ぬくもりのある家










僕が音大に合格して東京に下宿することになったとき、故郷の新潟とはまったく違うのだとしみじみ実感したのは、冬の天気のことだった。

僕の生まれ育った新潟は、場所によるけれど豪雪地帯ってところが多い。だから冬になったら毎日鉛色の空が続き、周囲は雪に囲まれているっていうのが当然だった。
ところが東京ではほとんど雪が降らなくて、降ってもせいぜい一日二日で溶けて消えてしまう。そして毎日が乾燥した晴天続きで、雲の無い深い青の空が見えるのだ。最初の頃はすごく感動したものだ。

『空が晴れてて高い!冬に雪が無い!冬なのに芝生で日向ぼっこが出来る』

なんて。




生まれて初めて下宿して通うことになった音大というところは、我が校の国立音大に限らず女子大生がほとんどを占めていて男子はあまり多くない。もちろん、楽器にもよる。管楽器は男子が多いものもあるし、指揮科とかは比較的に男子の割合が多い。でもピアノとかバイオリンとかは女性の割合が格段に違う。

人見知りの僕にようやく出来た友人の住吉は、関西出身のせいかとても社交的で誰にでも気さくに声をかけていたから大勢の友人がいた。その恩恵に僕もちょっとだけ浴して、なんとなく同級生の輪に入れるようになった。
そんな彼と昼食を学食で一緒に定食を食べていると、ちょうどそこに同じバイオリン科の同級生たちが連れ立って入ってきた。

「おっ、ええとこにきた。なぁなぁ、彼女たち俺らのテーブルに来へんか?席空いてるで」

気軽に声をかけると彼女たちは喜んでテーブルにやってきた。

で、そんな同級生の女性たちの話題は『冬は肌が乾燥して荒れる』とか『指先が割れる』なんて嘆いている話だった。
管楽器は特にマウスピースをするなら唇のケアは重要だとか、バイオリンなどの弦楽器だって楽器だけじゃなくて自分の指も守らなくちゃならないから、とか。

「女性って大変なんだね」

なんて、僕がうっかり他人事のような台詞を言うや否や、

「あら、関東の乾燥を舐めてると泣くわよぉ」

なんて、一斉に脅かされてしまった。

「そ、そうなのかい?」

子供の頃からの高圧的な姉たちの言動のせいか、僕は女性たちのこんな発言にはつい腰が引けてしまう。

「守村くんは新潟の出身でしょう?向こうは雪が多いのよね。守村くんの実家もそんな感じ?」

「あー、うん。うちのあたりは豪雪地帯に入るから、毎日雪かきしてて5月くらいまで雪が残ってることもザラだね。だから湿度が多くて冬に除湿機を使う人もいるくらいだから」

僕の家のように昔風な建物は風通しがいいというか、気密性がそれほど無い寒い家ならさほど困るようなことはないけど、今どきの建物では気密性が高いせいで結露がひどくて冬に除湿機は必需品だって聞いたことがある。

「ええ〜?嘘ぉ〜!!除湿機?!」

と女性陣から驚きの声が上がった。

え?え?何か変なことを言ったかな。

「関東ではね、加湿器が必需品なのよ!」

雪が無いからといって、関東の寒さを馬鹿にしちゃいけない。空っ風と呼ばれる冷たい北風が吹き荒れるもので、乾燥の度合いがひどいのだと。

「女性だけじゃなくて、男性だってうっかりすると唇とか手先とかひどい目にあうわよ。もちろんバイオリンも湿気対策だけじゃなくて、乾燥しすぎないようにしないといけないし。
ねえ、守村くんは東京で暮らすのは初めてなんでしょ?リップクリームとかハンドクリームとか買っておいたほうがいいと思うわよ」

