【 2 】
そんなある日のこと。
朝から天気予報では夕方には天気が崩れると言っていたけれど、当たりそうにないようないい天気の日だった。いつもよりも通りを通る人の数が多いのは、今日から開催されるという音楽祭のためかもしれない。駅前の広場では催し物があり、ホールでは有名な地元出身の女性バイオリニストを呼んで夜にコンサートが開かれるそうだ。
という話は駅前のCDショップに勤めているカナちゃんから聞いた。
CDショップと言ってもCDだけじゃなくて初心者向けの楽器や楽譜や必要品なんかも置いてある。鍵盤ハーモニカやカスタネットなどの子供向けの楽器の他に、弦楽器の弦とかまつやにとか管楽器なら手入れ用の道具とか。音楽教室に通うお客さんなんかが買いに来るのだ。それに音楽関係のチケットなんかも取り扱っていたりする。
カナちゃんはこの街に来て仲良くなった友人のひとりで、さっぱりした性格をしていて自分の恋愛よりも他人の恋バナのほうが好きらしくて、なにかあるとすぐあたしと音海さんとをくっつけようとして話をふってくる。
どうやら今回の音楽祭のチケット2枚を音海さんはカナちゃんに頼んだらしい。きっと誘われるはずだ、ぜひ行くべきだなんてことを言った。そんなことはないと思う。きっと誰か他の人と行くはずだ。あたしがバイオリンに興味があるなんて言ったことはないのだから。
それにバイオリンの音を聞くのは今もちょっと切ない。
だから、もし・・・・・もしも誘われても、断ってしまうだろうなぁ。
なんてことを考えていたら、電話が鳴った。
「はい、音海バイオリン工房です。
あ、カナちゃん。店長なら今留守だけど。え?違うの?バイオリンの弦?ああ替えの弦ね。うん、その種類なら置いてあるよ」
カナちゃんの話では、今店に来ているお客さんの欲しいバイオリンの弦が売り切れだったそうだ。それでうちの工房を紹介したから、買いにやってくるという話だった。
「来るのは、モリムラさんね。わかった」
プロ仕様の銘柄だから、カナちゃんの店には数が置いてなかったのかもしれない。欲しいと言われた弦は確かにうちにある。もしかしたら来ると言うお客さんはプロのバイオリニストさんなのかも。
しばらくするとドアベルが鳴ってドアが開いて、眼鏡をかけたハンサムでやさしそうな男性が入ってきた。肩にはバイオリンケース。
「あの、駅前の店でこちらにもバイオリンの弦を置いてあると聞いてきたのですが。モリムラと言います」
「あ、はい。聞いています。こちらのメーカーのものでいいんですよね」
あたしが弦を見せると、眼鏡さんはほっとしたようにうなずいた。それから楽しそうに工房の中を見渡していたあと、棚においてある他の弦も手にとって、いくつか購入した。
「あなたがバイオリンを製作しているんですか?」
「いえ、店長がバイオリン作家なんですが、今出かけていまして。あたしはバイオリンのことはあまりわからないんです。あ、よろしければ弦をこちらで替えて行きますか?」
「そうですね。そうさせてもらいます」
あたしが工房の作業台を示すと、うなずいてバイオリンケースを開いた。
いったいどんなバイオリンが出てくるのだろう。まさかストラドとかグァルネリとかは出てこないだろうけど、それなりに古くて有名な工房の作品に違いない。ちょっと楽しみ。
ところがモリムラさんの持ってきたケースの中に入っていたのは、まるで作られたばかりに見えるニスのつやつやしたバイオリンだった。
「綺麗なバイオリンですね。なんだか出来たばかりの新品みたい」
ちょっとがっかりした気分で、モリムラさんが手馴れた手つきで弦を交換しているのを見ていた。
「ええまあ、まだ作られてから十年経っていないからニスもあざやかでしょう?それでよくオールドと呼ばれる古いバイオリンと音を比較されちゃうんですよ。でも音のポテンシャルは高いので、まだこれから音が伸びていく最中なんで楽しみなんですよ」
楽しそうに言いながらペンチで余った弦を切っていく。
「モリムラさんはプロのバイオリニストさんなんですか?あ、もしかして今夜のコンサートに出るとか・・・・・」
もしかして団員さんだったのかな。でもそれだったら今頃のんびりバイオリンの弦を買いに来てなんかいないか。
「いやぁ、僕は今夜は出演しないんです。所属しているオーケストラは出演しますけどね。僕は他の仕事が入っていたので残念ながら参加できなかったんですよ。このあとはオケと合流してツアーに参加することになってますけど。
今日は予定していたより早く仙台に到着できたのでみんなの演奏をゆっくり聞いていこうと思ってます」
さて、出来た。
そう小さくつぶやくとモリムラさんはバイオリンを構えた。
弦の具合を見るために試しに弾いてみるらしい。調弦をして、それから構えなおす。
ぴん、と空気が張り詰めた気がした。バイオリンが歌い出すと一瞬にしてここは音楽ホールに変わった気がした。
エア。
G線上のアリア。
バッハの作曲した有名な曲。
あたしがコンクールで弾いて入賞して大喜びして・・・・・そしてバイオリンをやめるきっかけになった曲だった。
でも、なんて、ああ、なんて綺麗な曲だろう。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
メガネをかけた男の人が心配そうな顔があたしをのぞきこんでくる。モリムラさんだ。
「・・・・・え?」
ハンカチを差し出されてとっさに受け取ってしまったけど、なんで?
