ドアが、激しく叩かれる。

 ベッドのうえで布団に包まっている僕にも、はっきりくっきり聞こえる、ドア越しの声。

「誤解です。話を聞いてください」

 バイオリニストの手は、ノックさえ許されなくっても、指揮者の手は、ドアをぶったたくことに使ってもいいのか?

「鍵はかかってないよっ」

 話があるなら、きみからはいってこい。

 しかし、だからといって、ドアノブが廻されることはない。
 それくらい、今、この状況の危うさを理解してるんだろけど。

「彼とは何でもありません。話を聞いてください」

 なんて、真面目に弁解してるきみが、信じられないんだよ。





 オクテとか色恋沙汰に無縁とか性欲がないとか、考えようによっては、かなり失礼な言われようをしていた守村悠季にだって、ときめいていた女の子はいたんだ。

 ただ、田舎育ちっていうより、あの頃から、僕の人生の第一はバイオリンだったもんで、ときめいている。って事実だけで満足していた。気付くと、彼女のことより、これから弾く新しい曲とか、昨日ラジオで聞いた曲とか、結局、バイオリンのことばかり考えていた。ような気がする。



 生まれ変わって、守村悠季を引き摺りながら、新しい多田野千希という人間になって。思うことは、いまここにいる僕は、守村悠季とは、全く同じではないってこと。

 守村悠季の人生を、他人としてみることができる僕が思うことは。


 ――――そうだね。彼は、バイオリンだけの世界で孤独だったんだ。


 バイオリンだけがあれば、それだけで幸福だったってことは、バイオリン以外を求めたことはなかった。

 でも、僕は違う。

 生まれた時から求めたものは、バイオリンと恋人。そのどちらが欠けても、僕は幸福になれないことを知って、生まれてきた。

 そういう違いがある以上、色恋に疎い守村悠季でもある、多田野千希ではあっても、だから、こうなったのも変じゃない。

 世間さまでは、高校生、体はオトナと変わらないのね。なんて言われてて。でも、僕に限って言えば、身長は低いし、ついでに今度も童顔なんで、中学生に間違えられる・・・・・・ついこの間まで、中学生だったんだ・・・別に、おかしいことじゃ、ない、と思いたい。

 まぁ、僕個人のことはいい。それで、その手の集計を信じていいのなら、中学生で経験していても、異常に早いってワケでもないのが、昨今らしい。。それを顧みると、恋人が可哀想になるくらいに、遅かったといってもいいだろう。

 ツケを払う覚悟さえできれば・・・・・・払う必要が、本当にあるかはさておいて――――相手が相手だから、きっとあるんだろう。それなら、できるだけ早く払った方がマシ。闇キンだってサラ金だって、一日たてば、利息が雪だるま式に増えていくんだ。一日でも早く完済するに限る。それに、いうだろ?今日できることは明日に延ばさないって。ちょっと、違うか?





 そんなわけで。つまり。

 いまだ、夏の盛りがくる前だって言うのに、僕ときたら、恋人と新婚生活を堪能中なのである。

 生まれ変わりの事実を隠しつづけている割に、隠し事の下手な僕が、母さんから恋人の存在を隠し切る方法とか、夏休みを東京で過ごす為の言い訳とか、それなりに悩みもあるけれど、まぁ、後悔することもなく、幸せに過ごしてる。

 あーいや、思ってみなかった弊害がひとつ、あったな。

 あれは、最初の朝のはなし。思わず、気が遠くなった。

 学生だよ?寮生活だよ?
 女の子なら、まだしも、体中にキスマークをつけた男子高校生って・・・・・ナニ?怪しすぎるだろ。

 すぐにその場で、一切のキスマークに代表されるマーキング行為の禁止を申し渡したのは、当然の要求だよ。

 さんざ、脅して。

 どうにか頷いた僕の情熱的恋人が、対抗策として選んだ手段っていうのが、『言葉による愛撫』。はっきりいって、言葉責め以外のなにもんだっていうんだ。おかげで、以来、体に残る跡はなくなったけど、記憶から今すぐ消したい、恥ずかしい時間っていうのは、それこそ山程・・・・・・全部が、それって言う状態。

