雪の記憶










不思議な夢を見た。

あたり一面が白い場所を、僕は一人で歩いていた。

でも、不思議なことにどこに行けばいいのか分かっているようで、僕の足はどんどん先へと進む。

ここはどこなのだろう?

そう思ったとたん、きゅっきゅっという音が聞こえてきた。

いや、聞こえてきたんじゃなくて、聞こえていることに気がついたんだ。

それは僕にはとても馴染みのある音で、冬のさなか、雪の中を歩いていくと足元から聞こえて来る音だった。

雪?

次の瞬間、僕の視界が開けていく。

真っ白な雪景色の中、僕は一人で歩いていたんだ。

どうしてこんなところを歩いているのかと思ったけど、すぐにこれは夢なんだと思いついた。

だって、そうとしか思えないだろう?

でも不思議なことに、夢だと思っているのに頬に当たる風はぴりっと冷たくて痛いくらいで、手袋をしている手もこごえている。

雪を踏みしめながら歩いていくと、やがて見覚えのある場所にやってきた。

ああ、やはりこれは夢なんだと確信した。

目の前に現れたのは、『新発田文化センター』。

昔僕が東田先生にバイオリンの手ほどきをしていただいていた頃年一回発表会を開いていたところで、数駅隣にある、名だけは立派な建物だった。

どこも古びていて小さな建物だったけど、その頃の僕にとっては畏怖と試練の場所だった。

でも、今はもうない。

取り壊されて、新しいビルになっているはずだ。姉たちから郷里の話の一つとして聞いた。

もう見ることのないはずの建物が、今ここにある。記憶の中にだけあるこの建物を見ることは、とても切ないものがある。

小学校、中学校と、何回か発表会がある度に来ていたのだからよく覚えているけど、こんなに小さな建物だったのだろうか?

入ってみたい。・・・・・入れるだろうか?




どうやらこの夢でも、ホールの中では発表会をやっているらしい。

僕が通っていた頃の東田先生の音楽教室は小さくて、発表会を開くとき安く借りるために、他の教室と一緒だった。

先生は音大でバイオリンを専攻していたけど、この辺りでバイオリンを習いたいと申し出るのはせいぜい僕くらいのものだった。だから、近所の子たちにはもっぱらピアノを教えていた。

プログラムはほとんどがピアノだから、バイオリンは最初か最後の出番になっていた。

最初や最後では観客の注目も集まるというものだ。

そのせいで、発表会というと僕は緊張しまくっていて、練習中に弾いたときの半分の力も出せなかった。

それがくやしくてたまらなくて、なのに幾ら練習してもずっと年下なのに先生の娘である由布子ちゃんの方がとても上手だったから、いつも挫折感し か味わっていなかったと思う。

いつか思う通りの音楽を。そればかりを願っていたっけ。

僕はそんな記憶を思い出して感傷的な気分になるのを振り払って、センターの入り口からロビーへと歩く。

やはり、ここにも見おぼえがある。

そう言えば間もなく出番というときは、ホールの裏手にある小さな休憩所(喫煙場所というべきかな?)で、びくびくしながら自分の出番を待っていたものだ。

扉が開いて、中から人が出て来る度に小さくピアノの音が聞こえて来る。

既に弾き終わった何人かの子供たちはロビーに出てきて家族に囲まれて、今日の出来を話しているのにも行きあった。

にぎやかな彼女たちのそばをすり抜けて、客席へと入る前に記憶にある休憩所をのぞくことにした。

すると昔の僕と同じように、そこには小さなバイオリニスト君が緊張しきった様子でこれから演奏するらしい曲をさらっていた。

バイオリンのネックを握っている手や弓は震えているようだし、顔色も悪い。

今にも倒れそうに見える。

僕も昔はこんなふうだったなぁ。



「肩に余分な力が入っているよ。肘も上がりすぎだ」

僕が声をかけると、少年はぎょっとした様子で、大きく肩を揺らしてびっくりした顔で僕の方へと振り向いた。

「おどかしちゃったかな。ごめんね」

少年はあわてて首を横に振って、僕の謝罪を受け入れてれた。

「もうじき出番かな?」

「・・・・・はい」

小さな声で少年が答えた。この人は誰だろうと、首をかしげている様子は愛らしい。

なんだか、甥っ子の浩二に似ている気がする。

「ちょっと深呼吸してみようか」

僕は落ち着いた声でうながした。

「息を吸って、ゆっくりと吐いて、もう一度吸って、ゆっくり吐いて・・・・・。そう、上手だよ」

何回か繰り返しているうちに、いくらか落ち着いてきたらしい。少しだけ顔色がよくなった。

とは言っても、まだ瞳が揺れていたけれど。

「肩を水平にして、ネックは親指の付け根に自然に乗せて構えてごらん。そうすればいい音が出るんだ。そう、いい形だよ」

「・・・・・お兄さんもバイオリンを弾くんですか?」

越後なまりの標準語で尋ねてきた。ちらりと僕の指を見ていて、気がついたらしい。

「そう。一応プロのバイオリニストなんだ。まだ駆け出しだけどね」

「すごい!いいなぁ」

一気に少年の目が輝いて、ためらいがちに少年が尋ねてきた。

「あの・・・・・プロになるためには小さいうちから始めないとだめなんですよね」

「プロのバイオリニストになりたいの?」

「はい!僕の夢なんです。でも・・・・・無理ですよね。4年生から始めたせいか、ぜんぜん弾けなくてうまくならないんです」

しゅんとなった。

「僕も4年生から習い始めたよ」

「えっ!そうなんですか?」

びっくりした瞳が大きい。

「うん、そう。それでずうっとコンプレックスに悩まされていたし、何とか音大に入ることが出来たけど、自信が持てなくてずいぶん と遠回りをしていたよ。
それでもやりたいという気持ちを持ち続けて、協力してくれるたくさんの人に助けられて、自分の夢を叶えはじめているところなんだ」

