蒼穹にひびく 番外編
「ここにいたのか。」
呼びかけたユートに向かって今日はひときわ強い風が吹き付ける。この時期ならではの、あちらとおもえばこちらから、方向の定まらない風が舞い、草たちがざわざわとなびいて不思議な音律を奏でていた。そういえばもうすぐ祀りが近い。この風には鳥たちも参っているようで、いつもこの時間には獲物をさがす鷹たちの姿をよくみかけるものだが鳴き声一つ聴こえてこなかった。
アルタンボラグの南側、見渡す限りどこまでもつづく草原の中、門から程よく離れたあたりにゆるやかな坂がある。その途中は一部微妙な窪みを作り、生えている草の加減もあってちょうどまわりからの死角になっているのだ。とくに門や「うち」のあたりからも見えにくい…たとえ高い窓から見下ろそうとも。ここは、三人にとっての秘密の隠れ場になっていた。
窪みの中で寝転んでいたユーキは、ユートの声を聴いてなにやら袖でこっそり…
どうやら、勘はあたったらしい。
「またサルナイ達かい?」
ユーキは無言で、向こうを向いてしまった。最近のユーキは自分を頼ってくれない。ユートはそれが不満だった。「ユーキを守る」それが自分の役目なのに。
小さいころから三人はよくいじめられた。子供というのは異端には敏感で、残酷である。地平線までみはるかせる目をもたず、日に焼けても赤くなるばかりで色も黒くならない。三人の中でもユーキは特に馬に乗れるようになったのが遅く、今でもあまりうまくはなかった。それが騎馬の民であることが誇りである子供たちの格好の標的になっていたのである。自分たちより大きな子供たちの前に立ちはだかってユーキをかばうのはいつもユートの役割になっていた。
ころりと、仰向けに戻ったユーキの目の周りはちょっぴり赤かったけれど、もうその顔は泣いてはいなかった。
「空を、みてたんだ。」
ユーキにつられて見上げた蒼天はあおく、あおく、どこまでも深い。この蒼さの下では、アルタンボラグの白い壁は一段と映えてまぶしいくらいに輝いて見えた。いつから建ってるともしらぬこの壁はこの位置からならば端と端とが見渡せる。壁で囲われているスペースは結構あるが、普段祭祀を司る族長一族しか住むことのないためか中の建物は少ない。祀りの時期にはこの壁の周りをシィル(移動式の住居)が取り囲み、賑わいを見せるがまだもうすこし先の話だ。
「かえろう。ユーリがまってる。」
前髪を風になびかせながらユーキは寝転んだまま、飽くことなく空を眺めていた。同じく上を見上げようとしたとき一陣の風が走りぬけ、まともにそれをうけたユートは思わず目をつむる。
「僕らの名前は、この空なんだって。」
ぽつりと、そういった。
「なんだか、覚えてる… ユーキのユーの字は、このお空なんだよって。」
かすかに眉根を寄せて、何かを思い出そうとするかのように。
「悠かとおくまですみきったこのお空を名前につけたんだよ、って。」
「なに、それ。」
ユートの記憶の限り、ユーという字には空という意味はなかったはずだ。
「僕はしらない。それ、誰に言われたの?」
「…きっと、お母さん。」
ユーキはぽつりとつぶやいた。しかしそれは、ユートが最も聞きたくない言葉であった。
「母さんなんて!母さんはサラントヤだけだ!」
顔色を変えてさけんだユートは身を翻すと門のほうへ向かってかけていった。
ごめんね、ユート。
ユーキだけは、おぼろげながら記憶があった。そういって柔らかい手で頭をなでてくれた人のことを。どうしてそのひとがここにいないのかは知らないけれど。どうして自分たちがここにいるのかは知らないけれど。
ピィーというツォーラの音が響き渡る。
立ち止まったユートの位置からはもうその姿は見えなかったけれども。ユーキが吹いている。ユートはいつでもユーキの笛の音を聞き分けることができた。ユーキの音は澄んで、高く空の上までのぼっていく。子供用であるツォーラは短く甲高い音を特徴とするがユーキの音はやさしく清らかに、空に馴染むように響きわたっていく。ユートもツォーラには自信があった。人一倍負けず嫌いだったユートは、同族ではないというだけで馬鹿にするまわりのものを見返すためにも必死で練習をした。今では大人でもユートのツォーラには舌をまく。しかしユートには分かっていた。二年後の冬、12になったとき父はセレーにはユーキを選ぶだろうと。
どんなに努力をしても手に入れられない音色を、ユーキは苦もなくひびかせてみせる。
そしてもう、ユーキには自分は必要ないのかもしれない。
心にぽつんと滲んだ暗いしみと、奇妙な喪失感とをユートは拭い去ることができなかった。