翌朝は雲が多いながらも晴れていて、二人でドライブに出かけるには良い天気だったのだが、朝食を運んできてくれた部屋係の話では午後から天気がくずれるそうで、あまり数多くの場所を回れないようだ。

「どこかお勧めの観光スポットはありますか?」

地元民ならではのお勧めがあるだろうか。

「それでしたらちょっと離れていますが、S島はいかがですか?」

部屋係の話では、なんでも人気アニメのモデルになったらしいという人気スポットなのだそうだ。なるほどその場所は気がつかなかった。

悠季のバイオリンはフロントの金庫に預けることが出来たので、僕たちは手ぶらで気ままなドライブにでかけることにした。

自然に近い情景に仕立てたというイングリッシュガーデンの庭園を見て回ったり、古い町並みが残る通りをぶらぶらと散策したりした。

老舗だという蕎麦屋で昼食をとり、次はどこに行こうと店を出ると、次第に雲が厚くなっていく気配がする。これは雨が近いか。

「雨が降りそうですから、このあとは美術館に行きますか?」

「うーん、美術館はちょっと違うような気がするなぁ。島の方が行ってみたいかも。もし雨が降っても車の中に傘があるし、バイオリンが濡れる心配はしなくていいし」

「ではそうしましょう」

島へ行くフェリー乗り場をナビで探して車を走らせ、チケットを買って待合室で待っていると、さほど待つことなく船がやってきた。どうやら雨が近いこともあって、乗り込む客は少ないようだ。

ほどなく船が出港し島に向かったのだが、あいにく雨は待ってくれなかったようで、島に入港する前にポツポツと振り出し、すぐに本降りとなってしまった。

島に着くとそこには傘を持っていなかったらしい大勢の人たちが観光を切り上げて船を待っていた。

船に乗るため桟橋へと急ぐ人々の流れと逆に、僕たちは島の散策コースへと歩き出した。

びっしりと苔や蔦が生えた石の壁やレンガ積みのアーチトンネルなど昔の遺構が綺麗に整備されている。時折見える横穴には元兵舎や弾薬庫跡などとプレートが貼られていた。誰もいない道をゆっくりと見て回る悠季の表情から、ここはどうやら琴線に触れるものがあったらしい。

島の頂上まで行くと高射砲の跡だという丸いコンクリートの形跡があり、海や対岸の景色が見える見晴らし台があった。残念ながら雨に煙っているせいで、海以外はほとんど何も見えなかったが。

悠季は傘の下、何か僕の目には見えないものを見つめているかのようなまなざしで見つめていた。真剣な横顔がとても美しい。

やがてふぅっとひとつ息をつくとこちらを振り向いてきた。思索の海から戻ってきたらしい。

「ほったらかしにしてごめんね」

「いえ、かまいませんよ。何かつかめましたか?」

「うーん、もうちょっとだと思うんだけどねぇ。何かつかんだと思ったんだけどつかみきれなくて」

「ホテルでバイオリンを受け取って、そのまま家に帰りますか?」

悠季がバイオリンで思いついたことを試したいなら帰った方がいいかもしれない。

「ええー。そんなことしなくていいよ。その、せっかく二人きりのデートなんだからさ。予定通り宿に泊まろうよ。冷えてきちゃったしね」

雨は小降りになってきているようだが、日が傾いてきたせいもあって温度が下がってきたようだ。

「宿に戻って温泉であたたまりましょうか」

「そうだね」

来た道を戻り、ほとんど客のいない船で元の港へと戻った。








そのまま車で宿へと戻った頃には雨はすっかり上がっていた。綺麗な夕焼けに染まる中、二人して本館にある広い風呂に入りに行った。ここは部屋の風呂と違った凝った庭で、だんだん暮れていく庭を鑑賞しながらゆっくりあたたまった。

夕食は風呂から上がってすぐに準備された。昨夜とは違う献立になっていて洋風懐石ということらしい。料理の盛り付けに感心し、美味しいと楽しそうに食べていても、今の悠季はどこか上の空だ。

