魅惑の彼氏

「お待たせしたようで、すみません」

ドアが開いて今日の会見の相手が入ってくるのを見て、立ち上がって迎えた。

待ち合わせ時間はぴったりと正確。彼の性格がうかがえる気がした。

「いえ、こちらが早かっただけです。Fテレビのドラマ部門プロデューサーの沢口と申します。この度はお時間をいただきまして、ありがとうございます」

さっと名刺を差し出すのは、こちらにとっては条件反射のように手慣れたものだ。しかし彼にとってはそうではないようで、いささかもたつきながら渡してきたのが初々しく好感が持てた。

「初めまして、守村悠季と申します」

バイオリニスト。1999年度ロン・ティボー国際バイオリンコンクール優勝者。

今、旬の人物である。

素人にも分かりやすい輝かしい実績と、以前放映されていたスプラッシュコーラのCMの印象で、未だに視聴者たちの記憶に残っている彼をテレビ業界では見逃すはずもない。

しかしその彼が今まで捕まっていなかったのは、名利を得ることにさして意欲を持たない性格であるためらしい。

名声や成功よりも芸術性を追求するあまり、俗世へのがつがつした欲望を持たないタイプだと沢口は読んでいる。

演奏家は音楽を聴衆に聞かせることではじめて演奏家として成立するのであるから、まったくの無慾と言うわけではないだろうが、それでも積極的に自分をアピールするのは苦手というクチだろう。

それならばこちらにも策はある。

彼が今回の会見の目的を承諾してもらえるように口説くノウハウは持っている。彼が初めてのタイプというわけではないからだ。

それにしても。

と、沢口はそっと守村の顔を窺う。

以前、たまたま飛行機の中で近くの席に乗り合わせ、顔や声を聞いたことがある。

その頃も男にしては線が細くて中性的な魅力を持つ男だ、くらいに思っていたのだが、あの頃と比較すると華やかさやあでやかさを増し、演奏者としてのオーラを兼ね備えてきたように思う。

それはきっと彼自身がプロの演奏家としての自信を深めたからではないかと考えられた。

野暮な眼鏡に守られていても、くっきりとした二重瞼の眼は青みを帯びた白目と茶色に近い大きな瞳が清潔感を感じさせ、ふっくらとした唇が甘い色香を漂わせる印象的な顔。

きっと女性にも男性にも好印象をもたれるだろう。

実に目に麗しい獲物だった。





しばらくの間、たあいない世間話や守村の近況などを聞いて相手の気持ちをほぐしていき、いよいよ本題の正式な契約のための話へと入っていった。

「今回Fテレビの新作ドラマを作るにあたり、エンディングテーマ曲に桐ノ院さんの『絵の無い絵本』の中からの曲を使わせていただくことになりましたことはご存じだと思います。

バイオリンソロを守村さんに演奏していただく事が桐ノ院さんからの契約条件になっておりましたが、今回引き受けて下さるとお返事をいただきましてありがとうございます。

こちらも守村さんが演奏していただけるのを喜んでおります。ギャラや条件など出来る限り守村さんのご希望に添えるように致しますので、どうぞよろしくお願いします」

「あ、こちらこそどうぞよろしくお願いします」

「つきましては、こちらが契約内容ですのでご覧ください」

「あ、はい」

桐ノ院に指定されて守村に変更になる前までの―――当初仮押さえしていた女性バイオリニストに示すはずだったもの―――と同等の契約内容が書かれている書類一式を手渡した。

指揮者、桐ノ院圭。

彼が作曲して発表したCDは、クラシックとしてはかなり評判になっていた。

その中の一曲をドラマのエンディングに使う事になったのは、普段クラシックの曲を聞いたことがない人たちでも違和感がなく、どこかなつかしさを感じるような曲だったからだ。

彼との契約する時には、ソリストとして守村を指名するだろうと予測していた。もともと彼は『守村悠季』のバイオリンを想定してアルバムを作っていたのだし、一番息の合う音楽家であるのだから。

加えてベタ惚れの恋人だから一緒の仕事をしたいと思うのも想定済みのこと。

だが最初の契約書にはあえて違うソリストが指定しておいた。

それは桐ノ院氏の曲で守村氏の演奏をしてもらうだけではなく、他にも意図するものがあったからだ。

最初から彼を指定するとこちらから希望する条件言い出しにくい。

向こうの方からぜひ守村悠季を使いたいと言ってくるなら、『では譲歩する代わりにこちらの条件をつけたい』と言い出せる。

つまり駆け引きということだった。


―――こいつはしぐさも絵になる男だな。


沢口は真剣な表情で契約内容を読んでいる守村の姿を楽しみながら考えていた。

ウチのカメラマンをここに連れてきたら間違いなくカメラを回し始めていたに違いない。

男にしては色白で細身のからだをしているが、決して貧弱には見えないのは姿勢がいいためだろう。

見えない場所に長時間の演奏を支えるための筋肉がついているからこそ、あれほど繊細で優雅な演奏が出来るに違いない。

そして、なにより沢口の目を惹きつけてやまないのは、守村の手だった。

ほっそりとしたフォルムと、長くて形のいい指が本人の意識していないところで優美な動きをみせる。

沢口は美しいものに目がない。特に人物の内面の多くを語る『手』が好きだったが、守村の手はバイオリニストであることも含めて、際立って目を引くものだった。

この手を最初に映して、そこから動かしてバイオリンを構えた姿へとカメラを引いていって、それから・・・・・。

そんなふうにエンディングの段取りを楽しく思い描いていた。

ふと、守村が顔を上げた。

「あの、ここにはエンディングテーマ曲が流れている時に、僕が演奏している姿を流すと書いてあるのですが・・・・・?」

「はい。守村さんには桐ノ院さんの曲を弾いていただいている演奏シーンを毎回のエンディング使わせていただく予定です」

沢口は当然のことのように言って、にこやかに笑ってみせた。

これが、守村悠季を使うに当たって沢口からつけた条件だった。彼にテレビ出演もして欲しいと。

演奏依頼だけなら桐ノ院・守村両氏のマネージャーである宅島に話を通せばそれで済んだ。

しかし、守村が演奏する姿を映像として使いたいと申し出ると、宅島は良い話ではあるがこの件については彼が難色を示すはずだと言い、契約を渋ってきた。

ならば直接談判するので守村には―――特に桐ノ院には―――先に話をしないで欲しいと頼んでおき、急遽彼を説得するためにやってきたのだ。

口説く・・・・・いや、交渉となればこちらの得意分野なのだから。

交渉の鬼と呼ばれる沢口の名において、必ず彼から承諾をもぎとってみせよう!