「悠季?」
「え?ああ、お帰り」
僕が夕食の買い物に出かけ、今夜の献立について考えながら富士見駅の方へと歩いていたら、ちょうど帰宅した圭と出会えた。
「ここで会えるなんて、ラッキーだったね」
「買い物ですか?」
「うん。そろそろ集中力が切れちゃってね。気分転換を兼ねて出かけてきた。ちょうどいいや、君何か食べたいものがあるかい?」
「そうですね・・・・・。それよりふじみに食べに出かけませんか?料理の時間は二人で散歩の時間にあてることにして、少しこのまま歩きましょう」
「そう?じゃあそうしようか」
このところ根をつめて練習している。
5月の連休にはロン・ティボーコンクールの第一次予選のために提出するビデオテープをつくって提出しなければならない。もう間近だ。
僕は圭について歩きながら、凝ってしまった肩を回した。こきこきと音がして疲れていることを改めて認識した。
「今日は一日家で練習をされていたんですか?」
「うん。今日は学校もなかったし、納得行くまで絞り込むつもりだったからね。君は今日はインタビューだっけ?」
「ええ、たいしてものではありませんでしたがね」
僕たちはたあいない話をあれやこれやとしながら、気持良い春の夕暮れを楽しんだ。
今年は二人で桜を見に行こうと言っていたのに、またお流れになってしまったなぁ。このあたりの桜の木はほとんど散っていて葉桜になってるし。今年も見られなかったのが残念だ。
というより、目に入らなかったというのが本当のところだけど。
ゆとりのある生活をしていきたいと思うのに、なかなかそうはいかない。それだけ毎日の生活が充実しているということなのかもしれないけど、季節を愛で、感性を豊かにするような日々を過ごせたらいいと思う。
「ところでこの道を行くのは何か目的があるのかい?」
富士見川のほとりの道を散歩するのはいつものコースだけど、たいていは富士見橋から二つ三つ先の橋で引き返してくる。
でも、圭はそのまま歩き続けているんだ。この辺りには点々と畑が残っていて、遠くの方まで見渡せるのも目に楽しい。
「もし時期が合えばいいものが見られるはずです」
そう言って歩き続けていく。
家を出てきたときは夕方でもまだ空は明るく、青い空がオレンジ色に変わり始めたところだったのに、そろそろ周囲が薄暗くなり始めている。でも、冬と違ってどこか空気が甘く感じられる。
「ああ、ありましたよ」
圭が指差した方を見て、息を呑んだ。
その木は、農家らしい家の前に植えられた一本の桜樹だった。
夕暮れの、周囲の風景が闇の中へと沈みかけているなかで、その木だけが存在を誇示していた。
その木一本だけが浮かび上がって、はかなさと驕りを見せつけているようで、息を呑むような美しさだった。
ほの白く輝く花々は、オレンジ色の残光を受けていつもよりも紅く染まっていて、華やかで、そしてどこか孤独に見えた。
「・・・・・すごいね」
「今が一番の満開でしょうね」
僕たちは手をつなぎ、息を殺すようにして、桜樹を見つめていた。
華やかな桜の花のすがたをこのままいつまでも見ていたいと思っていたけど、夕日は瞬く間に沈んでいき、明るく輝いて生を謳歌しているように見えていた桜の花も、夕闇の中へと呑み込まれていった。
ほんのひと時、この日、この時にだけ見られる光景だったんだと思う。
「・・・・・いいものを見せてもらったよ。ありがとう、連れてきてくれて」
「いえ。桜が君を待っていたのかもしれませんよ。こんな一番良いタイミングをはかってここに来ることを狙っていたわけではないのですから」
「そうなの?」
「ええ。以前この辺りまで散歩に来たときこの桜があるのを見つけていたので、今日はたまたま思いついてお連れしただけです。
花が咲いたら君と来たいと願っていましたが、これほどとは思いませんでしたよ。川のそばなので他の木よりは咲く時期が遅いかもしれないとは思っていましたがね」
「それじゃあ、元気を分けてもらった桜にも感謝しなくちゃね」
「君の力になれたのなら、桜も本望でしょう」
そう言ってほんのりと笑った圭こそ、僕の力になりたくていろいろと気を使ってくれている。
僕はとてもありがたく思っているし、ロン・ティボーコンクールへの出場が決まり、練習にかかりきりになってしまってほったらかしになっているのが、申し訳ないと思っているんだけど。
「ちょっと今日は根を詰めすぎたのか、疲れちゃってね。まだ一次予選のためのビデオ撮りの前だっていうのに、こんなことじゃしょうがないよな」
ああ、なんでこんなに僕は愚痴っぽいんだろう。今日は特に気分が落ち込んでいるみたいだ。情けない。
「高く飛ぶためにはより深く身を低くかがめなければ飛べない、と言いますよ。今は飛翔するための準備期間です。そう思っていればいいのではありませんか?」
「・・・・・いい言葉だね」
圭は本当に励ましてくれるのがうまい。
どんな成果を出せるかどうか分からないけど、十一月に向けて力をためて頑張ろうと思う。こうやって僕の背中を優しく押してくれる素晴らしい恋人がいるのだから。
僕は夕闇にまぎれて、素敵な言葉で僕の気持を浮上させてくれた恋人に感謝をこめてキスをした。圭はその返礼として、熱いキスを返してくれた。
「さて、そろそろ『ふじみ』に行きましょうか」
「うん、そうだね」
僕たちはすっかり暗くなった川沿いの道を、手をつないで引き返して行った。
季節はもう夏ですが、フジミの暦では現在五月の連休のようなので(笑) こんなお話で失礼します。 |
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2009.7/7 up