彼の頭の中では先ほどの島でのイメージを追っているのだろう。その証拠に昨日と違って勧めても酒を飲まなかったのだから。

ちらちらと先ほどフロントから受け取ってきたバイオリンに視線を向けているのは無意識のものか。それとも僕に気を使っているのか。やはり帰宅した方がよかったのだろうか。

「失礼します。お下げしてもよろしいでしょうか」

部屋係を呼んで食器を下げてもらっていたのだが、ふいに庭の方から何かの動物の鳴き声らしいものが聞こえてきた。

「あれは?」

「ああ、たぶん鹿でございますねぇ。最近は山から下りてくるのか、時たま宿でも聞かれることがあるようになりまして」

部屋係はここまではやって来ないから大丈夫なのだと言って、心配性の僕を安心させて下がっていった。

「きみのバイオリンを聞きたいとやって来たのかもしれませんよ」

「ええ、まさかぁ。僕のバイオリンを聞いたって病気が治るはずもないしさ」

おや、今夜は宮沢賢治のたとえですか。

「しかしきみはバイオリンを弾きたいのでしょう?ここで弾いても問題ありませんよ」

「えっと・・・・・そう見えてたかい?」

頭をかいて困惑した表情を浮かべていたが、バイオリンを弾かないとは言い出さなかった。

「ここは離れですから音を出しても問題ないそうですよ。気のすむまでどうぞ」

「・・・・・その、本当にいいのかい?」

申しわけなさそうな上目づかい、歯切れの悪い返事は僕に対する遠慮だろう。

「僕はここでたった一人という極上の観客となっていますよ。片手には酒。綺麗な月にライトアップされた庭、それにきみの演奏。贅沢の限りだ。もし鹿が聞きに来たら静聴するように言い聞かせます」

「あは、それじゃあお言葉に甘えて。本当に鹿のお客さんが来たらよろしくね」

にっこりと笑った悠季は、いそいそとバイオリンに向かった。


調弦し、スケールで指を慣らし、小手調べにバッハの『G線上のアリア』を弾き始めた。そして続いて弾いたのは本命のバーバーではなく、フォーレの『夢の終わりに』だった。

これは今回のコンサートツアーでアンコールに弾いてきた曲だった。手慣れた曲だから指慣らしのために弾いたのかそれともイメージを固めるために思いついた曲を弾いているのか。どちらなのかとあれこれ考察していると何やら庭の方から人の声が聞こえる。どうやら鹿ではなくて人間がやってきたらしい。

悠季の集中が途切れてしまうのを恐れて、僕はそっと席を立つとテラスに置かれていた庭下駄をはいて声のする方向へと向かった。



声の主はバイオリンの音色を騒音だと抗議しにやって来た無粋な者か、それとも好奇心にかられて覗き見にきた無礼者か。

庭の仕切りでもある生垣には目立たないようにされた切れ目があった。庭の手入れをする従業員が出入りするためのものだろう。

そこから出ていくと他の離れへとつながるらしい通路があり、僕らと同じホテルの浴衣を着た人たちがなにやら小声で言い争っている。

痩せているが矍鑠として姿勢のいい、いかにも頑固そうな雰囲気の老人は耳に手をかざしてバイオリンの音を聞く態勢になっており、隣りでは老人の袖を引いて困り顔で説得している品の良い老婦人。このお二人はご夫婦なのか。

