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子守歌
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僕が音楽家を志した一番の要因は、やはり祖父堯宗の影響が大きいのだろう。
祖父は、もし世の中の状況と家の事情が許せば間違いなく音楽家を目指していたはずだ。
だが日本は戦争へとまっしぐらに進んでいた時期であり、音楽などぜいたく品でしかなく、音楽家を目指すなどとうてい言い出すことは出来なかった。
まして祖父は子爵家の家長として家を支える身であるからには、跡取りとしての役目を投げうつ事は絶対に許されない立場だった。
だから、桐院子爵、戦後は富士見銀行頭取としての責務を背負って生きて来た。
唯一の息抜きとして、銀行内にオーケストラを作ってチェロで参加し、また戦後の困窮した時代には、MHK交響楽団を支援したりもしていた。
それでも、おそらく祖父の脳裏のどこかには『もし音楽家の道に進んでいたら』という想いは消えなかったのだと思う。
そんな無言の想いは僕の中に受け継がれているのかもしれない。
僕は大きくなったら必ず音楽家になると決意、いや当然のことと受け止めていたのだ。だが祖父の想いと裏腹に、両親の考えは違うものだった。
だから、初めて僕が無邪気にその望みを口にしたとたん、父や母からの猛反対を受けてしまった。
父が反対するのはある程度予想がついた。
祖父から託された銀行を唯一の跡取り息子である僕に引き継がせるのが自分の使命であると思い決めているようだから。
そして母も。
僕が叱責されている間何も口をはさまず、沈黙を守ることで僕の望みを拒絶したのだった。
そして許せない事に、父母の反対に便乗したつもりなのか、ハツは僕が学校へ行っている間に部屋に置いてあった楽譜やレコード類を全て廃棄するという暴挙をやってのけたのだった。
その上『これは坊ちゃまのためでございますよ』という、あまりにも神経を逆なでするような言葉で自分のしでかした事を正当化してみせた。
(もっとも、後で伊沢から捨てられそうになっていた品々をこっそりと保管してくれていたことを知らされて、どんなに安堵した事か!)
僕と言う人間は、年はまず若くてもかなり『ませた』子供であったのだと思う。
父や母の反対に対して平然とした態度を見せていたのだから。ハツのやった僭越至極な仕方にも騒ぎ立てたりしなかった。
しかし心の痛手は大きくて、僕は屋敷からこっそり抜け出すと、裏庭に建っている物置に隠れこんだ。
ここは僕がいたずらをしてお仕置きとしてよく入れられていた場所なのだが、誰にも邪魔されずに泣く場所は他に思いつかなかったのだ。
誰かにみつかっては嫌だ。だから僕は息をひそめて泣いていた。
それから―――
その後の出来事については、おそらく夢を見ていたのだと思う。次に目覚めた時、僕は自分の部屋のベッドで寝ていたのだから。
声をひそめて泣いていた僕がふと眼を上げるとぎょっとなった。そこは暗く雑然とした物置小屋の中ではなかったのだ!
おかしい、いつの間に外に出たのだろうと思っていたのだが、目の前にある物に気がついてびっくりした。
なにしろ僕の目の前には大きな緑色のウサギが座っていたのだから!
いったいここはどこなんだ!?異世界にでも迷い込んでしまったのだろうか?
まさか不思議の国のはずはない。このウサギは時計を持っていないし、僕は女の子じゃない。
なんて考えて、ちょっと笑えた。
混乱したのは一瞬で、すぐに気がついた。
これは木を刈り込んで作られたウサギなのだということに。
あちこちが不細工なギザギザに刈り込まれているけれど、どこか物言いたげな雰囲気のあるウサギ。
では、ここは誰かの庭なのだ。それにしても、いったいどうやってここに来たのだろうか。
見回せば桐院の庭とは違う、しかし広くて手入れがされた庭だった。
「そこで何をしているの?」
突然ウサギがしゃべりかけてきた。
放り込まれた不思議の国では、どんなに変わった事が起きてもおかしくない・・・・・?
