悠季が亡くなった夜。
宅島と圭が悠季の死に呆然としている時に、遠慮がちに看護師が声をかけてきた。
「・・・・・あの。こちらをなくさないうちにお渡ししておこうと思いまして」
小さなビニール袋に入ったそれは、中身が更にティッシュに包まれていて何なのか分からない。
「ここに運ばれてきた時、患者さんがしっかりと握り締めていて離そうとしなかった物です。蘇生術の邪魔になるので手を開いて外しておいたのですが、本人様に大切なものなのでしょうから、ご家族の方にお返ししておきますね」
「ありがとうございます」
宅島が受け取って袋から取り出してティッシュを開いてみると、それはカフスボタンの片方だった。
「あれ?これって・・・・・」
見覚えがある、と思ったとたんに、横から圭が奪い取った。
「おい!?」
「そうか!まだ手はあったのか!!」
圭は一言そう叫ぶと、宅島の制止を振り切ってそのまま病院を飛び出していき、二度と病院には戻って来なかった。
小夜子は悠季が亡くなった翌朝、伊沢邸へと出かけた。きっと『兄』はここに戻ってきているに違いなかった。
葬式の準備は昨夜のうちにほぼ整っていて、彼の遺体が載せられた車が到着するのを待つばかりになっている。おそらくあと数時間後にはあわただしく通夜が始まるだろう。
しかし、小夜子にはどうしてもその前に『彼』にあることを問いただしておく必要があったのだ。
伊沢邸には『おそらくここにいるだろう』と彼女が考えていたとおりに、有が戻っていた。
「やはり、ここにいらしたのね・・・・・」
小夜子が中に入ると、有 いや、圭がぼんやりと音楽室のピアノの前に座っていた。
「それで、悠季さんをいったいどうするおつもりですの?『お兄様』」
「やはり君は知っていたのですね。小夜子」
肩をすくめると、有は桐ノ院圭であることをあっさりと認めてみせた。
「でも、今回の生まれ変わりにわたくしを使うおつもりでいらっしゃるのなら、それは無理ですわよ」
「・・・・・ええ、分かっています」
圭は苦笑した。
「確かに悠季と血縁のある者の胎児であれば、生まれ変わることは可能です。今、レテのほとりにいるはずの悠季が承知すれば、ですがね。
しかし、いくら僕でも妹である君との間に子供を作るつもりなどありませんよ。君が警戒しているのはそのことでしょう?」
「お兄様のなさることですもの。どんな非常手段でもとりかねないと思っていましたわ。悠季さんのためとあらば、ですわね。でも今のわたくしには既に子供がお腹におりますし、この子を使うわけにはいきませんものね。この子には悠季さんの血は入っていませんもの」
「分かっています。それにもし僕がそんなことをすれば、悠季が非常識な手段を納得しないでしょうし、拒むでしょう。ですから、他をあたります。心配しなくても結構です」
圭はひょいと肩をすくめてみせた。「でも、何か心当たりはありますの?早くしなければ、悠季さんは・・・・・」
「ええ。もし悠季が冥界の川をまだ渡らず、光一郎氏に事情を説明してもらって待っていてもらったとしても、四十九日を過ぎてしまえば彼はレテのほとりで彷徨うモノになってしまう。ですが・・・・・」
「伊沢光一郎さんでしたかしら・・・・・。あの額絵の方でしたわね。あの方がお兄様をこの世に連れ戻した方だったのですわね」
「実は・・・・・、光一郎氏はもういないのです」
「えっ!?あの方がいらっしゃらないとはどういうことですの?」
圭は伊沢邸に戻って来たときのことを話し出した。
「光一郎氏!どこです?どうか声を!」
だが、伊沢邸内に光一郎の気配はなかった。
「・・・・・いったいどうしたというのだ!こんな事態になってしまったことに、彼が気づいてないはずはないのに・・・・・!なぜ何も言ってこないんだ!!」
圭は額絵を睨みつけた。
額絵には生気がなくなっていて、上手に描かれてはいるが絵の具が塗られているだけで、魂が抜けてしまっているように見えていた。そう、まるで唯の絵になってしまったかのように思えたのだ。
「もしかして、お祖父様が彼を一緒に連れていかれたとでもいうのか・・・・・?」
そう言えば、祖父が死んだあとに彼の気配を感じた事はなかった。きっと彼はいつまでもここにいるものと無意識のうちに思い込んでしまっていて、伊沢邸から消え去る事があるなど考え付きもしなかったのだ。
考えてみれば、尭宗を慕うあまりにこの世を彷徨い続けていた愛しい者を、そのまま放っておくような祖父とは思えない。
だが・・・・・。
「・・・・・どうすればいいのだろう!?これでは悠季が生き返れる手段はなくなってしまう!」
みるみるうちに圭の頬がそそけだっていった。この世にたった一人残されてしまう絶望感が圭を押し包んでいく。
「何のために僕はこの世に舞い戻ったのか・・・・・?」
握り締めたカフスボタンに目が行く。
・・・・・もしも今、これさえ壊してしまえば・・・・・!