老人の方はどこかで見たことがあるような気がするのだが、記憶力のよいはずの僕の頭の中で該当する人物が出てこない。

「あなた、いい加減にしてくださいな。こんな覗き見のような真似は失礼ですよ。相手のかたもご迷惑ですからもう部屋に帰りましょう」

「静かにせんか、聞こえなくなる。わしは中をのぞいているわけではないぞ。散歩中の途中にここでちょっと一休みしているだけだ」

老人の苦し紛れの言い訳はなかなかにお茶目だ。

それに、老人の言葉は僕の記憶の琴線に触れた。この言葉はあの時の・・・・・。

どうやらこのお二人はクレーマーでも出歯亀でもないらしく、純粋に悠季の演奏に惹かれたクラシックファンといったところか。

ならば中に招待しても構うまい。

普段なら悠季の練習の邪魔になるようなことはしないのに、不思議なことにそのときの僕は部屋に招き入れることに疑問を感じていなかった。

「あなた、ですからそんな屁理屈は・・・・・あっ!」

ご夫人の方が僕を見つけたらしく声を上げた。そのまま謝罪しようとするつもりなのか、口を開いたところで僕は手を上げて止めた。口の前に人差し指を立てて沈黙を促すと、夫人は両手で自分の口をおさえ、こくこくとうなずいた。

その子供のような愛らしいしぐさに思わず口元がほころぶのを感じながら小声で告げた。

「今弾いている曲は指慣らしのための曲です。このあと彼が弾く曲はイメージを固めるための練習弾きのコンチェルト曲で、オケが付いていませんし、まだ完成形ではないそうです。それでもよろしければご一緒にどうぞ」

庭の方へといざなった。

「承知した。お招きを感謝する」

庭にやって来た僕が盗み聞きをしていたことをとがめもせずに誘ってきたことに驚いた様子だったが、僕の前に立った老人は端正なお辞儀をし庭へと入る道へと歩き出した。夫人の方も丁寧な礼をしてから続いて入って来たので、二人にはテラス席に座ってもらい、僕は元の場所に戻った


ちょうどフォーレの曲が終わったところで、いよいよ本題の『バーバーのバイオリンコンチェルト』が始まった。






ああ、なんて美しい。



悠季はまだ未完成だと言っている。しかし僕にはバーバー作品のもつ豊かで華麗な旋律が十分表現できていると思うのだが、完璧主義者の彼はまだ何かが足りないと考えているらしい。

第三楽章まで一気に弾いてバイオリンを外すと、はあっとため息をついて弓を下ろして弦を緩めた。今夜はこれで終わるつもりなのだろうか。まだ考えに気を取られている様子のままこちらを向いて、テラス席に客がいることに気が付いて固まった。

「えっと・・・・・あの?」

どういうことなのかと説明を求める視線を僕によこした。

「ああ、練習中のところを余計なものが乱入してお邪魔することになってしまい、大変失礼しました」

僕が悠季に説明を開始する前に老人が謝罪してきた。

「わしは隣の部屋に宿泊している水無瀬顕三と申します。こちらはわしの妻です」

「幸恵と申します」

「あ、はい、どうもご丁寧に。守村悠季です」

「実は不思議なバイオリンの音色を聞きつけまして、年甲斐もなくどうしても我慢できずに部屋を飛び出して盗み聞きしてしまいましてな。不審者だととがめられても当然なところを、こちらの方にお招きいただきまして聞かせて頂きました」

僕の方にも頭を下げてきたので、僕も礼を返した。

「桐ノ院圭と申します」

「もしかして、桐院堯宗氏の縁者のかたかな?」

「桐院堯宗は僕の祖父です」

「ほう、音楽家になったという自慢の孫というのは君だったのか」

「祖父をご存じなのですか?」

「うむ。昔、経済会の会合で会った時には仕事の話はそっちのけで音楽の話ばかりしていた仲だったが。堯宗氏はお元気かな?」

「足は少し弱りましたが、それ以外は矍鑠としております」

「それはなにより。ああ、長居をしては失礼ですな。そろそろ退散いたしましょう」

「あの!」

立ち上がろうとする老人を悠季が呼び止めた。

「すみません、不思議なバイオリンの音色というのはどういう意味なのでしょうか」

曲想に迷っていた悠季には気になる一言だったのだろう。

「これは失礼なことを申しました。守村さんのバイオリンがどうこうというわけではないのです。少し内輪の話になるのですが・・・・・」

水無瀬氏は少しためらったあと、話し出した。

「実は亡くなったわしのすぐ上の兄もバイオリニストでしてな、その音色にあまりに似ていたのですよ。違うとわかっていながら兄がそこで弾いているように思えまして、居ても立ってもいられなくなって来てしまいました」