まさか、そんなはずはないじゃないか!誰かいるんだ。
ウサギの背後から、一人の男性が姿をあらわれた。眩しい夕日を背にしているせいで顔がよく見えない。
「ぼ、僕は・・・・・!」
コレハダレダロウ?ナゼカ知ッテイル気ガスル。
そんな思いが頭を駆け巡っていて、彼が心配そうにこちらを見ている事に気がつくのが遅くなった。
「せっかくここに来てくれたんだ、家の中に招待しよう」
かけられた声は、とても柔らかくて優しい。
「いえ、僕は・・・・・」
「ずいぶんと冷えているみたいだよ。温まっていくといい。どうぞ、中に入って」
そして差し出された彼の手は、とてもあたたかかった。
招待された家の中は、見慣れた感じがした。
そうだ、ここはいつか伊沢に連れて行ってもらったことのある富士見町の家にそっくりなのだ。
けれど、よく見ると記憶の中にあるあの家とはあちこち違っていた。
確か記憶の中では応接室だったはずの部屋がここでは音楽室となっていて、扉がなかったはずの入口には防音の扉、そして部屋の中央にはグランドピアノが鎮座していた。
あ、あれはベーゼンドルファーだ!
更に見回すと、壁一面が作りつけの棚になっていたが、ぽっかりと幾つもの棚が空いていた。
引っ越してきたばかりのように部屋の隅には段ボールの箱が置かれていたから、これから入れるのだろうか?
棚の中には既に並べ始めてあったのか、薄い本らしいものがたくさん・・・・・。
すごい、あれは全部楽譜じゃないか!
僕は案内してくれた彼が部屋を出ていったとたんに、無意識で立ち上がって棚へと歩き出していた。
楽譜は様々な作曲家のものが揃えてあったが、よく見るとオーケストラ用の総譜とバイオリン用のピース譜、そしてバイオリン曲が多くを占めていた。
そう言えば楽器用の棚らしいものもあったし、ピアノの上におかれているのは間違いなくバイオリンのケースだった。
思い返せば、ここに連れて来てくれた彼の手は、握った時指先に硬いタコがあった。
ここは音楽家の住む家なのだ!
「音楽に興味があるのかい?」
ぎょっとなってとび上がるほど驚いた。
そうだ、ここが他人の家なのを忘れていた。勝手に立ち上がって棚を見てるなんて行儀の悪いことだった。
「勝手に見てすみませんでした」
「いや、かまわないよ。音楽に興味があるみたいだね」
僕を家に入れてくれた男の人は嬉しそうな気配だったが、すっかり恥ずかしくなった僕は顔を上げることもできなかった。
「はいどうぞ。ホットチョコレートだよ」
差し出されたカップの中には・・・・・ココア?
「料理が趣味の同居人がいてね。これは彼の真似さ」
「いただきます」
手に取ったカップからは、とてもいい香りがしていた。一口飲んでみてさらにびっくりした。
家でハツが作るココアはとても甘い。それにくらべて、甘さよりもほろ苦さが立って香りの強い美味しいものだったのだ。
「美味しいです!」
彼は僕の言葉を聞いて、にっこりとほほ笑んでくれ、僕はその柔らかな笑みに魅了された。
「ん、何?僕の口にチョコでもついてる?」
僕があまりじっと見ていたせいで不審に思ったのだろう。彼の尋ねてきた言葉ではじめてその事に気がついて、ひどくうろたえた。
ああ、何か言わなければ。
「あの、もしよければお兄さんのバイオリンを聞かせてもらえませんか?」
そんなわがままを言うつもりはなかったのに。
口に出してしまって恥ずかしかった。けれど、この人がどんな演奏をするのか、聞いてみたい気持ちがずっとあったのでつい本音がこぼれてしまった。
「いいよ。リクエストにお応えしよう」
僕のずうずうしい頼みに、その人は気軽に引き受けてくれた。立ち上がるとピアノの上のバイオリンを手に取り、ちょっと小首をかしげて選曲に迷ってから演奏を始めた。
彼が弾き出したのは――――G線上のアリアだった。
繊細で伸びのある音色。色彩まで見えるような多彩な表現。きっと名のある演奏家に違いなかった。
次に弾いてくれたのは、チャールダーシュ。
しかし最後の曲はなんだろう?柔らかで優しい曲。
僕は聞き惚れてしまい、その人が弾き終わり弓を下ろすのを見て、あわてて拍手を贈った。
――――うらやましかった。
僕が望んでいても、進む事の出来ないプロの音楽家という道を、この人は歩んできたのだ。
いつもなら決して言えない弱音がぽろりと口から出てしまったのは、きっとこの人の穏やかな雰囲気のせいに違いなかった。
僕がとりとめなく吐き出したくやしさやつらさを、彼は黙って聞いていてくれた。
気休めや根拠のない激励などでお茶を濁すことなく。
そして、肩を抱いてくれるだけのなぐさめがどれほど安らぎをもたらしてくれたことか!