「そうなんだ」

そんなに注意しなくちゃいけないことなのかな。おおげさじゃないかと思うけど。

「守村。それ、ホンマの話。関西だって太平洋側は乾燥するから。今まで湿度の高いところにいたんやから、守村は特に気をつけたほうがええって」

住吉もまじめな顔で言った。

「なんなら、ピンクのリップクリーム差し入れするで?結構似合いそうやから」

「余計なお世話!」

僕の女顔を時々ネタにするんだから。おかげで周囲の女性たちに笑われてしまった。もちろん憧れの彼女にも。やれやれだ。

「あ、だったらこれあげようか?買ったばかりで使っていないハンドクリームなの。匂いもハーブの香りだから男性にも使えるしおすすめよ。よかったら使って?」

最初に乾燥のことを教えてくれた彼女が小さな白いチューブを手渡してくれた。

「えっ?悪いよ」

「気にしないで。遠くから来た同級生への応援のつもりだから!」

「そ、そう?ありがとう。喜んでいただくよ」

住吉がニヤニヤ笑って肘をつついてきたけど、いったいどういう意味なんだろう?もっとも聞いても教えてはくれなかったけど。



でもって、関東が乾燥するっていうのは本当だった。

最初の年にはうっかり金属に触れて静電気で何度も痛い目にあったし、無防備に風の強い日に出歩いていたら、のどをやられてしまってマスクやらのど飴のお世話になるはめになって、つくづく忠告は素直に聞くべきだって実感した。

もらったハンドクリームもありがたく使わせてもらうことになった。バイオリン弾きには必需品だとすごく実感したから。




そして、東京に何年も暮らしていくようになっていると、さすがに乾燥に用心するようになっていたけど、圭と僕と二人でお祖父さんの持ち物であるお屋敷に住むようになったとき、僕はまだ関東の寒さを舐めていたことを知った。

一軒家というのはとても冷える。石造りの昭和のはじめに立てられたというお屋敷では、更に底冷えのする寒さを味わうことになったんだ。

集合住宅っていうのは意外に暖かいものだったのだということにも気がついた。気密性があるのと周囲でも暖房するものだからそれほど暖房に気を使わなくても済んでいたんだ。
ボロアパートのときは隙間風なんかが入ってきたりして寒かったけど、圭と同じペンシルマンションに住んでいたときには、エアコンを少しつければそれだけで十分暖房が効いていたのだから。

住むことになった屋敷の音楽室に暖炉があるのは引越ししたときに気がついていたけど、どうやら煙突の部分に問題があるらしくて、そのまま使うことが出来なかった。
修理すれば使えるという話だったけど、薪や石炭を燃やして暖を取るというのは裸の火を使うということになるから火加減をみていなくちゃいけないし、慣れないと危ないし、灰の始末も面倒だからということで暖房として使うのはとりやめることになった。

使わないのだからと煙突をふさいで暖炉の機能はストップさせて、マントルピースだけ部屋の装飾として残すことになった。あとになってガスを使った暖炉という手もあったことのだと知ったけどね。

引っ越したのがまださほど寒くない頃だったし、圭が大出力のエアコンを入れてくれていたので二人ともそれ以上の暖房は必要ないと思っていたからなんだ。

でも寒さが厳しくなるに連れて、いくらエアコンが活躍してくれていても、なんだか足元からひんやりとした冷気が忍び寄ってくる感じがしてくるようになった。
それに、エアコンをつけると当然暖かい風が吹いてくるわけで、ただでさえ乾燥しているのに余計にぴりびりと乾燥していく気がするんだ。

夏にエアコンをつけるのは、暑さをしのぐだけではなくて湿気を取るという理由からつけているけど、冬の場合はひどく乾燥した風が気になってくる。
バイオリンに集中していればいいんだけど、ふとした瞬間に音がわずらわしくなって、エアコンを切ったりする。そのせいで部屋の中が冷えてしまって圭に心配されてしまう。

圭は僕のエアコンに対する感覚に気がついてくれていたみたいで、いつの間にか音楽室の壁際に外国製のオイルヒーターが据えられていた。
これがなんとも優れもので、音はほとんどしないくて静かだし、部屋の空気は汚さないし、湿度も下げないのに、部屋中満遍なく暖めてくれるというありがたい暖房機だった。

