Changeling


チェンジリング 取り替えっ子











「最近よく夢を見るんですよ」

僕がポツリとつぶやくと、隣りに横になっていたヘルマンがむくりと身を起こしてきた。

「おや、どんな夢だったんだい、ケイ?」

僕は彼の言葉を聞いて、うっかり口を滑らせたことを心の中で舌打ちした。情事のすぐあとで、気がゆるんでいたらしい。

彼、ヘルマン・オレンハウアーは金髪碧眼の青年で、僕のベルリンで知り合った友人の中でも群を抜いて端正だ。芸術大学の講師をしている人物なのだが、真剣な話題を向けるのは不適切な性格をしているのだ。

「その夢の中には僕も入っていたのかな?」

そんな風に話題を動かしてくる。ピロートークのついでのスパイスがわりの会話としてしか興味がなく、あわよくばこのまま再びセックスの愉しみへとなだれ込もうとしているに違いないのだから。

「いえ、大した夢ではないのですよ。ところで来週の・・・・・」

僕は話題をそらして夢の話は終わりにした。




僕の名前は桐ノ院圭。

東京芸大をみずから中退してヨーロッパに渡り、指揮者になるために各地で武者修行中というところだ。

現在はベルリンのシェーネベルクに滞在しているが、ここでの勉強に見切りをつけて、来月には引き払いロンドンへと拠点を移す予定でいる。

そんな僕が最近悩まされていることがある。下宿先で寝ているとよく見るようになった夢のことだ。
それはよく小説や噂に出てくる幽体離脱や空を飛ぶ夢のカテゴリーに入るものだと思う。

眠っている僕自身の寝姿を見た後、部屋を飛び出してまったく知らない場所へと向かっていくのだ。




ある日の夢は・・・・・

僕は気が付くと薄暗くひんやりと冷たい海の中にいた。
水の中で動くときのように緩慢な動きしかできなかったが、呼吸は何の問題もなく出来ていた。

見たこともないような不気味で恐ろしい姿をした魚らしいモノたちが、時折視界の先をからだをくねらせて泳ぎ過ぎていく。

目の前をぶよぶよとしたウツボのようなモノが通り過ぎた。ちらりと僕の方を見たが、すぐにあわてて動き出す。

次の瞬間、ガバリと黒い影がウツボもどきを丸のみにしていた。黒い影はさらに大きな魚で、僕の記憶の中から例えるなら、アンコウによく似ていたと思うが、大きさはとてつもなく大きかった。

僕は逃げる暇もないあっという間の出来事で、そこに起きたことをただ見ているしかなかった。

アンコウもどきはこちらを見てエサに出来るか思案しているようだったが、突然回れ右をして逃げ出していった。

いったいどうしたのかと思っていたら、視界の左からさらに大きな山のような影が押し寄せてくる。

それは見たこともない生き物で、こちらを捕食しようとしているのは間違いなかった。僕を飲み込もうとしているのに、僕はからだがこわばってしまったかのように逃げることができない。

びっしりととがった歯が生えた口を開き、こちらに向かってくる。喉の奥まで歯が続いているのまで見えていて、それが僕を飲み込んで口を閉じていくのがわかるのに、視界が真っ暗になっていくのがわかるのに・・・・・僕は何もできなかった!


「うわぁぁっ!」


悲鳴を上げて飛び起きてみると、そこが下宿先であり僕の部屋のベッドの上であることに気が付いた。

深い安堵のため息をついた。今の体験が間違いなく夢であるはずなのに、現実に体験したことのようにリアルに感じていたからだ。
冷や汗に濡れたからだがひどく冷たい。

ベッドから起き上がるとキャビネットに置いてあるブランデーを取り出した。グラスを選ぶ余裕はなく、すぐ隣にあるコーヒーカップを取ってベッドへと戻った。

瓶からカップに入れようとすると、ふちにカチカチと当たってうるさかった。

荒っぽく注ぎ入れて一気に飲み干した。カッと喉を焼くアルコールの熱が夢の衝撃を和らげ、じわじわと効いてきた酔いが心を落ち着かせてくれる。


「・・・・・ただの夢だ」


自分に言い聞かせるようにつぶやくと、カップとブランデーの瓶をサイドテーブルに置いたままでベッドに横になった。バサリとシーツをかぶると目を閉じ、酔いが眠らせてくれることを祈った。

今度は悪夢は訪れることなく、なんとか朝まで眠ることが出来た。





しかし夢はこの晩だけで終わりにならなかった。

数日おきに悪夢が襲ってくるのだ。

夢が見せる場所は同じではなかったが、どれも恐ろしいところばかりだった。

ある時は溶岩が煮えたぎる海のような場所にいた。ぽつんと残された小さな岩の上に取り残されて、荒々しく波立ちながら押し寄せてくる真っ赤な津波のような大きな波が僕にかぶさってこようとしているのを、どうしようもなく黙って見ているしかなかった。