水無瀬氏の兄上は芸大に入り優秀な成績で前途有望なバイオリニストと言われていたが、時代は第二次世界大戦の末期。音楽など無駄な贅沢と決めつけられて、学徒動員で出征することになり亡くなったのだという。

「兄はなんとか戦争からは戻ってきたのですが、もともとからだが丈夫なほうではなかったのもあり、帰って来た時にはもうぼろぼろでバイオリンを弾けるからだではなかったのです。戦後は食料も薬も不足がちでしたからな」

「それは、お気の毒でしたね」

「実は先ほど兄が配属されていたS島に行って来たもので、つい兄のことを思い出してしまったということなのでしょうなぁ」

「僕たちも今日S島に行ったところです」

「おお、そうでしたか。あそこでの暮らしぶりなどを兄が話してくれたのを思い出しましてね。戦争中であるし、相当きつい生活だったろうに、海の美しさや野の花の愛らしさに心をなぐさめられたとか言っていましたなぁ。
家に帰って来て、兄はもう一度バイオリンが弾きたいと願っていました。今ならもっといい音が出せるのにと。わしは兄のバイオリンが大好きで、また聞きたいと願っていたのですが・・・・・」

老人は一つため息をついた。

「物書きや絵描きなら自分の作品が残せます。しかし音楽は違う。今なら簡単に録音できますが、あの時代は出来ませんでしたからな。もう一度聞きたくとも聞けないのですよ」

老人の嘆くような言葉に、部屋の中に沈黙が落ちた。

「ああ、重い話をお聞かせしてしまって申し訳ない」

「いえ、そんなことはありませんが・・・・・。ただこの曲はまだ完成した作品ではないので、ちゃんと出来上がったものを聞いていただきたいです」

「失礼ですが、守村さんはプロのバイオリニストなのですかな?このところ世間の情報に疎くなっていまして」

「あの、守村悠季さんでいらっしゃいますよね?ロン・ティボーで優勝された」

意外にも夫人の方から声がかかった。どうやら夫人の方は悠季の事を知っていたらしい。

「知っておったのか?」

「前に『はなだ』の睦子様からお誘いを頂いていたのですよ。素敵なバイオリニストさんをご紹介します。『雪輪会』に入りませんか?って。その時はあなたが入院中でしたからお断りさせて頂きましたのよ」

悠季の後援会長の木村睦子女史の知人だったらしい。夫人の口ぶりでは水無瀬氏は闘病中だったのだろうか。それで悠季のことは知らなかったのかもしれない。それにしても祖父のことといい、縁はどこでつながっているかわからないものだ。

「なんとなあ。病院でうだうだしている間にすっかり浦島太郎というわけか。わしのことは気にせず、入会していればよかったのに」

「ええ、これからは参加させていただきますわ。睦子様にも二人会員が増えますとお伝えしなければ」

ころころと夫人が笑う。仲の良いご夫婦のようだ。

「バーバーのコンチェルトはいつ頃どこで演奏されるのか決まっているのですかな?」

「一か月後にパリとローマで演奏します。日本での予定は、ええと、その、スケジュールの関係で十一月ですね」

「まあ、ずいぶん先の話になりますのね」

夫人がため息をついた。

仕方ない話なのだ。僕らのオケのスケジュールはもちろん、悠季のサロンコンサートやソロの演奏活動も入っていたからこれ以上押し込むのは難しい。フジミの人たちも早く聞きたがっていたのだが。

「もうそろそろ兄のところでバイオリンを聞くつもりでおったのだが、これは楽しみに待たねばなりませんな。それまでに医者と縁が切れるよう体調を整えて、演奏を聞きに行けるように頑張らねば。最新のクラシック情報もいろいろと仕入れておかなくてはならない」