不思議に思いながらぱちぱちと目をしばたたくと、ぽろりとまつげから雫が落ちた。
「す、すみません!」
真っ赤になってうつむいてしまった。モリムラさんだって見知らぬ女の子が突然泣き出したらびっくりするに違いないのに。
それなのに、あたしったらそのままぽろぽろと子供の頃のことを初めて会ったばかりのこの人に話していた。
小さい頃はバイオリンがなによりも大切な宝物だったこと。でも、自分に才能がないことに気がついてバイオリンを手離してしまったこと。
好きだったバイオリンに嫌われてしまったような気がしてバイオリンから逃げ出していた。
でも、心の中ではずっとバイオリンが好きで、またバイオリンが弾きたくて。でも認められなくて。忘れたふりをしていたけれど、今も忘れられないこと・・・・・。
「バイオリンを好きですか?」
やさしいテノールが聞いてきた。
バイオリンが――――好き?
ぽんとあたしの心の中に入ってきた言葉。
ああ、そうだ。あたしはずっとバイオリンが好きだったんだ。嫌いなふりをして、必死で忘れようとしていた。でもずっと心の奥にバイオリンがあって。
だから就職先に音楽関係を選び、今はここのバイオリン工房にいるのだから。
「バイオリンは・・・・・好きだったんです。昔は・・・・・そして、今も」
今はそう口に出していえる。
「そう」
モリムラさんはあたしの葛藤なんてまったく知らないはずなのに、まるで何もかもわかっているかのようににっこりと笑ってみせた。
「あ、あの、モリムラさんはバイオリンが嫌いになったことってありませんか?」
なんてことを聞いちゃったんだろう。
きっとこの人は小さい頃からずっとバイオリンを弾いてきていた人で、迷ったことなんてなかっただろうに。
「うーん。嫌いになったことはないけど、バイオリンをやめようかと思ったことは何度かあるかな。
僕はずっとコンプレックスだらけだったんですよね。他の人よりもずっと遅くにバイオリンを始めたから。小学生からだったんです」
と言われて、思わず「嘘っ!」と言ってしまった。あたしだって知っている。たいていのプロのバイオリニストさんは幼稚園くらい始めるものだって。もっと小さいときから始める人だっているって。
この人はすごい努力を重ねたからプロになれた・・・・・んだろうか。
ちくりと胸が痛んだ。
「大学はなんとか音大に入れてもらえたけど、新潟の田舎育ちだったから、東京に来て右も左もわからないような状態で、もう萎縮しちゃってたんだよね。
一発勝負で臨んだオーケストラのオーディションを受けられなくて就職できなかったし、音楽教師になろうかと思ったけど、就職試験に合格出来なかったし。本当に今考えてもよく音楽家になれたと思うんですよ」
大学を卒業して、せめて音楽の仕事にかかわっていたかったから教師の道を選んだけれど、教師志望の音大卒業生は多いから就職試験にも受からなくて、2年以上臨時採用教師として細々と暮らしていたこと。いつ仕事がなくなるか、次の仕事があるかわからなくて不安だったとモリムラさんは言った。
どうしようもない気持ちを抱えながらアマチュアのオーケストラで弾いていたことだけが救いだったこと。でも次第に夢や情熱はしぼんでいったことも・・・・・。
音大を卒業した者が全部プロの音楽家になれるはずがない。毎年大勢卒業しているのだから。音楽教師だって同じだ。あたしはいつの間にかバイオリンを弾けることとプロになれることが同じことのような気がしていた。子供の頃はそう信じていたけど、大人になった今ならそんなことがありえないってことは知っている。なのに今更ながら目から鱗が落ちた気がした。
あたしはプロのバイオリニストになれないからってがっかりしてバイオリンを捨てるなんて馬鹿な意地を張っていたんだ。バイオリンをやめたからプロになれなかったんだって・・・・・ひどい言い訳にして。
バイオリンが好きって言っているのなら、バイオリンを手放すなんて出来なかったはずなのに。
