ・トゥゲスト殿にはご機嫌麗しく拝察いたし、まことに重畳に存じます。ケイ殿下の勲功の大いなる噂はこの地にまで広く伝わっておりまして、母のかいなに抱かれる乳飲み子からあの世への船を待つ炉辺の老人までとどろいていることははなはだ稀有なことと存じ上げます。このたびはドブリスにいらっしゃられました殿下のご尊顔に拝することが出来まして、大いなる栄誉だと思っており・・・・・」
「君はモリオス王の家令だとここにいるイダから聞きましたが?」
ケイはこれ以上いつまでも彼の立て板に水のような儀礼的な言葉が続くのを嫌って、途中で言葉をさえぎった。
「はい。わたくしめはモリオス家の家令、ワコウと申します。どうぞお見知りおき下さいますよう、謹んで・・・・・」
「どうぞ奥へ。今飲み物を運ばせましょう」
ケイは部屋の奥に置いてある椅子へと彼をいざなうと、さっさと自分用と決めている椅子へと座った。
気取ったしぐさでケイの前の椅子に座った男は、生白い顔に青い髭剃りあとがひどく目立つ男だった。ケイに向かってちらちらと上目遣いの卑屈な笑みを浮かべている様子は、どこか油断がならない人間にも見える。
「イダ、ワインを持ってきてくれるように言ってもらえますか?」
ケイはそんな観察をしていたことなどおくびにも見せずに、イダに命じた。
「承知致しました」
イダが廊下に控えている召使に命じている間、ケイは客の方を見なかった。自分の前に座った客が早く会見に入りたくてじりじりとしているのを承知の上で。
召使がワインの入った壷とカップを持ち込んで、ケイとワコウとイダのカップになみなみと注いで置いて出て行くと、ついに我慢が出来なくなったのか、ワコウは身を乗り出して話し出した。
「申し訳ありませんが、内密でお話したいことがありますので、ご家来の方には・・・・・」
そう言うと、ちらりと部屋の隅に控えているイダの方を見た。イダはといえば、まったく聞えない振りでワインの味を味わっているようだった。
「ああ、その男なら私の腹心ですので、心配ありません。どうぞこのまま、お話し下さい」
「・・・・・ですが・・・・・」
男はためらっていたが、ケイが話の先を促しているのを知って渋々話し始めた。
「殿下は、・・・・・通称『海の狼』と呼ばれている者どもの、最近の噂をご存知でしょうか?」
「『海の狼』ですか。それはまた物騒な話になってきましたね」
『海の狼』とは、ヴァイキング、つまりノルマン人のことを指す。幾つもの部族が大陸に広く住んでいる。夏は農業、冬は船を仕立てて沿岸各地を略奪して回る恐るべき戦士たちのこと。
彼らはチャンスがあればガリアへと侵攻しようと虎視眈々と狙っている。
歴代のガリア支配者は、彼らをガリアに上陸させることを阻止するために多大な労力を払っていた。ロウムもまた大陸に面した海岸には防壁を築き、ルトピエには大きな軍事要塞を築いて大勢の兵士を常駐させて彼らの侵入に備えた。
ロウムがガリアから撤退しルトピエ城砦の火が消えた後、ガリアの覇権を巡って争う者たちもお互いにいがみ合っていてもこの『海の狼』と同盟を結ぶことだけはしなかった。
『海の狼』と同盟を結ぶと言う事は、つまり自分の首に絞首刑の縄をかけることと同じことだと知っているからだ。彼らをガリアに招き入れたら最後、この地は彼らヴァイキングの領地となって支配される事になるだろう。
「実は、彼らと同盟を結ぼうとする動きがあります」
「ほう?」
「・・・・・もしや、ケイ殿下はご存知だったのですか?」
ワコウはケイの平静さに驚いて見せたが、ケイのポーカーフェイスはここでも有効だった。内心の驚愕を腹に収めて更に相手から情報を聞き出すために、続きをうながした。
「いえ。それで、向こうに話を持ちかけたのは、ターダッド・コバーですか?」
「そ、そうです」
「それほどコバーが愚かだったとは知りませんでしたね」
ケイがそっとつぶやいた。
「実は彼には『海の狼』を同盟だけにしておとなしくさせておく秘策があるのだそうです」
ケイは無表情でワコウに話を先にすすめるようにうながした。
【15】