僕は歯を食いしばって声を押し殺していたけれど、ぽろりとひとつ涙が落ちてしまった。彼は見ぬふりをしてくれて何も言わなかった。
父や母の前では決して見せるわけにはいかなかった涙を。
「ボス、ボス?そろそろご自宅に到着します」
宅島の声がかけられて、自分がうたた寝をしていた事に気がついた。
今回の演奏ツアーはかなり多忙だった。
何か所も移動し、その上初めての曲が続いたことでずいぶんと神経を使っていたせいか、ひどく疲れていた。
だからだろう。幼かったころに見た不思議な夢を、今もまた見ていたのだった。
思い返せば、あの時の僕は慰めを必要としていて、夢の中にそれを求めたのだろうと思う。
設定は幼い時に伊沢に連れられて行ったことのある富士見町の家。つまり現在僕たちが住んでいる、あの家を記憶の中から引っ張り出して夢の中で再現してみせたということだろうか。
夢は鮮明で、後日また富士見町にせがんで連れて行って貰った時に、家の中に夢の中にあったことが本当にあったのではないか。少しは痕跡がないかと調べてしまったほどだった。
だが、夢はしょせん夢でしかない。
元々の記憶にあった場所はそのままだったが、夢の中に出て来た巨大な緑のウサギなど庭になく、もちろん応接室には当然扉はなくピアノもなかった。
それではあの青年は?あれもまた記憶の隅から取り出した人物でしかないと言う事なのか。
もしあの夢の中に出て来た青年が、悠季だったならどれほど嬉しいことだろう!
だが残念なことに、夢の中に現実を求めてはいけないということなのか、顔の細部の記憶があいまいだ。
声も・・・・・どうだったかおぼろげだ。
それでも、彼が弾いてくれた曲は断片として今も記憶の中に鮮やかによみがえる。
そう言えば、最後に弾いてくれたあの曲のタイトルは・・・・・?
記憶を探してみてもすぐには思い出せない。だが聞き覚えが全くない曲というわけではなかった。
とは言っても、その曲が悠季が弾く曲のレパートリーには入っていないことは確かで、そのせいで分からないのかもしれなかった。
という事は、あの青年は悠季ではなかったという事か・・・・・?
と考えて、思わず苦笑した。所詮は夢の話。整合性を探る必要などなかったのだ。
「ボス、先ほど言いましたように、事務所に至急で帰らなくてはならない用事が出来たので、玄関までお送りしましたらすぐに戻ります。何かありましたら携帯に連絡してください」
宅島が言った。
「承知した。ご苦労でした」
我が家に到着すると宅島は先に玄関に向かい、僕も続いていつものように歩く足がふと止まった。
庭に今までになかったものがあるのを発見した。
そう言えば由之小路君が植木を1本植えさせて欲しいと連絡してきて、たいしたことではなかったから気軽に了承していたことを思い出した。
あれがそうか。
近づいていって、呆然となった。
「これは・・・・・!」
そこにあったのは、夢の中に出て来たあの緑のウサギだったのだ!
ただ、違うこともある。
記憶の中ではもっと大きなものだと思っていた。けれどここにあるウサギは大きさがまったく違っていて、僕の膝ほどの高さしかない愛らしいイチイのウサギだった。
しゃがんでいたせいで記憶が混乱していたのだろうか?
いや、あれは夢の話だ。現実と混同するべきではない。
そんなことを悩んでいた僕に背後から声がかけられた。
「そこで何をしているの?」
呼びかけてきた声は、夢の中と全く同じものだった!