「パパやママはバイオリンをやめるって言ったら引き止めていたんですけどね。意地を張って聞かなかったんです」
「それはご両親も残念に思われただろうね」
「モリムラさんのご両親は音楽関係の方なんですか?だからバイオリニストを目指したんですか?それともプロのバイオリニストになるってことを、反対されたりしました?」
「僕は越後の農家の不肖の息子なんだよ。もう両親は二人とも亡くなっているけどね。でも中学の頃になくなった父も、がんばって音大に入れてくれた母も応援してくれていましたよ」
えっ・・・・・。
苦学生でずいぶんギリギリの生活で大学を卒業したみたい。オーケストラに入るためにがんばって、でも入れなかったときの絶望感は・・・・・あたしなんかとじゃ比べものにならない。
あれ、でもどうやって今プロの演奏家になれたのかな?
「・・・・・あ、ちょっとごめん」
ポケットから携帯の着信音が鳴っていた。
「はい、守村です。ああ桐ノ院さん。リハーサルは終わったのかい?
・・・・・は?ええっ!?ち、ちょっとそれは無茶すぎ!
・・・・・うん、うん。なるほど。そういうことならしかたないか。わかった、引き受けるよ。そちらにすぐ行く。・・・・・は?迎えに行くって。きみは忙しいはずだろ。別に僕一人でも。いや、まさか街中で遭難なんて・・・・・。信用ないな。わかった。じゃあ待ってるから。ここの場所は・・・・・」
ぱちりと携帯を閉じると申し訳なさそうにモリムラさんはあたしの方を向いた。
「もう少ししたら迎えが来るそうなので、もう少しいさせてください」
「もしかして、今夜のコンサートに出演することになったんですか?あ、聞き耳立ててごめんなさい」
「ええ、代役を頼まれました」
淡々とした様子でモリムラさんは言った。不安も気負いもない様子で。むしろ楽しみにしているみたいで。
「そんなに突然のことなのに、緊張しないんですか?」
「そりゃ緊張してますよ。昔は吐き気がするくらいに人前で弾くことが嫌でたまりませんでしたけど。コンクールに参加しなかったのもそのせいでしたけどね。でも、昔よりは楽しめるようになったかな。僕の音楽を受け取ってくださいとちゃんと言えるようになったから」
プロの音楽家としての誇りと自信がモリムラさんを輝かせている気がした。
こんなふうに思えるから、この人は音楽家になったんだろう。そして今も舞台に立っている。
「モリムラさんはどうやってプロの音楽家になったんですか?」
「ある日アマチュアオーケストラに桐ノ院さんという指揮者がやって来たのが始まりでしたね。最初はプロになれなかった僕がプロとして活躍している彼にコンプレックスを刺激されまくってましたけどね」
モリムラさんはなつかしそうに話してくれた。
「それで、彼の指揮で僕がコンチェルトを弾くことになったんだけど、うまく弾けなくてイライラして。それにプライベートでも、ケイと一緒に音楽をやっていきたいけどあきらめなきゃならないかもしれない、別れなきゃいけないかもしれないなんて不安がごっちゃになって、とうとう気持ちがいっぱいいっぱいになって、練習のときにバイオリンを投げ捨てるなんて暴挙をしたこともあるんですよね」
「ええ〜っ!?」
「でもその時に、もうバイオリンはやめようと本気で思っていたくせに、もっと良い楽器を差し出されたら先ほどのやめる決意なんてあっさりと忘れて、いそいそとまたバイオリンを手にとってました。僕にはバイオリンを捨てるなんてことはできなかったんです」
今でもその時のバイオリンは修理して手元にあるという。でも力量不足な楽器になっていて、もうコンサートに使うことはないらしい。
そして、指揮者の桐ノ院さんから応援するからもう一度バイオリニストとして挑戦してみないかと言われて、一念発起してコンクールに参加して、必死で練習して、思いがけず入賞して・・・・・。
モリムラさんは、それはそれはとてもやさしいほほえみを浮かべて言った。大切なものをかみしめるように、まるで恋人のことを語っているかのように。
