た め ら い

「桐ノ院、いるかい?」

僕は彼のマンションの部屋の扉を開けた。

「・・・・・っと、まだ帰ってなかったか」


ここはアマチュアオーケストラのフジミの指揮者を勤めている桐ノ院圭が住んでいるマンションの7階の部屋。

彼にここの鍵をもらってここでバイオリンの練習をすることになったんだけど・・・・・いまだにここへ入るときは強い抵抗感がある。


あれは六月の末の出来事だったけど・・・・・。

ああ、やはり今も思い出すと苦しい。


この部屋いっぱいに鳴り響いていたタンホイザー。

やめろという声も悲鳴も音楽にかき消されて、僕は生まれて初めての暴力に屈した。

そして・・・・・。

ようやく目が覚めたとき、後悔しきって憔悴しやつれた桐ノ院が目の前にいた。

僕のことを誤解していたのだと真摯に説明され、更に彼にフジミに残るよう説得された。

僕はその言葉を受け入れて、水に流したんだ。

それからは、無理やりのように桐ノ院からこの部屋の鍵を渡され、最初は渋々ここにバイオリンの練習にやってくるようになり、やがてこの部屋の環境がよくて時間があればやってくるようになったけれど。

でも、この部屋に入って彼と会うときと、バイオリンの練習に集中していてふと我に返ったとき、僕はこの部屋に来たことを、少しだけ後悔する。

それはほんのわずかな量で、すぐに打ち消されるようなものだけど、その重苦しさがいつも僕の足を鈍くさせる。






「ああ、来られていたんですね」

扉が開いて、この部屋の主が入ってきた。

「やあ、お帰り。留守中にお邪魔してるよ。悪いね」

「いえ、守村さんの都合のよい時間に使って下さって結構ですよ」

桐ノ院の穏やかな微笑と洗練されたさりげないしぐさは、大人なんだなといつも思わせる。

けれど、彼がキャビンへ着替えに行ってほっと肩の力が抜けた。

ラフな服に着替えて手洗いうがいをして間もなくこの部屋に戻ってくるだろう。

やがて楽譜とレコードを選んでオーディオセットに向かい、自分の勉強を始めるだろう。


  僕に背を向けて。


けれど僕には分かる。

ぴりぴりとした気配が僕に向いていることを。

彼は僕を恋人にしたいと願っている。

肉体関係を含めた、濃厚な関係を。


それは、今も ―――――。


でも、僕はゲイじゃない。男を恋人にする気はないんだ。

そう言った僕に、彼は友人でいいと言ってくれた。

二度と僕の意思に逆らって僕に手を出さないし、僕を困惑させるようなことは決してしないと誓ってくれた。

その誓いは確かに守られている。

なのに、彼の視線や気配は未だに僕を諦めていないことを教えてくれる。

僕はそんな彼の願いに目をつぶって何も知らないふりをするだけ。

ヘッドホンをつけて、向こうを向いて音楽を聴いているはずなのに、オーディオセットのアクリルの扉に映る彼のまなざしは、僕の姿を追っているんだ。







「守村さん、コーヒーを淹れましたよ。休憩にしませんか?」

「ああ、ありがとう」

僕たちはキッチンへと移動し、彼が淹れてくれたコーヒーを飲んだ。

「うん、うまいよ」

「それはよかった」

さりげない会話。

けれど、ふと話が途切れて、沈黙が降りる。

次第に重くなっていく気配。

何とかして話を続けようとして顔を上げると、彼の視線に絡め獲られそうになって、あわてて目を伏せた。







   僕を見つめないで。


   もう追わないで。


   僕を諦めて。


   僕は心の中で願っている。





   『何時まで?』



   何時までも。―――――このまま何事もなく過ごしていきたいんだ。


   『どうしても?』


   どうしても。―――――このままずっと仲の良い友達でいいじゃないか。





   僕は願い続ける。薄氷を踏むような思いで。



   『悠季』



   彼の声なき願いが聞こえるようだ。









   僕は心の中でぎゅっと目を塞ぎ、しっかりと耳を覆った。