でも、この機械にも唯一つ問題があって、オイルヒーターで部屋を温めるときは速暖というわけには行かず、前もって予約しておいて長時間暖めるしかない。

外から帰って来た時、急いで冷え切った部屋の中を暖めようとすると、やはりエアコンの出番になってしまうんだった。







「ただいまぁ」

「お帰りなさい。おや、雨ですか?」

「うん、けっこう降ってきた」

「タクシーを使わなかったのですか?」

圭が眉をひそめながら聞いてきた。

以前、僕が雨の中を身なりに気を使わずに長靴に肩掛けかばんで出かけていたことをひどく嫌がっていたから、今度もそんなことをしていたと思ったらしい。

「それがさ、向こうを出るときには晴れていてね、雨の気配なんかぜんぜん無かったんだよ。でも富士見の駅に着くころになんだか雲行きが怪しくなってきちゃってね。バイオリンには用心のためにカバーを掛けてから歩き出したんだよ。
家に着くまでは降らないだろうと思ってたんだけど、途中でぽつぽつ来たなぁと思っていたらそのうちに降りが強くなってきてさ。バイオリンを持ったままでは走れないからなるべく急ぎ足で帰ってきたのさ。参っちゃったよ」

用心のためにかばんに入れていた折り畳み傘をさしていたからそれほど濡れているわけじゃないけど、風のせいで肩や腕の辺りにしずくがついている。圭が差し出してくれたタオルでまずバイオリンを拭いて、それから自分の肩やら頭やらを拭いた。

「風も強くなってきたようですね」

窓から見える景色はだんだん嵐の気配を見せていた。まだ日が沈む時間じゃないのに、薄暗いんだ。

「うん、もうすぐ桜が咲く季節だっていうのに、冷たい風だ。外はずいぶん冷えてきたよ」

「まずはシャワーを浴びてらっしゃい。コーヒーを淹れておきますから」

「うん。ありがとう」

僕はそのまま二階へと上がってシャワーを浴びてから音楽室へと降りていって、中に入ってびっくりした。

「ええっ!暖炉を使ってる」

音楽室のマントルピースの場所に見慣れぬものが据え置かれていた。黒い大きな箱の前側にはガラスの扉があり、中では火が赤々と燃えて踊っている。

「煙突も直したのかい?ぜんぜん気がつかなかったよ」

レンガ造りの煙突を修理するとなると、きっと何日もかかる大きな工事になるはずだよな?

でも、今日の朝には工事なんてどこにもしていなかったと思うけど・・・・・?

「いえ、煙突には手を入れていません。閉じたままですよ」

圭が得意そうに指し示しているのを覗き込むと確かに今までと同様に煙突の奥が閉じられていた。

「これはバイオエタノールで燃やす暖房機なのですよ」

圭は据えられた箱を指し示し、うれしそうに薀蓄を披露してくれた。

これなら早く暖まるしオイルヒーターのように部屋全体が暖まる。それに空気が汚れないので、煙突をつける必要がないし、手入れの手間もかからない。

エタノールの燃焼で出てくるのは、水だけなのだそうだ。そういえば高校の頃の化学の実験でそんなことをやった・・・・・かも?