「ええ、それがいいですわね。木村女史に情報を頂けると思いますし。ねえあなた、そろそろ失礼いたしましょう」

「うむ、そうだな。いい演奏を聞かせていただきました。ありがとう」

老夫婦は嬉しそうな表情で礼を言って自分たちの部屋へと戻っていき、僕たちはまた二人きりとなった。



「きみが知らない人を連れてくるなんてびっくりだよ。鹿じゃなかったし?」

「すみません。きみへの相談なしに客を呼び込んで」

「え?いや、それはいいよ。聞きたいならって言ったのは僕だったからね。楽しんでもらえたのなら構わない。ただオケと一緒じゃないからあまり楽しめなかったかもしれないけどね。
それと、きみが知らないひとを連れてくるなんて意外だなって思っただけから」

「実は・・・・・これも今は思い出になってしまったことになりますが、『変人倉』の師匠たちに初めて会ったときに僕が言ったセリフと同じ言葉をあのご老人がしゃべっているのを聞きまして」

まだ少年だった頃、たまたまあの変人倉のそばを歩いていた時に、中からピアノ曲が聞こえてきて立ち止まって聞いていたのだ。
それをラッパ屋に見とがめられて『散歩中の途中にここでちょっと一休みしているだけだ』と苦し紛れのセリフを言ってのけた。彼はそれを聞いて呵々大笑すると中へと入れてくれて、教授に紹介してくれた。
曲の感想を聞かれてかなりひねくれたことを言ったはずなのだが、なぜか気に入られた僕は、それ以来あの場所へと出入りすることを許された。そんなことを思い出した。

「これも縁なのかもしれないと思いました」

「そこが気に入って招待したわけか!」

悠季は腹を抱えて笑っていた。

「ところで、バイオリンの続きはどうされますか?」

「んー、今夜はもうここまでにするよ。水無瀬さんの話を聞いていてもう一つヒントをもらったような気がするんだ。ただ・・・・・こう何かもう一つパズルのピースが足りないような気がしていて、それが何かわからなくてもどかしいんだ。こんな気分じゃ集中できないし、もう時間も遅いし。続きは家に帰ってからにするよ」

「ではやすみますか」

「えーとその・・・・・今夜はたたないよ?」

申し訳なさそうな顔をしていたが、すでに納得している。今の彼の頭の中は曲のことでいっぱいなのだろう。

「わかっていますよ。音楽家のきみがミューズに捕まっているのでしょう。音楽家としての僕はぜひきみの曲の完成したものを聞きたいと期待しています。ですから恋人としての僕は嫉妬をおさえておとなしく眠りますよ」

「うん、ごめんね」

僕はおやすみのキスをして、腕枕に悠季を抱き込む。彼はひとつ満足げな息をついたあと、すぐに静かな寝息をたてはじめた。



あたたかな彼のからだを抱きしめながら、僕は先ほど会った水無瀬老人のことを思い出していた。見覚えがあるような気がしたのに名前が出てこなかったのは、記憶の中の顔と違っていたからだ。

僕が知っていたのは経済紙に載っていた写真のみだったのだが、先ほどと違ってもっとがっちりとした体格だったと思うし、もっとギラギラとしたオーラを放った人物だったと思う。

祖父や父と同じく経済界で働いていた人物。何度もその手の雑誌でインタビューを受けていたのだから僕も見たことがあったのだ。

少し前まではクラシック音楽に造詣が深く、様々なところに援助をしていたはずで、僕たちのような演奏にかかわるものにとってはありがたい人物ではあるが、その反面あくが強くていろいろとトラブルを起こしていたという話も聞いていた。

病気療養のために一線を退き、今は後援や援助などから手を引いていると聞き及んでいる。

僕たちの桐ノ院オケを立ち上げたときに寄付をお願いするためにDMを送った多くの会社の中に、水無瀬氏の経営していた会社も入っていたが、そのときは義理程度の少額の寄付だけであったはず。


