【2】

 

 その扉は悠季が初めて入ったときと変わっていないように見えた。

久しぶりに入った店は、いささか古びてはいるが居心地の良い雰囲気を持って迎えてくれる。

 カラカラとドアにつけられたベルがドアを開けたことを店主に知らせてくれ、カウンターの中でカップを拭いていた彼は、入り口へと振り向いて悠季の顔を見つけるとにこにこと笑いかけた。

「やあ お帰り、守村ちゃん。日本に戻ってきたんだね」

「はい。昨夜到着しました。さっそく石田さんのコーヒーが懐かしくなったんで来ましたよ」

 悠季がカウンターに座るのを石田は優しい眼差しで見守っていた。

「今日は何がいいかな?」

「それじゃ、マンデリンをお願いします」

「OK、昨日仕入れたばかりの新豆なんだよ。美味しいのを入れてあげるからね」

 穏やかに店主の石田は答えて、悠季の前に手際よく芳香を漂わせるカップを置いた。

 石田の体力の衰えもあってそろそろこのモーツァルトを閉じようかという話も出ているそうだが、コーヒーを入れる腕の方はまだまだ衰えていないようだった。

 悠季がゆっくりとコーヒーを一口二口と味わうのを待ってくれていたが、カップを置くと話しかけてきた。

「守村ちゃん、明日はフジミに来るのかな?桐ノ院さんの法事の後になるけど」

「ああ、はい。行くつもりです」

「そうかい。じゃ明日の晩を楽しみにしているよ。・・・・・早いもんだよねぇ。桐ノ院くんが亡くなってからもう17回忌になるんだねぇ」 

 石田はため息をついていたが、どうやら話したいのは圭の法事のことではないらしい。珍しく言葉を濁し、話の続きを言おうか言うまいか、ためらっていた。

「何かありましたか?」

「うん・・・・・。実はね、このところ有くんがフジミに来てくれているんだよ」

「有が?確かあの子は現在はヨーロッパに留学に行っているはずですが?」

「桐ノ院君の・・・・・いや、有くんも桐院だったね。その、コンの桐ノ院圭君の法事があるから帰国しているそうだけど、久しぶりに来たフジミを見て、うちの指揮をしてみたくなったそうなんだよ。向こうでも指揮者になりたくて勉強をしているそうだから」

「有がですか?!」

 悠季は驚いた。有が指揮をすることを知らなかったのだから。音楽については幼い頃悠季から手ほどきを受けたこともあって、趣味以上の関心を持っていたことは知っていたが、指揮をしたいなどと聞いたことはなかった。
 時折寄こすメールにもあちらでの学生生活については書いてあったが、指揮を勉強していることは知らせてこなかった。

「守村ちゃんは知らなかったの?」

「・・・・・ええ。あちらに留学してから有の顔を見ていなかったんですよ。メールでのやり取りならしていましたが、顔を会わせての話はしていなかったんです。圭の、いえ、桐ノ院さんの法事には会えると楽しみにしていまして、向こうでの話をいろいろしてもらえると思ってはいたのですが」

「まあ男の子は反抗期っていうのがあるからねぇ。指揮をしたいなんて言ったら君に反対されるとでも思ったんじゃないの?有名な音楽家の君が父親だということで、意識的に避けていたのかもしれないしね。
 有くんも小さい時には守村ちゃんにくっついてよくフジミに来てくれていたけど、そのときのことを忘れていなかったということは、嬉しいことだったよ。あのちいちゃかった有くんが、こんなに大きくなったのかってびっくりしたからねえ。フジミのみんなも彼の指揮に張り切って演奏しているから、向こうに戻るまでの間だけでもフジミの指揮をしてもらいたいなぁと思ってるんだよ」

 石田はにこにことしながら悠季にフジミでの有の様子を教えてくれた。

「それに、これを機会にまた守村ちゃんと有くんがフジミで競演すればいいんじゃないか、ってね。思ったんだけどね」

「ええ」

「血は争えないっていうのは本当だねぇ。有くんの指揮を見ていると桐ノ院くんの指揮を思い出したよ」

「・・・・・そう、なんですか?」

「うん。身長はまだ低めだし体格は亡くなったコンよりも幼い感じだけどね。まだまだタクトの使い方も未熟な感じがするけど、ちょっとした瞬間に思い出すことがあるんだ。あの子がこの先どんな指揮をしてくれるのか楽しみだよ」

「・・・・・そうですか」

 悠季はため息をついた。

「守村ちゃん、コンと似ていると嫌なのかい?」

「嫌というより、不思議な感じがするんですよ。有は圭に会ったことはまったくないし、僕も圭のことを有に話したことはないんです。それなのに、有は圭と同様に指揮に興味を持っている。僕が音楽をやっているから興味を持っただけでなくて、もし本当に指揮者を目指しているというのなら・・・・・」

「コンの生まれ変わりのように思えるっていうわけかな?」

 悠季はうなずいた。

「とは言っても有くんは守村ちゃんの息子だからね」

 石田はにこやかに笑いながらも悠季の心にちくりとトゲが刺さる言葉をよこした。

「ええ」

 悠季はその言葉を立ち上がるきっかけにして席を立った。

「ごちそうさまでした。明日のフジミで久しぶりに皆さんに会えるのを楽しみにしていますよ」

「うん。待ってるからね」

 

 悠季は伊沢邸に戻ったが、誰もここに来た様子はなかった。昔の有ならば真っ先に父である悠季の元へとやって来ていたはずだった。

たまに父である悠季と一緒に生活できる時には、いつもくっついて離れないようなお父さん子だったのに。今の彼には、ここにやって来る気などはないらしい。

 ふいに携帯の着信音が響く。

「噂をすれば、かな?」

期待をしながら出たのだが、相手は宅島氏だった。急な話ではあったが、悠季と会いたい人がいるのだという。

《君がインタビューの類は今回すべて断っているのは知っているんだが、この後のM響への客演に関係する人なのだと言われ、断れなかったんだ。

 君が帰国したばかりで疲れているからと言ったんだが、話を通すだけでもしてくれないかと言われてしまってね。もちろん断ってくれても構わないんだが》

 今回のM響との競演は、あるスポンサーが協賛となって行う、交通事故で亡くなった遺児への支援募金のコンサートだった。

 悠季もその趣旨に賛同して、客演を決めていた。

「分かりました。うかがいます。それで場所は?・・・・・ええ、はい、ではその時間に」

悠季は電話を切るとため息を一つつき、出かけるためにスーツに着替えた。

 食事を共にし、少々の酒を酌み交わす。そんな一般社会の社交が今はひどくわずらわしいものに思える。

 

だから、その夜悪酔いしたのはそのせいなのだろう。

 話題の中に今回の帰国が圭の法事のためだということや、彼が今活躍していたら・・・・・という話が出てきて、悠季の心の奥を揺さぶっていた。

 そして、切ない揺れは悠季をしたたかに酔わせて帰宅させることになった。

 

 その心の隙が、魔を呼び寄せたのかもしれなかった。