ある時は荒野のただ中に立っていた。遠くから黒くて巨大な雲が押し寄せているのを見ていた。雲の中に稲光のようなものが立て続けに光り、刻々と色や形を変えていく。恐ろしくも美しい眺めだった。

ゆっくりと近づいて来る雲は次第に大きくなり、大地にあるものすべてを飲み込んでいるように見えた。雲の後に残されたものは虚無なのだと、なぜか僕は知っていた。

雲の正体が何なのかは分からなかったが、あれがここまでやってきたらすべてが滅びるのだろうと夢の中の僕は悟っていた。何もできず、動くこともしないまま、僕は雲の中に飲み込まれ・・・・・。

飛び起きて冷や汗にまみれ、夢だったのだとベッドの上で安堵のため息をつくのは毎回同じだった。

そんな夜が続くと下宿で眠るのが嫌になる。

そこで誘われるままにこの地で親しくなった友人たちの家やホテルについていくことが多くなった。一緒の夜を過ごし、一夜限りの恋人と朝まで共にする。

これは効果があった。外で眠ればあの恐ろしい夢は見なくなったのだ。

そこで僕は友人の家に泊まったり、飲んでそのままホテルに泊まるようにした。下宿に戻るのは着替えとシャワーのため、あるいは部屋に置いてある本や楽譜を取りに戻るときだけとなってしまい、下宿先のハーグ夫人に嫌味を言われるようになったのだが。

まあしばらくの辛抱だ。イギリスに移動するのはまもなくなのだから。



どうしても下宿で眠らなければならないときは、友人から処方してもらった軽い睡眠導入剤が役に立った。

医学関係の本の中に、夢は意識が浅いうちにおきるとあったもので、眠りを深くしたことで悪夢から解放された実例が書かれていたからだ。

あの悪夢から逃げ出せなくなるのではないかと少し不安になったが、試しに薬を飲んで休んでみて安心した。その夜に夢は見なかったからだ。


悪夢の件が一応落ち着いたところで僕は改めてこの出来事のことを検証してみた。

心理学の本を漁ってみれば、新しい場所へ向かうときや新しいことに挑む際の不安や戸惑いが夢の形となって現れると出てくる。

今まで見たことがないような場所のことも、実は覚えていないだけで記憶の奥底に眠る場所の記憶が他の場所と切り貼りされて出てくるのだと解釈がつけられている。

だが、はたしてあれほど明晰な夢をみるものだろうか?記憶力には自信がある僕だから、今まであのような場所に行ったことも画像を見たこともないと断言できる。

ヨーロッパで知り合った知人は多いから、中には医者もいるし心理学を学んでいたりする者もいるが、そんな彼らにこの夢のことを相談する気にはなれなかった。興味本位に根掘り葉掘り聞かれることも嫌だったが、あの体験を誰かに話すのはなぜかまずいというような直感があったからだ。








そうして、夢を見ることがなくなって、ベルリンからロンドンへと拠点を移すまで2週間ほどとなった。

下宿先のハーグ夫人との手続きもほぼ終わっていて部屋を引き渡すだけとなっていたから、残り少なくなった日々を楽しく過ごしていた。
いつものように朝帰りをして下宿先に戻ると、部屋のドアに電報が差し込まれていた。

内容は実家からのもので、祖父の容体が悪いために帰国を促すものだった。

僕は急ぎ帰国することに決めて、その日の航空券を朝別れたばかりのヘルマンに頼み、ハーグ夫人には今日で下宿を引き払うことを伝えた。

夫人が下宿家賃の日割り分を払い戻すために計算を始めたが、彼女の計算が遅いのを知っていた僕は部屋で待つことにして階段を上って自分の部屋へと戻っていった。

忘れ物がないかチェックし、トランク二つに収められた荷物を眺める。ほとんどがこちらで買いそろえた楽譜であり、僕の勉強の成果が詰まっていると言っていい。

一度日本に帰国して、すぐにこちらに戻るつもりではあるが、祖父の具合によっては計画が変わるかもしれない。

そんなことを考えていたが、一時間たっても計算は終わらないのか、なかなかハーグ夫人が部屋にあらわれない。

さすがにもうそろそろ清算を終えた夫人がやってくるだろうと考えながら、僕はなにげなくベッドに腰を下ろした。

ヘルマンと一晩過ごしたことと、急ぎの荷物づくりのせいか、思っていたよりも疲れていたのかもしれない。

からだが重い。

ゆらりとからだが傾くと、そのままベッドに倒れ込んでいた。まるで何かがこの時を狙っていたかのように。


まずい!


心のどこかで警鐘が鳴る。

またあの悪夢が始まってしまう。

しかし抵抗したつもりでも何も変わることはなく、からだは動かずまぶたは閉じたままだった。

そうして僕はベッドに横たわっている自分自身を上から眺め、そして引っ張られていくかのように上昇していった。

すぐに視界は暗転した。






気が付けばそこは森のような場所だった。

森だと言い切れないのは、どこからともなく差し込んでくる緑を帯びた光があたりを満たしていたが、目を凝らして見てもまわりの景色はぼやけたように朧げだったからだ。

からだは・・・・・、動く。

しかし右を見ても左を見ても何も見えない。

どこへ行けばいいのだろうか?