「他にもいろんなことがあったけどね。今はようやくバイオリニストですって名乗れるようになったんです。それでね、桐ノ院さんは自分がオーケストラを作ったら、コンマスをやってくれって言われてたんです。あ、コンマスってコンサートマスターのことだけど。それが彼はとうとう夢を実現して本当に作っちゃったんです。僕は今そこでコンマスをやらせて貰ってるんですよ。」
「へぇ〜、すごいですね!」
聞いてみたい、って思った。このモリムラさんがどんな演奏をするのか。どんなふうにバイオリンを歌わせるのか。
「ケイと一緒に音楽をやれるのは本当に幸運だと思ってるんです」
ケイって恋人なのかな?嬉しそうにほんのりと笑みを浮かべていた。
「それはすてきですね」
うらやましい。
素直にそう思えた。
あたしはバイオリニストになれなくて舞台にに立つことは出来なかった。でも、趣味としてなら弾くことはできるんじゃないの?バイオリンを歌わせることならあたしにもできる。
すとんと何かが胸に収まった。
モリムラさんの音楽を、純粋に楽しんで聞くことが出来そうだ。
あ、今日、もしチケットがあればすぐにでも聞ける。カナちゃんにチケットがまだ残ってないか後で電話してみようか。
からんからん・・・・・。
ふいにドアベルが鳴って、ぬっと背の高い男の人が入ってきた。
うわー大きい!
モリムラさんも背が高い方だけど、この人はもっと大きい。2メートルくらいあるんじゃないかしら。この人も美形だけどなんだか不機嫌そうに見える。
「お待たせしました」
どうやらお迎えが来たみたい。
背の高い彼にうながされて店を出ようとしていたモリムラさんは、立ち止まってあたしの方を向いた。
「できればまたバイオリンを手にしてあげてください。そろそろ仲直りをしてもいい頃でしょう?」
「あ・・・・・はいっ」
あたしが返事を返すと、うなずいてモリムラさんは歩き出した。
「あの、演奏がんばってください!もしまだチケットが残っていたら、今夜絶対に聞きに行きますから!」
あたしが声をかけると、にっこり笑って店を出て行った。迎えに来た背の高い彼はじろりとあたしを睨んでから出て行った。なんで睨まれたのかわからないけど。
さて、こうなったらすぐに実行。やり残した仕事がないことを確認してから携帯を取り出した。カナちゃんに電話しなきゃ。
ところがそこにカランカランと音がしてドアが開いた。
お客さんかな。
いらっしゃいませと声をかけようとしたところで振り向くと、入ってきたのは音海さんだった。
そうして、あたしはモリムラさんが出演するはずのコンサートに来ている。
カナちゃんにチケットを頼んだわけじゃない。実は工房に帰ってきた音海さんがチケットを1枚差し出して、貰ってくれないかと言い出したのだ。
「一緒に行く予定だったヤツが行けなくなっちゃって余っちゃったんだ。もし興味があるなら行きませんか?あ、僕が隣りでも構わないならだけど」
「はいっ!ありがとうございます。行きたいです。チケット買わせて貰いますね」
「えっ・・・・・。あー、うん。貰ってくれて構わないんだけどね」
「えー、申し訳ないです。そんなことできませんよ」
音海さんは肩を落としながら困った顔でぼそぼそと言っていたけど、無理やり代金を押し付けた。
工房を早めに閉じて、一度アパートに戻っていそいでシャワーを浴び服を選んで着替える。
ピンクのカーディガンがいいかな。スカートはこの間買ったチェックのがかわいいし。
化粧も丁寧に直して玄関を出た。
・・・・・なんだかデートみたい。って、嘘ぉ。まさか。何考えてるのよ、あたしったら。
なんて考えたりしていたせいか、なんだか支度に時間がかかってしまって、ぎりぎりに会場に到着するはめになった。
「ごめんなさい!」
音海さんにおわびしてそそくさと隣りの席に着いた。
さて、どこにモリムラさんはいるだろうか。コンマス席かな?
