ヘルマンとのいささかの愁嘆場はあったが、その後は何事もなく国内空港のテーゲル空港から日本への帰路につき、僕は無事成田に降り立つことができた。

実家に到着してみると、どうやら事態は意外なものだった。

祖父の病気は重篤なものではなく、電報は父の嘘であったようだ。だが祖父からの勧めもあってそのまま日本での活動を始めることになった。

帰国したときに見聞きした伊沢と祖父とのゆるがない絆をうらやましく感じた僕は、今までとは違う深い愛情を持てる相手が欲しくなっていた。
だから僕は以前日本にいた頃に知り合っていた友人たちと旧交をあたためることはなかった。まあ、まったく新しい環境と職場に慣れるために緊張する日々が続いたということもあったのだが。

例外は新宿二丁目にある【王様の理髪店】のマスターのところに出かけたことだが、これは彼の理容師としての腕が気に入っていたからであり、いわゆる友人としての付き合いのためではない。

彼との軽い雑談の中で、知り合いたちと連絡をとっていないことを話すとため息をつかれた。

「お前さんが留学前はずいぶんと広い社交関係を持っていたのは知ってるぜ。未練たらたらのヤツもいるんじゃないのか?この店にさりげなく聞きに来たヤツもいたんだがな」

僕は肩をすくめてその気がないことをしめした。

「やれやれ、すっかり品行方正になっちまったみたいだな。まるで人が変わったみたいだぜ。桐ノ院圭のそっくりさんかよ、まったく」

マスターがぼやいた言葉に、僕は内心ギクリとした。

思えば確かにそれまでの僕の行動とは全く違う。少し落ち着けば遊びの虫が動き出すのが今までの僕だったからだ。
MHK交響楽団の副指揮者というのがまったく未知の職場であり、いささかならず気負っていたのは自分でもわかっていたが、内実は干されていて毎日見学の日々だったのが現状であったのだから、気分転換のために誰かを探して気の合った相手と酒を酌み交わし会話を楽しみ、そのまま一夜を過ごして憂さを晴らすのが以前までの僕の過ごし方だったはずだ。

しかし実際には、ベルリンから帰ってからの僕はそういったことに興味を持てなくなっていて、友人たちとの広く浅い性愛だけを求めるような恋人遍歴を終わらせていて、誰ともセックスをしていない。

ふと、あの富士見川で彼との運命の出会いがもっと後の事であれば、もしかしたら付き合いを復活させていたのではないかと、思ったことがある。

だが顔も名前も知らないバイオリニストを探すことに必死になった僕は、彼か彼女かもわからない相手のことを想うことに夢中になっていて、暇つぶしのような付き合いを再開する気は失せていた。

その意味では、悠季は全くあずかり知らないことではあったが、僕に加護と恩恵を与えてくれていたといえるかもしれない。

この急な心境の変化を、伊沢は『そういう時期がきたのでしょう』と言っていた。

だが、心の奥に疑念がわく。はたしてそれだけが理由なのか、と。






あの、ベルリンでの最後の日。

窓の外にいた男が叫んでいた言葉を思い出す。


早クコノ窓ヲ開ケテクレ


それから、



―――ソレハ、僕ノカラダダ!!―――




まさかとは思う。

ベルリンでみた窓の外の出来事はただの夢の続きであり寝ぼけていたたけだ。理性と常識ははそう訴える。

だが・・・・・本当にそうなのだろうか?

もし万一だが、あれが現実に起きたことだったとしても、窓の外にいたモノが僕のからだを乗っ取ろうとして失敗したということなのだ。僕は元のからだに戻るのが間に合ったのだから。

しかし、そう信じる心の隅で違う考えが消えてくれない。

桐ノ院圭のからだの中に、別人が入ってしまったのではないか。

もしかしたらあの窓の外にいた男がもともとの桐ノ院圭であり本物であるかもしれず、僕が偽物のチェンジリングであるのかもしれない。

僕はこの件をきっぱりと心の奥にしまい込んで忘れることにした。

しかし、そんなことがあるはずはないと思いつつも、疑惑は消えず黒いシミのように心の奥にいつまでもわだかまっていた。












「圭、ちょっと邪魔してもいいかな?」

音楽室のドアが開いて悠季が入ってきた。

音楽室は防音だから、扉を閉めてしまうと声が聞こえないし、ノックも意味がない。



ここは僕たちの愛の住処。僕がこよなく愛するのは、はにかみ屋のバイオリニスト。

彼が片手に持っているのはしゃれたスーツケース。愛用のバイオリンが傷つくことなくケースごと中に収められる場所を作ってある特注のものだ。数日の旅行ならこれ一つで済むし飛行機の中に持ち込むこともできる優れもので、今年の誕生日に僕が彼に贈ったものだ。

「そろそろ出かける時間だから」

彼のやさしい美貌を目にすると、いつものように心の奥に温かいものがあふれてくる。悠季に出会った日、僕は彼に一瞬で恋をした。そして今はあの頃よりも愛していて、それは日ごとに深化しているのだ。

「そんな時間ですか」

彼は長野でのサロンコンサートに招かれていた。小規模だが音響のいい音楽堂で開かれるもので、今夜のコンサートと明日のマチネーに演奏することになっている。

今回披露することになっているプログラムは彼がずいぶんと気合を入れて練習していた曲目ばかりなので、ぜひ僕も現地で拝聴してみたかったのだが。

「いっしょに行けないのが残念です」

「きみは予定が入っていたんだろ。しょうがないさ」

まったく残念だ。都内での予定がどうしてもはずせなかったのだ。もし行けたなら、デートがてらに彼を車で送ることができたというのに。

「気を付けて行ってらっしゃい」

「うん、がんばってくるよ」

玄関まで見送って、彼のほっそりとしたからだを抱き寄せ、出かけるときのいつものキスをかわす。

悠季は扉をあけたとたん、そうだ、とつぶやいた。何かを思い出したようで振り向いてきた。

「あのさ、二階の窓に手のあとがついてたんだ。拭いといてくれるかな、目立つからさ」

「ええ、やっておきます」

「おっと時間だ。それじゃ行ってきます」

そうして、僕は彼が帰ってくるのを楽しみに待つ。それもまた彼と出会ってからの喜びの一つと言えるだろう。


迷うことはない。


たとえあの男が本来の桐ノ院圭であったとしても、このからだを返すつもりはまったくない。今の僕が幸福そのものであるのだから。

あの富士見川での出会い、紆余曲折と苦難日々の末に手にしたかけがえのない宝物、最愛の恋人、守村悠季が僕の伴侶となってくれている。

彼とともに音楽という一生をかける道を歩いて行けるのだから。







僕は悠季を見送ると、そのまま二階へと向かった。

寝室のドアを開けると、窓ガラスには日の光を透かしてべったりと手形がついているのが見えた。

この大きさは確かに僕のものに違いない。いつ触ったのだろうか。

僕は眉をひそめると、シャワールームからタオルを持ち出して拭き取ろうとした。

しかし、手のあとは落ちない。

なぜなのか。

よく見てみると、


















その手のあとは、窓の外からつけられたものだった。



















毎年恒例のようになった怖い話です。
ネットに上っていた怪談話をベースに、圭がなぜ留学から日本に戻ってきたとたんに、品行方正になっていたかという疑惑を混ぜてみました。

チェンジリングとは欧州で昔からある民話の一つで、夜にかわいい赤ちゃんを妖精にさらっていくと、代わりに醜い妖精の子を残していくというものです。















2021.10/8 UP