――おやめください――
不意に温かな手が圭の手を押さえたようで、ふわりとよく知った気配がそばに立った。
――圭様。わたくしがおわかりになりますか?――
「・・・・・伊沢さん?」
伊沢重三郎の声が聞こえた気がした。
――光一郎は、御前様がお連れになりました――
「それではやはりお祖父様が!?」
――兄の罪は自分のせいだとおっしゃいまして、三途の川を先に二人で渡っているから、お前は後からゆっくり来るようにとの仰せでございました――
「しかし、どうしてここで、あなたの声だけがここで聞こえるんです!?・・・・・もしかすると、伊沢さんは・・・・・?」
――恐れ入ります。数週間前に亡くなりましてございます――
「なんということだ!僕は伊沢さんの死に目に会うことが出来なかったのですか!?」
圭は驚いて叫んだ。
――圭様はお気になさいませんように。私が独りで死ぬ事は、御前様がお亡くなりになる遥か以前より覚悟していたことでございます。なんということはございませんよ――
伊沢の声は生前と変わらぬ穏やかさに満ちていた。
「しかし、なぜあなたは冥界の川を渡っていないのですか?祖父や光一郎氏が向こうで待っているのではありませんか?」
――実は、生前に御前様から圭様のことを頼まれておりましたのでございます――
「祖父が?」
――圭様が早晩この事態の収拾に困る事になるのではないかとおっしゃいまして。
こんな非常手段を使うきっかけになったのは、兄の光一郎がここに留まっていたせいなのだから、もし圭様に何か問題が起こったときには、相談できる相手を残しておくのがせめてもの償いになるであろうとおっしゃられました――
「償いなどと・・・・・。僕は光一郎氏に感謝しこそすれ、恨んでなどいません。これは全て僕が決めた事ですから」
――ですが、この世のことわりからは外れたことを起こしたのは間違いありません。ですから私がここに残って誤りを修正することにしたのでございます――
「修正、ですか?」
圭は用心深く伊沢の言った言葉を反芻した。
「それは、君が僕もあの世に連れて行くことが出来れば、誤りは全て消え去る、ということでしょうか?」
――いえ、それは・・・・・――
「構いませんよ。今の僕がここに留まっている理由はもうない。悠季がこの世にいなくなったのなら、僕がこんな反則技を使ってまでこの世に舞い戻ってくる必要はもう無くなってしまったのだから」
圭は苦く自嘲した。
――いいえ。桐院有としてのあなたにはまだ寿命がございます。今ここであなたの命を取ったりしたら、それこそ命のことわりに反することになります。ですから、私の役目はこの世での『縁』の綻びを修復することでございます――
「それはどういうことですか?」
――私がレテのほとりにいらっしゃる守村様が生まれ変わられるようお助けいたしましょう。圭様があの秘法を行う前の、お二人が元のようにここでお暮らしになられたときに戻られるのでございます。
本来、そうであったはずの時に遡ってやり直しを致しましょう。
そしてこの世で定命までを過ごして、寿命どおりに亡くなられればそれでよろしいのです。
私はそのときまでここでお二人を見守って参ります。兄の代わりを私が務めるということでございますよ――
「しかし、そうしたら今度は伊沢さんが彷徨うものになってしまうではありませんか!?」
いくら大切な悠季のためだとはいえ、幼い頃より大切に慈しんでくれていた伊沢には恩も愛情もおおいにある。こんな事で彼を苦しませるのでは、申し訳なさすぎる。
――圭様が有様としての寿命を終えられました時には、今度こそ冥界の川を渡られることになりますが、その時私を一緒にお連れになってくださればよろしいのです。それで、全ては元に戻ります。
このような危うい秘法は現代に残すべきものでではありません。全てを消し去ってしまうほうがよろしいでしょう。わたくしはそのためにも残ったのです――
「すまない。僕は最後まで伊沢さんに面倒をかけてしまうことになるわけですね・・・・・」
――いいえ。最後まで圭様のお世話をさせていただくことは、私も嬉しい事でございますよ。もったいないことではございますが、圭様は言わば私の息子のようなもののように思っておりますから――
「伊沢さんにそう言ってもらえるのは僕も嬉しいが・・・・・」
――では、守村様をそちらへとお送りする準備をして参りましょう。ただしお断りしておきますが、今後はどんなことがあっても二度と圭さまと守村様の生き返りのお手助けは致しません。秘法はもうないものとお思い下さい――
「ありがとう。世話をかけます。しかし、彼が本当にこちらに戻って来られるのだろうか・・・・・?」
自分の時には幸い小夜子と悠季との間の子供というラッキーがあった。しかし、悠季には・・・・・。
「伊沢さんの言うには、アテがあるのだそうでした」
肩をすくめながら圭は小夜子に苦笑して見せた。
「そのような相手がどこにいらっしゃったのでしょう?」
「実は・・・・・」
圭の告げた言葉に小夜子は目を丸くした。