開演のベルが鳴るとすぐに舞台が明るくなって、舞台袖から次々に楽器を手にした団員さんたちがやってきて並べてあった椅子に座っていく。
何人ものバイオリン、数人のビオラ、チェロに管楽器・・・・・。でも、モリムラさんの姿はなかった。
全員が席に着くとコンサートマスターがやってきて音出しをする。でもその人もモリムラさんじゃなかった。
そして、指揮者が舞台に登場した。モリムラさんを迎えに来た背の高い人だった。もう一度バイオリンの人たちの顔を確認したけれど、どこにもモリムラさんの姿はなかった。いったいどうしたんだろう。
もしかして、モリムラさんの代役は中止になったんだろうか。
右左と捜し回って、でも見つからないうちに演奏が始まって、音楽に引き込まれてしまうとモリムラさんのことは棚上げになった。
今回のコンサートはロマンスがテーマだそうで、どちらかというと聞いたことがあるような名曲が多い。それだけ聞きなれた人には比べられてきついかもしれないけど、どの曲もとてもすてきだった。
あたしは久々のコンサートをうっとりと聞きほれていた。
第一部の最後の曲が終わって、一度団員さんたちが舞台を下がっていくのを、ほおっとため息をつきながら拍手で見送った。ここで30分の休憩後、円藤麻里子さんという女性バイオリニストによるチャイコフスキーのコンチェルトが続く。
久しぶりに聞くオーケストラの音はやはりすてきだ。知らないオーケストラだけどいいハーモニーを奏でていたし、指揮者のパフォーマンスもよかった。あれ、なんていう名前だったっけ。貰っていたパンフレットを見る。
ええと、桐ノ院圭・・・・・。とうのいん、けい?・・・・・『ケイ』!?
あ、もしかして・・・・・さっきモリムラさんがぽろっと恋人っぽく言ってた『ケイ』ってこの人のことなの?
あーあー、そういうことなんだ。音楽業界ってそっちの人が多いって聞くものね。どっちも美形だったから、まあいいかもね。BL好きのカナちゃんならきっときゃーきゃー騒いでただろうな。
「あのね、もしかしたらがっかりするかもしれないけど」
ロビーで休憩している間に音海さんが言い出した。
「二部のバイオリンコンチェルトのソリストが変更になったらしいんだ」
音海さんが知り合いのホールの人に聞いた話では予定していた女性バイオリニストが今日事故にあったらしい。幸いにもたいしたことはなかったそうだけど、足や腰を打撲していてソリストは出来なくなったんだそうだ。
「怪我をした彼女には申し訳ないけど、僕としては『草薙』が聞けるからむしろ嬉しいんだけどね」
「草薙っていうバイオリニストさんなんですか?」
「いやいや、草薙はバイオリンの銘なんだ。僕が尊敬している西大路さんっていうマイスターが作ったバイオリンでね、ぜひいつか聞いてみたいって思ってたんだ。
今回演奏するのは、その草薙を貸与されている守村悠季っていうバイオリニストなんだよ」
守村悠季、ですって?・・・・・モリムラさん?
曲目紹介のあるパンフレットの中には最初の女性バイオリニストのことが書かれていたままだった。
パンフレットの他にもあちこちのコンサートや音楽イベントのチラシを何枚も貰っていたけど見ないで無視していた。あわててチラシを調べてみると、まぎれて差込みで入っていたらしい紙があり、お詫びと変更を兼ねたソリストの紹介が書かれていた。
邦立音大卒業後、日本音楽コンクール入賞、イタリアへ留学、ロン・ティボー国際バイオリンコンクール優勝。桐ノ院圭フィルハーモニー交響楽団でソリスト、コンサートマスターを兼任。などなど・・・・・。
粒子の粗い写真はどこかから転載したものだろうけれど、メガネをかけたその人は見覚えがある。
モリムラさんって、ソリストだったんだ!
