移動間近のホテルで、悠季からの電話を受け取った。
「ちょっと待ってください。ボスと代わります」
海外演奏旅行中は携帯を持ち歩かない僕のために、宅島が携帯を渡してくれた。
《もしもし、圭?もうすぐ移動だって?忙しいときに電話してごめんね。ちょっとだけいいかな?》
「ええ、どうぞ」
《例の東フィルとの共演の話だけど、やっぱり受けることにしたから。宅島くんに言ってよろしくお願いしてくれないかな》
「それはよかった。大丈夫です。君ならきっと出来ますよ」
《そうだといいけどね》
応える悠季の声がひどく力なく聞こえる。
「どうかしましたか?疲れておられるのですか?」
《いや。ちょっとね・・・・・》
悠季が小さく笑っているようだが、普段の彼とは明らかに違う。
《実は福山先生に別のことでご相談に行ったら、東フィルとの共演の話を既にご存じでね。新人がチャンスに受けなくてどうするとおっしゃられたんだ。でもね、それだけじゃなくてね》
はぁとため息が聞こえた。
《今度の11月に開催されるロン・ティボーコンクールへエントリーするようにと言い渡された》
「それはまた・・・・・!」
僕は絶句した。
《でね。11月の音楽祭の方は日程的にどうしても無理になってしまうから、申し訳ないけどキャンセルの手続きの方も宅島くんにお願いして欲しいんだけど》
「キャンセルですね。分かりました。伝えておきます」
近くで聞いていた宅島が驚いた顔をした。
いつもは僕のプライベートの電話を聞くようなことはしないのだが、今回は悠季が東フィルとの共演をどうするのか結論を聞きたかったのだろう。
ずっと心配していたのだから。
それなのに、僕が『キャンセル』などと口にしたものだから、すっかりあわてている。
僕は宅島に首を振って心配しなくていいことを伝えると、ほっとした様子で部屋を出て行った。
《ねえ君、もしかして東フィルとの共演のはなしを先生にお知らせしたんじゃないだろうね?》
違うと言いぬけることも出来たのだが、こんなところで悠季の信用を失うことは出来ない。ただでさえ、以前これで懲りているのだから。
「・・・・・申し訳ありません」
《やっぱりねぇ。いくら情報通の先生でも、まだ確定していない新人の共演情報が行くはずなんてないと思ってたんだ》
はあ・・・・・と電話越しでまたため息が聞こえた。
「怒っておられますか?」
《もうねぇ。怒るとかするまえに脱力してしまって、どうでもよくなってる》
だから先ほどからなんとも力の抜けた声でしゃべっていたのだろう。
「ロン・ティボーコンクールへの参加が重なるということは、練習するべき曲数はかなりのものになるでしょうね」
大丈夫ですか?と聞きたかったが、悠季にとっては大丈夫どころではないだろう。
東フィルとの共演だけでも練習の絶対量が足りないと言っていたくらいだから。まして、コンクールとなればその準備しなくてはならない曲は膨大となる。
《ああ、これから決めなきゃならない曲がたくさんあるけどね。まず頂いてきた募集要項の中に記載されている曲の数だけやるとしても、もう死にそうだよ》
もう空笑いをするしかないような心境なのだろう。この事態に追い込んでしまった犯人の一人でもある僕には慰める言葉もない。
《あ、そろそろ時間だよね。君が日本に帰ってきてからまた詳しいことを話すよ。相談したいこともあるし。時間をとってしまってごめんね》
「いえ、帰ってくるまでにこちらでも情報を集めておきましょう」
《うん、よろしく。それじゃね、よい演奏を》
「ありがとう。愛してますよ、悠季」
《僕も・・・・・愛してるよ》
悠季からの電話は切れた。
「ボス、そろそろ出かけないといけない時間なんだが」
ドアを開けて宅島が顔をのぞかせた。
「今行きます」
あわただしくホテルを出ると、次の演奏地へと移動を開始した。
僕はタクシーの中でひどく機嫌が悪く、宅島もそれが分かってしばらくは放っておいてくれた。
彼がとうとうしびれを切らして悠季からの電話に中身について質問してきたのは、空港の待合所についてのことだった。
「悠季から依頼してきたのは二件です。東フィルとの共演の方は承諾してくれました。もう一つの音楽祭の方はキャンセルしておいてもらいたい」
「共演を承諾してくれたのはよかったが、なんで音楽祭の方はキャンセルなんだ?既に引き受けている以上それなりの理由がないと断れないぞ」
「ロン・ティボーコンクールにチャレンジすることになったそうですよ」
「はあっ?」
宅島が素っ頓狂な声をあげた。
「福山教授の命令だそうです。ですから、今年度のロン・ティボーの詳しい事情を調べておいて欲しい」
「そりゃ、分かったが・・・・・。なんでこんなに突然にロン・ティボーへ挑戦が決まったんだ?」
「おそらく悠季が年齢的にラストチャンスだからなのでしょうがね」
僕は首をすくめてみせた。僕自身も悠季を世界的に売り出すためには積極的にオーディションを受けるよう勧めようと考えていたのだが、師匠である福山師はもっと先を考えたらしい。
「挑戦するのはいいとして、オヤカタはちゃんと結果を得られるんだろうか?ただの挑戦のままで終わってはメリットがないぞ」
「大丈夫です。確かに優勝するとは言い切れませんが、上位入賞も狙えると思っています。
悠季が本気で臨めばそれだけの力を持っています。これは僕の慾目や恋人としての願望ではなく、プロの音楽家であり彼と指揮者として共演したことがある者としての意見です」
「だったらなんでさっきから機嫌が悪いんだ?彼の才能を信じていないのなら、不安がって不機嫌になるのは分かるが、そうじゃないわけだろう?」
「決まっているではありませんか。悠季が僕よりも福山教授の意見を優先して難題を引き受けたからですよ!確かに東フィルとの共演のチャンスを受けてもらうために福山教授にお願いしたのは僕ですがね」
「それがこうもあっさりとおやかたが引き受けてしまったのが気に食わないってわけか?」
宅島はやれやれというように首を振ってみせたが、僕にとっては実に腹立たしいことなのだ。
「ロン・ティボーコンクールに僕が応援出来る余地があるかどうか、ぜひ調べてほしい」
「へいへい。せいぜい協力してオヤカタに感謝されるようにするよ。・・・・・ボスもやりすぎないようにな」
付け加えられた言葉に返事はしなかった。宅島が言いたいことは分かっているつもりだが、ここはぜひとも引くことは出来ない。
悠季にとって一番頼れる人間は僕だと分かってもらわなくてはならないのだから!
「電話」の続き。 スネた圭っていうのも、なかなか好みなんですが。 |
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2009.7/7 UP