 それだって、お互いの合意の上での行為に違いないんだから、恥ずかしいっていっても、所詮、予定調和的恥ずかしさってもん。でもしかし、これは、絶対に違う。





 話は飛ぶけれど。

 僕、多田野千希が、バイオリンを始めて、最初に心配したのは、叔父である守村悠季のコピーになる可能性。いや、この場合、危険性?同じ人間ではないけれど、限りなく同じ感性を持つ以上、そうなる危険性は、避けられない。

 他人なら物真似になるだろうけど、僕は彼の甥。血のなせる技ですね。で、肯定されて、僕に求められるのは、守村悠季にそっくりの音?なら、千希がバイオリンを弾く意味はないんじゃないか。

 僕に悩みを打ち明けられた、同じ道を歩んできた、守村悠季の実子で、かの桐ノ院圭の甥である恋人は、にこりと魅力的に微笑み。

「なら、守村悠季とは違う感性を持てばいいだけではないですか」

 と、あっさりと言い切った。―――いや、きみとは、違うから。


 申し訳ないけれど、また、話は横道にそれる。

 僕と恋人、桐院有は、従兄弟同士ということになっている。それでいて、年齢的には15歳はなれているんで、5歳児の僕を連れていても、高校生になった僕と歩いていても、誰がどこをどう見ても、保護者と被保護者なんで、男同士で並んで歩いていたって、何の疚しさがあるのかってもんである。

 有は、音楽家たるもの、綺麗なものを、だけじゃないけれど、見なくてはいけません。と、小さい頃から感性を磨く為と理由をつけては、美術館、博物館、果ては公園、その他エトセトラ、流石に目立つからクラシックはパスせざるを得ないけど、せっせとこまめにエスコートをしてくれる。微妙に分野は違っても、基本的に同じ世界の先達者が導いてくれるっていうのは、世間的に見て変じゃないし、くどいようだけど、僕たちは従兄弟なんだ。つまりその、結構、デートをしてる?

 それはともかく、主目的の成果は、最初の頃は半信半疑だったけれど、確かに、守村悠季とは違う、多田野千希オリジナルの感性ってものが芽生え始めてきている。

 今日も、寮まで送ってくれるついでに、現代作家の個展を見に行く予定だったんだ。

 それなのに、なにがどうして、朝の食卓で、その気になるんだか、あのケダモノはっ。





「だっ、だめだって」

 まだ食器が残っているテーブルに、いともあっさりと乗せられて、こっちが状況把握のできる前にのしかかってくる体。時間稼ぎに押し戻そうとしても、体格差から、それは無理ってもん。

 そのうえ、僕の制止に、「どうして、ですか」って、聞くかっ。

「見に行く、んだろ?時間がなくなるって」

 ああ、僕の馬鹿。

 両手を押し戻しに使うんじゃなかった。いたずらするに決まってる両手を、まず第一に拘束するべきだった。

 後悔しても、もう遅い。有の手は、着実にやばいトコロをなでさする。――――昨夜の名残がどうのって前に、若い体なんだ、その気にさせるのに時間が必要か?

 それを判ってての狼藉なんだし・・・・・・

「彼のでなくても、個展はやっています」

「彼のじゃなくっちゃ、意味がないんだって」

 今日を逃したら、個展は終わっちゃうんだから。

「それならば、アトリエへ訪ねていけばいいだけです」

 ・・・・・・・・・・・・・・・

「ちょっと、それ。どういう意味だよ」

 小さな引っ掛かりに、体はともかく、心は一気にさめた。

 その現代作家は珍しく僕が見つけてきた。ひとりで見に行くよりもふたりのほうが楽しいだろうって、僕から誘ったんだ。正直に言えば、ひとりで行くのは嫌いなんだ。綺麗だねって呟きに答えが返ってこない、その瞬間、目が覚めて、ひとり取り残されている自分に戻りそうで、怖いんだ。

 だから、個展にいくのもそうだけど、それ以上に、ふたりで見に行けるってことに浮かれてたんだ。
 その気持ちのまま、たのしみだねって。

 なのに、なんでだか、その直後に、どうしてああなっちゃったのか。

 問題にしなくちゃいけないのは、それじゃなくって。どうして、アトリエにって言葉が出てくるのかってところだろ?多田野千希っ。

 一言もなかったけど、知り合いだったのか?だったんだろ?そうじゃなかったら、そんな言葉がでてくるわけがないだろ?言えなかったのは、僕には言えない知り合い、だったから、なのか?