紹介だけ読めば挫折など知らない順風満帆に音楽家人生を歩いてきたって思うだろうけれど、あたしは知っている。守村さんっていう人はすごくがんばって今の場所にいる人なんだって。
チャイコフスキーのコンチェルトって前から好きだったけど、こうなったらますます楽しみになってきた。
休憩が終わって席につくとやがて照明が落とされてアナウンスが入った。
『第二部を開演いたします。――――バイオリンソロが変更になっております。
ピョートル・チャイコフスキー作曲、バイオリン協奏曲ニ長調作品35。指揮者桐ノ院圭、バイオリンソロ守村悠季――――』
そしてまた団員さんたちが席に戻ってきた。音あわせがあって、拍手のなか指揮者とバイオリンを手にしたソリストが舞台に出てきた。
確かに守村さんだった!
その日の演奏はとてもすばらしかった。
あたしの感想だけじゃなく、ホールを出て行く他のお客さんたちも興奮した様子でいい出来だったと言い合っていたから。
「いやぁ、すごかったねえ!草薙ってバイオリンはストラドタイプに作られているって言う話だったけど、まだ作られてから日が浅いから音の深みが足りないって聞いていたんだけど、そんなことなかったなぁ!うーん、もっと近くで見てみたいぞ」
音海さんが興奮した様子で話す。まるで子供みたいに。
あたしが近くで見た上に、演奏してもらったなんて言ったら・・・・・どんな顔をするだろうか。
あ、そうだ。あたしが持っているバイオリンのことも、思い切って話してみようかな。
駅に近くなったとき、ぴたりと足を止めて音海さんがあたしの方を向いた。
「もしよかったらなんだけど、このあと僕と一緒に食事に行きませんか?その、今日の演奏会のこととかしゃべりたいし、仕事のこととかも聞きたいし」
「はいっ、喜んで」
音海さんは小さくガッツポーズをしてから、いい店があるんですと言って足取りも軽く歩き出した。
「ねえ、音海さん。実はみてもらいたいバイオリンがあるんです」
チューハイで乾杯して、コンサートのことや仕事のことなんかを話しているうちに、あたしは昔バイオリンを弾いていたことを話し出していた。
思い切って話したつもりだったのに、音海さんは驚かなかった。どうやらすでに察しがついていたらしい。バイオリンの持ち方や手入れなんかを教えてもいないのに客に説明しているのを聞いて、そうなんじゃないかって思ってたらしい。でもあたしが言い出さないから黙っていてくれたみたい。
そして、前の職場で手に入れた不遇なバイオリンのことも話してみた。
「またバイオリンを弾いてみたいかなって思うようになって、使いたいんです。でも今のままじゃ音がひどいんですよ。手を入れてもらったらもう少しよくなるかなって」
「いいですよ。今度持って来て。見てみましょう」
きりっとした顔で言ってくれたところは、できる職人って感じでかっこよかったけど、お酒が入ってリラックスした頃にぽろっと、あたしが今日守村さんが弦を買いに来てくれてアリアを弾いていったことをしゃべっちゃったら、とたんにムンクのようなポーズをして、子供のようにくやしがっていた。
そのギャップにちょっと笑ったりして。
帰りがけに音海さんがまた食事に誘ってもいいかと訪ねてきた。
カナちゃんがチェシャ猫のような笑いをしている姿が一瞬脳裏に浮かんだんだけど。
あたしは・・・・・まあいいかなって思って、OKした。
ちなみに、あのバイオリンは音海さんが分厚かった裏板を丁寧に削ったりあちこち手を入れてくれて音にゆがみがなくなったら、見違えるほどすてきな音を出すようになった。
今ではあたしのお気に入りのバイオリンになっている。
「Da Capo」と対になっているお話です。 こちらの方が先に出来ていたのですが、守村さんも桐ノ院さんもほとんど出てこない話が先では申し訳ないので、両方そろえるまで時間がかかってしまいました。 この話は某蜜柑色文庫の中の一冊からネタを貰ったものです。主人公が小さい頃バイオリンを習っていて、職場に嫌気がさして仙台に行く。というところまではほとんどそっくり頂きました。その後となるとまったく違いますが。 ちなみに頂いた小説はその後の部分が納得いかないものでした。すぐあとに出てくるメインキャラクターである尊大なバイオリンの精霊の挿絵が桐ノ院氏に似ていて買ったのですけど。(笑) シリーズ化するつもりだったのかもしれませんが、見かけませんからコケたのかも? |
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2018.12/06