ふわりふわりと小さな淡い光の玉が時折動いているが、こちらに害を成すようなものではないらしい。

その光の玉が、こちらへおいでと誘うように奥の方へと動くので、なんとなく歩き出した。

今までの夢とは違って、ここなら居られる。危険なものは何も出てこないようだ。

・・・・・危険?

ぴたりと足が止まった。

何か、ひどくまずいことが起きている気がした。

ここは僕がいるべき場所ではない。ここにいてはいけない!

そんな直感が働いた。

早く帰らなければ取り返しがつかないことが起きる気がして、ひどい焦燥感が胸をじりじりと焼いてくる。

僕は必死で元の場所へ戻る方法を探した。

何か、何か方法はないのか!?

ちらりと視界の隅に青い光が見えた気がした。

あれだろうか?

僕はなんとかしてその光に近づこうと走り出した。

周囲は次第に光を失い、暗闇が支配していく。ただ一つ、目の前に目指している小さな青い光だけがあるだけだ。

次第に青い光が大きくなっていく。どうやら近づいているらしい。

やがて光は視界一杯に広がっていった。

これは・・・・・まさか、地球か?

僕は暗闇の中に浮かぶ青い惑星らしいものの姿に驚愕した。

なぜ宇宙に来ているのかという戸惑いや困惑はすぐに捨て去った。とにかく今は早く元の場所に帰らなければ。

僕は思い切って手を伸ばすと、一瞬のうちに景色はいつもの空を飛ぶものに変化した。ぐんぐんと雲の中を進み、地上の姿が見え、やがて見慣れた街並みが近づいて来る。下宿先の建物、そして僕の部屋。窓から見えるのはベッドに横たわった僕のからだ。



急げ!!!





ばっとベッドから起き上がると、そこは間違いなく元の部屋だった

「た、助かった・・・・・?」

びっしょりと冷や汗をかいたからだは小さくふるえていて、なかなかおさえることが出来なかった。

僕は深い深いため息をついた。どうやら間に合ったらしい。それがどういう意味なのかは自分でも分からない。何が僕をおびえさせ焦らせていたのかも、まったくわからなかったのだが。



最後の最後でなんという悪夢を見たのだろう。

ちらりと壁にかけられた時計を見やると、眠っていた時間は十分もなかったようだ。本当にわずかなうたた寝だったのだ。

震える足でベッドから立ち上がろうとしたそのときだった。




バン!




突然部屋に大きな音が響いて思わず身をこわばらせた。

一体何の音かとあたりを見回して、ギョッとなった。

窓の外に、人がいたのだ。そして、その顔は








「・・・・・僕!?」


そこにいたのは僕とそっくりの顔をした男だった。

彼は必死の形相で窓ガラスをたたいて何かを叫んでいた。

バンバンと叩く音は聞こえるのだが、何を訴えかけているのかは聞き取れない。

しかし口の動きで大体の意味は読み取れた。


中ニ入レテクレ


そう言っているように見えた。


ケテクレ


こうも読めた。

ふと、男は何かに気が付いたようにうしろを振り向き、ひどくおびえた顔でこちらに向き直り、また僕に向かって叫んだ。



早ク、コノ窓ヲ開ケテクレ!



そして、



―――――――――!!




最後の言葉を読み解いたところで、僕の顔が引きつった。


次の瞬間だった。


窓の外の男はふいに何かに引っ張られたかのように窓から離れていく。

必死で何かから逃れようと暴れていたが効果は無いようで、そのままぐんぐんと遠くに飛び去っていき、やがて雲の向こうへと消え去ってしまった。

あとには晴れたシェーネベルクの空があるばかり。

あっという間の出来事で、茫然と見ているしかできない間に終わってしまったできごとだった。

ようやく気を取り直した僕は、男がいた窓に近づき、恐る恐る下をのぞきこんでみた。

ここは地上階エアデ・ゲショスではない。つまり日本でいうところの一階ではないから、外から部屋の中をのぞき込むことはできないはずだ。

窓から下を見れば数メートル下に地面があり、建物には足場になりそうなひさしなどはついていなかった。

やはりこの窓の外に人が立っていられるはずはなかったのだ。

では、今のあれはいったい何だったのだろうか。

考え込んでいる僕の背後からノックの音が聞こえた。

『フランクフルトを午後三時に発つ便が取れたけど、それでよかったかな?ナリタへの到着時刻は現地時間の午前十時だ。・・・・・ケイ、どうかしたのかい?』

入ってきたのはヘルマンだった。

『いえ、なんでもありませんよ』

僕はからだのふるえを抑え込み何事もなかった顔できっぱりと言うと、さりげなく窓辺を離れることに成功した。