守村というやつにとっては、未だに我が家の敷居は高いらしい。
レッスンの後はさっさと帰り支度を始めるのがいつものことで、決して長居をしようとはしなかった。
だが、その日は違った。
たまたま薫子を含めた弟子たちが何人かが来合わせているのにぶつかって、相変わらず姉御肌の彼女に引き止められて茶飲み話に引っ張り込まれていたようだった。
その話を隣りで聞くともなしに聞いていたのだが。
「守村くんは正月は実家に帰ったんでしょ。故郷に錦を飾るってことでずいぶんと歓迎されたんじゃないの?」
「ええまあ、姉たちにも親戚に鼻が高いって喜んでもらいましたよ。僕が東京の音大に進んだことで、ずいぶんと責められていましたから、ようやく楽になったみたいです」
「あら、音大進学を反対されてたの?」
「そりゃ、お前は男なんだから母一人での農作業を助けてやれってさんざんに言われていましたよ。田舎っていうのは結構親戚づきあいがうるさいんです。助けてもらえることもありますけど、家の中の事に当然のことのように口を突っ込んできたりするんですよね」
「あら守村くんって男兄弟がいないわけ?」
「ええ。姉が3人いますけどね。だから『東京で役に立たない音楽なんかやっている場合じゃないだろう』なんて怒鳴りつけられていましたからね。一番上の姉にはずっと堤防役をしてもらっていたんで、頭が上がりません」
「あらー、そりゃつらかったわね」
「特に母が亡くなった時に、一時は大学を辞めることも考えたんですが、姉が母の遺志を継ぐ形で僕を支援してくれて」
全く初めて聞く話だった。
「・・・・・大反対していた大叔父が、正月の席で親戚一同を代表して演説したんですが、『俺は悠季はきっとやると思っていた』なんてぶち上げているのを聞いて頭に来ましたよ。顔には出しませんでしたけどね」
「いるわよねー、そんな適当なことをいうおじさんが」
薫子はけらけらと笑って言った。
「んで、あんたにそんなことを言われたくないって言い返したわけ?」
「とんでもない。姉たちはずっとそこに住んでいるわけですからね。僕が波風を立てるわけにはいかないですよ」
「大人の態度で我慢したわけだ」
「にっこり笑ってありがとうございますって言いましたね」
守村にとってはただの笑い話なのだろう。
しかし近くでそれを聞いていた俺は笑えなかった。
守村が大学に居た頃、レッスンのたびに『越後へ帰れ』と何度も言っていたことを思い出していたのだ。
あれは守村の音の原点が彼の故郷である越後であることを理解させようして言い続けたのだが、それを聞いた守村にとっては意味が全く違うものに聞こえていたのではないかと思い至ったからだった。今さらながらのことだが。
一年の頃には素直で呑み込みがよかったはずが、いつの間にか俺の事を信用しなくなってしまったようで、技術は身についていても、音楽性ということについては頑なでまったくこちらの言う事を聞き入れないやつになってしまったのだが、その原因の一端はその言葉にあったのかもしれなかった。
そう思いつくと、更に大学でのあれこれを思い出す。
だが、思いついたところで、今となってはどうしようも出来ないことではある。
とは言え、それを補うようにして今はあの頃には考えもつかなかった師匠と弟子という絆が生まれている。
本当に縁というものは不思議なものだと思う。
その守村に俺が子供のころからみている山田杏奈の面倒をみさせているのだが、たまにレッスン日が同じときには杏奈が守村のレッスンを見学していくこともある。
その日もまたそうだったのだが。
「今日はサン=サーンスの『悲歌』だったな。やってみなさい」
「はい」
守村がバイオリンを奏ではじめる。
ふむ、ほぼ仕上げて来たか。なるほど、こういくか。
―――おい、ここはこういったらどうだ?
―――ですが、こちらの方がしっくりくると思います。
―――だったら、こうなるだろう?
―――はい。・・・・・ええ、そうですね。それならこちらもこうでどうでしょう?
―――悪くないかもしれないな。そうなると、こっちもこのままではまずかろう。
―――はい、それならこうですね。
―――うむ、いいかもしれん。
「他にも3か所ほど同じだからな。次には仕上げておけ」
「はい。ありがとうございました」
ときたまこういうことがある。バイオリン同士で交わすやりとりは言葉を必要とせず、まるで秘密の会話でもしていたかのようにつながる。
言葉には出さないあ・うんの呼吸での教えの授受は実に楽しい。
亡くなった父親とも時々あったのだが、こんなときはいつもの倍ほども教えがいがあるというものだ。
満足のいく結果に機嫌よく杏奈の方を向いて、感想を聞こうとしたのだが。
「ずるい!」
突然に杏奈が言った。
「ふっくん先生も守村先生も私がいるのに二人きりで内緒話をしてる!」
ぷんとふくれて部屋を出ていった。ばたばたと足音がして奥へと行ったようだから、おそらく家内になぐさめてもらうつもりなのだろう。
俺は内心でにやついていた。あの負けず嫌いならきっと発奮してくるに違いない。あれは俺と守村との間に起こった共鳴に嫉妬したのだから。
「あ、あの・・・・・?」
だが、嫉妬された当人の守村の方は、まったく気がついていない様子。
「なんでもない。今日はここまでだ」
「あ、ありがとうございました」
戸惑った顔で帰っていった。
いかにも、やつらしいことではある。
こんな感受性と鈍さの両方を持っていることが。
ただ、演奏家としてならそれでもいいが、教育家としては困るということなどは、これからおいおい尻を叩かなければならないことだろう。
せいぜい精進するんだな、守村!
さて、今度はこちらをなんとかしなくては。
俺は杏奈の機嫌を取り結ぶために、奥へと戻っていった。
2012.12/31 UP
タイトルの意味は、お分かりの方も多いと思いますが、『磯の鮑の片思い』(笑)
福山先生の歯がゆい思いをちょっとだけ書いてみました。