 睨みつける僕に、失言に気付いたのか。こともあろうに。

「・・・・・愛してますよ?」

 ごまかしにかかってきたんだ。

 昨夜の余韻が残ってるうえに、さんざ煽られた体は流されるなんて簡単で。いやだ、ひどい。口ではいってても、両手は背中に縋りつき、次の愛撫を待っている。





―――コトリ





 不思議な音がした。

 テーブルから落ちたにしては、遠い音。

 他の部屋からするには、小さな音。

 もちろん、僕より精度のいい耳を持つ、よほど冷静な狼藉者にも聞こえたはず、その音の出所を探してか、まさぐりにかかる手が止まる。

「なに・・・・?」

「すみません」

 はいっ?

 なんで謝る?

 乱されたシャツのボタンを留め、ズボンのファスナーを締め、僕の身なりを整えたあと、テーブルに座らせて。

「伊沢に叱られました」

 と。

 なぜ、ここに伊沢さんの名前が?

 いろんな意味で、僕を取り残したまま、有の懺悔は続く。

「やましくないのなら、誤魔化すような真似をするのは、いかがなものかと。
 誤解しないで、聞いてくださいますか?」

 伊沢さんというのは、桐院家の執事を務めていた人で、圭を子供頃から教育し、自分の為に不幸な、と思える、育ちしかできなかったのを気に病んでいて。有が圭の生まれ変わりだって知ってて、惜しみない愛情を注いでくれていた。その死後は、光一郎さんがいなくなったこの家に留まり、生前と同じ愛情をもって、有に・・・・・ゆ、・・・う・・・・にっ、てっ。


 声も出ないショックも瞬時に乗り越えられて。

 離れてたのを幸いに、有をド突き倒して、テーブルから飛び降り、後ろも振り向かずに、階段を駆け上り、部屋に閉じこもった。制止の声をかけられたけど、そんなもの、もちろん、無視。

 それだけでは足りず、意味がないと判っていて、布団に潜り込む。本当は、ベッドの下か、机の下にでも潜り込みたいところだけど、生憎とこの部屋にはそんな都合のいい空間はない。




 僕がこの世界に戻ってこれたのは、伊沢さんの尽力があったからこそ。それは、忘れていない。

 彼が亡くなったあとも、この家に留まっているのも、知っては、いた。

 生前は、非の打ち所のない執事さんだったんだ。そこに控えていても用事がない限り、空気と同じ。生きていた時でさえ、そんな人なのだから。当然というものなんだけど、気配は、限りなく薄く。

 薄情と言われれば、ごもっとも、としかいえないけど。そうなんだ――――今まで、存在自体を忘れたんだ。

 でも、でも、伊沢さんは、光一郎さんのように、ずっとこの家にいたわけで・・・・・




 ドアのノック。



「千希、開けてください」

 話し合いを申し込む声は、当然、無視。

「誤解です。彼とは、ただの友人です」

 ああ、そんなこと。

 判ってるよ。

 孤独と寄り添いながら生きていた圭は、常に孤高の存在だったけれど。

 有が、孤高の存在を気取るのは、指揮者としてだけ。愛情を知って育ったホントのきみは、社交的で魅力的で、当然友人も多い。圭もそうだったけど、交友関係は音楽界に留まらない。彼とは、いわくのないただの友人だって、信じてる。

 でも、そんなつまらないことで機嫌を損ねてると思ってるきみとは、話し合いなんかできるもんか。

「きみが、あまりに楽しそうにほかの男を語るので、妬いたんです」

 そんなこと、知らないよっ。

 ドア越しに、許しを求める声は、まだ続いている。でも、無視をするって決めたんだ。



 つまり、つまり。

 僕と有がしていた、あんなことやこんなことまで、見られていたわけ。

 なにを今更、光一郎さんで慣れているだろうといわれても、彼とは面識がなかったんだ。でも、伊沢さんとは――――






 一番、問題なのは、それを知ってて、ふつーに、生活できる有だっ。

 しんじらんないヤツっ。







2006.9/28 up
『そばにいて』