そう。本当にたくさんの人に感謝をささげたい。そして特に圭に。彼の協力がなかったら今の僕はいないだろう。

「でも、プロのバイオリニストでしたら、緊張したりしないんでしょう?僕はいつも緊張しすぎて失敗しちゃうんです」

「僕も緊張するよ。舞台に上がる時はすごくどきどきする。でもそれは誰でもそうなんだと思う。僕の先生は巨匠と呼ばれている方だけど、やっぱり演奏シーズンが始まるときは、緊張して眠れなくなるというから。

でもね、緊張することで演奏が研ぎ澄まされていくし、舞台の袖で逃げたいと思うような時があっても、自分の中にある音楽を聞いてくれている人たちに届けられたときの喜びは格別なものがあるから、また続けていけるんだと思う」

そう思えるようになった。

少年はかみしめるようにうなずいていた。

「君はバイオリンが好き?」

「はい」

大きくうなずいて返事をしてくれた。

「だったら楽しい気分で弾かないと、聞いている人たちに君がバイオリンを好きなんだという気持ちが届かないよ」

緊張しきっている彼にはなかなか難しい課題かもしれないけど。

彼は何かまだ聞きたいことがあったようだけど、そこに舞台の方から声がかかった。きっと彼の出番が近いから呼ばれたんだろう。また少年の背中がこわばってきた。

「行っておいで。素敵な音楽を楽しんでくるといい。自分のコンサートのつもりになってね。僕も客席で楽しませてもらうから」

彼はちょっと笑って見せた。

僕はがんばれとは言わない。もう充分に言われているだろうし、彼が委縮するだけだ。

「はい!」

少年は急ぎ足で舞台の袖へと歩き出した。

それを見送って僕もホールへの入り口に手をかけた。














「それで、小さな彼の演奏はどうでしたか?」

圭が僕に尋ねた。

「聞いてないんだ」

僕は肩をすくめて答えた。

「本当に残念だったけど、そこで目が覚めてしまったんだよ。
たまたま電車の中にいる時に、信号トラブルのせいとかで電車が止まってしまってね。再開を待っている間は暇だったから、目をつぶっていたらそのまま眠っていたみたいなんだ。
電車が動き出したんで目も覚めたというわけさ」

ここは僕たちが住んでいる伊沢邸。

音楽室で、午後一休みの休憩時。いい匂いの紅茶と小さなチョコレートが疲れを休めてくれる。

もちろん、圭との対話も。

僕は今日の不思議な出来ごとを話して聞かせた。

「いい夢ですね。夢の中の彼にとってもいいアドバイスになったのでしょう。きっとよい演奏をしたでしょうね」

「本当の事を言えば、自分が言って欲しいことを言ったようなものさ。でも・・・・・」

ふっと思い出した。

「そう言えば、中学一年のときの発表会で、出番の前に知らない男の人に激励されて、初めて気持良く舞台に上がった事があるなぁ」

「おや」

「でも、ひどく緊張していたから何を言ってくれたかもどんな顔をしていた人だったかも覚えていないんだ。たぶんまだ若い人だったと思うけど・・・・・」

「もしかしたら、君は夢の中で過去の自分に応援のメッセージを届けたというところではありませんか?」

真剣な顔で不思議なことを言い出した。

「ああ、そうだったら面白いね!」

僕は思わず笑い出していた。

本当にそんな素敵なことがあったら、昔の自分にもっとたくさんのアドバイスをしたかったけどね。

「きっとこの雪が引き寄せてくれた夢なんだろうね」

窓の外に目を向けると、東京には珍しく、ふわふわと綿のような雪が降っていた。

眠っている間に降りだした雪を、僕は気配で気がついていたのかもしれない。

夢の中でがんばっていた小さな彼は、今の僕と同じように一生懸命音楽を追い求めている。

では彼に負けないように、精いっぱい音楽を楽しむ心を届けられるようがんばっていこうと思う。

「さて、夕食までもう少し練習するよ」

「ええ、美味しいシチューを用意しておきますよ」

「うん。楽しみにしているよ」

僕はチュッと彼のくちびるにキスをして、音楽室へと歩いて行った。











夢落ちの話です。(*´∀`*)
一応、お誕生日用として、こんなお話を。
書き終わったところでハタと気がついたのは、『ピアノの発表会って冬にやるか?』でした。
うーん、冬と言ってもいつもより早く降り始めた日と、珍しく東京で雪が降った日とがシンクロしてこんな話になったとか・・・・・?
いろいろ考えましたが、結局最後には開き直り




このお話はフィクションです!


ということで。(爆)








2010.2/10up