さて、今回の出会いで悠季を気に入ったようだが、これからどう動いて来るか。まあ、ここで考え込んであれこれ悩んでいてもしかたない。もう眠るとしよう。

僕は悠季の規則的な呼吸音を子守歌とすることに成功し、ぐっすりと眠ることができた。







翌朝はすっかり良い天気になっていた。

朝食を済ませて出発しようとしたところで部屋係が保冷用の青い発泡スチロールの箱を持ってきた。表に貼られた紙によると、真空パックに入った一夜干しや西京漬けなど、地元の魚の詰め合わせが入っているらしい。

「今日帰宅されるとうかがっておりましたので、こちらをお渡しするようお預かりしておりました。お荷物になりますがお持ちくださいとのことでございます」

メッセージカードには昨夜あった水無瀬氏の名前が書かれており、演奏を聞かせてもらった感謝と、この先の演奏への期待が書かれていた。

「いいのかな、これ」

「構わないのではありませんか?気になるようならお礼のメッセージを残したらどうでしょう」

「あー、うん。そうしようかな」

宿に備え付けの便せんと封筒で簡単なお礼を書いて水無瀬氏に渡してもらえるように頼むと宿を出た。

「さて、今日はこのまま帰宅しますか?」

シートベルトをかけながら悠季に尋ねると、意外なことに昨日行ったS島にもう一度行こうと言い出した。

「ちょっとね、思いついたことがあって」

これも昨夜得た曲のヒントの続きらしい。

僕たちが昨日と同じフェリー乗り場に行くと、大勢の人が船を待っていた。天気も良いこともあるだろうし時間の関係もあるのだろうが。





島に着くと昨日とはまったく違う様相になっていた。カップルらしい多数の観光客があちこちを見て回りながらにぎやかに歓声を上げている。静けさや情緒などは望むべくもない。

これでは悠季の参考にならないだろうと考えていたのだが、どうやら悠季の考えは違っていたらしい。にこにことしながら昨日と違って島の景色に目を向けることなく、他の観光客と一緒に動いて少し離れたところから観光案内を聞いている。

どういうことだろうと思っていると、くるりと振り返って元来た道を引き返してきた。

「帰ろう」

「もういいのですか?」

「うん」

悠季の言葉が短い。どうやら今はミューズから与えられたヒントを忙しなく頭の中で組み立てている最中なのだろうか。

エスコートしながら帰りの船に乗り、車で自宅へと急ぐ。いつもならあれこれと話しかけてくるはずの彼は、ずっと黙ったまま、頭の中で何かと対話しているかのような様子で考え込んでいる。

家に着くと、いつものお帰りとただいまのキスもそこそこに、音楽室天の岩屋へと直行した。

すぐにバイオリンの音が響きだした。




やれやれ、いつもの悠季に戻るのはいつになることか。この先の予定をキャンセルした方がいいのではないかと考えていたのだが、カレンダーで内容を確認してみると吉柳氏との打ち合わせとある。ならば予定変更しても構うまい。彼に電話をしておこう。

《ああ、守村さんの熱中詰め込みタイムですか。そりゃいつ完成するか読めないですよね。いいですよ、僕の方は予定変更で。それじゃ守村さんがこっちに戻ったら連絡ください》

悠季の集中癖を知っている吉柳氏は僕の説明ですぐに納得してくれた。あとは悠季が満足いく結果を得られるまで待つだけだ。



悠季が音楽室にこもって曲に没頭し、徹夜して完成させたのは翌日の夕方になってのことだった。疲れていてもどこかすっきり晴れやかな表情でそのままベッドにもぐりこみ、翌日の昼近くになって焦りまくった顔で起きてきた。

「まずい。寝坊した。予定が!源ちゃんとの予定が!」

服を着ながらどたどたと階段を下りてきたのを慌てて止めた。

「落ち着いてください。大丈夫です。吉柳くんには僕が日延べしてもらえるよう連絡してあります」

「えっと・・・・・、ああそうか。ありがとう、助かったよ」

そのままぺたりと座り込んだものでぎょっとなったが、どうやらエネルギー切れになったらしい。二日間きちんとした食事を摂っていなかったから興奮が冷めたと同時にからだの方が本来の要求してきたようで、ぐうと小さく腹の虫が鳴った。

「食事の用意がしてありますから、まず食べてから吉柳くんに連絡してはいかがですか?」

「あは、うん、そうだね」

柔らかく煮込んだ具だくさんの野菜スープにスクランブルエッグ。トーストには発酵バターとキイチゴのジャム。ヨーグルト。

このあたりか。

食後のコーヒーを出して、悠季から曲の進み具合を聞いた。

「まだあちこち手直しが必要だけど、とりあえず方向性と課題は見えたからあとは地道に練習してからだに覚え込ませる作業が必要なんだ。それでも完成形はわかったからほっとしている」

じゃあ吉柳さんに電話してくる。と言って悠季は席を立ち、僕は安堵の息をついて食器の片付けにまわった。

詳しい説明は完成したあとしてくれるだろう。今言葉にすれば壊れてしまいそうな繊細なイメージを音にしているところだろうから。

彼の頭の半分はまだ曲との対話を続けているのかもしれない。

きっと完成後は素晴らしいバーバーを聞かせてくれるに違いない。







そうして一か月後。僕は彼のコンチェルトを聞きにイタリアへと飛んだ。

初演のパリでの演奏は残念ながら外せない所用のせいで聞き逃してしまったが、評判は上々だったようだ。

その後エミリオ師のもとでさらに演奏に磨きをかけて、再度コンチェルトに臨んだ。パパエミリオの隣で聞いていたのだが、実に美しく説得力のある演奏だった。

ヴラボーとアンコールの声が鳴りやまない出来だった。

コンサートの祝賀会の時に、悠季はあの短い旅行で発見したことについて教えてくれた。

「あくまでも僕のイメージなんだけどね。S島のイメージが核になった。雨の中で見た風景。蔦や苔や花に彩られた石壁。人間の都合によって作られたものが時によって損なわれ風化し、また島の一部に戻る・・・・・。でもそれだけじゃ足りなかった。話を聞かせてくれた水無瀬さんのお兄さんの話もその一部になったんだ」

水無瀬智史という名前だそうなバイオリニスト志望の青年のことだ。芸大出身で前途を嘱望されていた人物だったらしい。希望にあふれてバイオリニストを目指していたのに、戦争がその夢を砕いてしまい、夢半ばで亡くなった人物。

それが一楽章と二楽章のイメージを彩るものなのだという。

「そして、三楽章はあの最後の日に行ったS島のイメージだ。戦争の事なんか知らない人たちが楽し気に島を訪れている。復活と再生そんなイメージかな」

しかしこれはあくまで悠季の曲へのアプローチであり、それを言葉で説明することはない。悠季から手渡された音楽は、曲を聞く人々が自分の中にある記憶や思い出宝物からそれぞれの印象として作り上げていくものなのだ。






そして、ついに十一月。

ようやく僕たちとオーケストラと悠季との競演が叶う。

どんな出来になるのか楽しみだ。












掲載予定が遅れに遅れて申し訳ありませんでした!
この話は、ブルームーンラプソディーが出るの少し前に、途中まで書いていたものです。
プチオンリーに出す予定だったのですが、作者様に似たような話を出されて、ボツになりました。(笑)
途中で納得出来ないところもあったので、そのままサイトにも掲載していなかったのですが、あちこち大幅に手直しして、と言うよりほとんど書き直してこちらに上げました。
オマケの話もこのあとあったのですが、間に合わず・・・・・。
近いうちに掲載します。

















2022.8/13 up