「なにより、この部屋に合うでしょう?」

古い昭和初期の建物に暖炉があって使われているというのは確かに魅力的だ。

「うん、確かにね。それになんだか火を見ているのって気分が落ち着くなぁ」

「今まで使っていたオイルヒーターは寝室へ移動しました。きみはエアコンの風が苦手のようですから」

うん、確かにね。ありがとう圭。

「こちらへどうぞ」

「ああ、うん」

暖炉の前には、しゃれたトレーの上に乗せられたコーヒーカップが置かれていた。

圭と二人並んで暖炉の前の絨毯に座る。この部屋の絨毯は毛足が長くて直接座るのも気持ちいいんだ。

ちらちらと赤や金に光る炎を見ていると、なんとも言えない落ち着いた気持ちになってくる。それにちょっと人恋しいって感じもする。

「きっと昔の原始人たちもこんなふうに火を見つめて安らいでいたんだろうね」

「恋人たちも、でしょう。とくにこんな嵐の宵には。

圭の腕が肩に回されてきて、そっと顔が近づいてくる。くちびるがノックされて、圭の舌が僕の口腔をさぐりはじめる。気がつけば彼の手はセーターの裾から入り込んで僕の乳首をなで始めていた。

「・・・・・んん。カーテン」

気持ちはいいんだけど、気にしすぎ屋の僕はどうしても気になる。

「閉めてあります」

「・・・・・玄関」

「鍵を掛けました。ちなみに電話も留守電にしてありますから、問題はありませんよ」

そうして例のライティングデスクから持ち出したナニをちらりと見せた。

用意周到なやつ。

でも、そうやって安心して夢中になれるようにしてくれるなら僕もこのまま熱情の時間にダイブできる。

僕も圭の首に手を伸ばして熱いキスを堪能した。

「きみは魔王の城に閉じ込められていた美しい
バイオリニストナイチンゲールで、一目で彼に恋した男にさらわれてきて、嵐の間追っ手から逃れるために森の小屋に身を潜めているのですよ」

思わずくすりと笑ってしまった。

「僕としては難破して無人島に逃れることが出来た二人が、嵐を避けるために洞窟にいるって感じかな」

「おや、冒険家ですね」

「きみはロマンチストだよね」

くすくす笑いながらも次第に二人とも高ぶっていく。特に翻弄されっぱなしになっちゃう僕は、もうまともな会話なんて出てこなくなってしまう。

「さあ、こちらにいらっしゃい」

誘導されてあぐらをかいた圭の上に乗りかかって、熱いカレを呑み込んで行く。

「あ、・・・・・イイよ」

カーテンが引かれてちらちらと揺らめく暖炉の明かりだけが照らし出す薄暗い室内に、僕たちがいる。

密室のような空間。

これって、確かに密かに忍んで互いの恋情をほとばしらせているような気分かな。

すごく・・・・・いい。

「・・・・・あ、ああっ!け、けいっ・・・・・。も、もっと・・・・・!」

「ええ、悠季。愛しています!」

彼の太くて熱いモノが僕の中を串刺しにして蹂躙していく。

「ああっ!・・・・・イクっ」

「ええ!」

ぎゅっと圭がきつく抱きしめてきて、僕も思い切りほとばしらせる。

はあはあと息をついていると、圭が耳元にささやいてきた。

「こんなシチュエーションも素敵でしょう?」

「ま、まあね」

背後から暖められてくる熱気でとろけそうだ。





それから僕たちは絨毯の上で、上になったり下になったりして絡み合って愛し合っていたのだけれど。

「暖炉もいいのですが、やはり熱くなり過ぎるのは問題でしょうか」

圭としては、場所を変えてもっと愛し合いたいってことらしい。

「・・・・・二階にいこう」

「はい」

僕たちは手を取りあって階段を上って行った。

暖炉で暖められた熱を開放させるために。





2017.4/26 UP








もたもたしている間に世の中は暖かくなってしまいました。(苦笑)
いつの間にか桜は散ってしまうし・・・・・。_| ̄|○
それでもなんとか形にしてまずは掲載してみました。

実は伊沢邸には暖炉は無いと思い込んでいたのですが、原作を読み直してみたら、一行出てきたんです!
A様書いてありましたよ!びっくりです。

引越しポルカの中の圭と悠季の会話でした。

でもその後は暖炉のことには触れられていないし、もともと秋月先生は熊本なので、冷房のことにはうるさくても、暖房のことには頓着していないのかな?と思いました。石造りの建物(ドイツの)は寒いと以前書かれていましたけど、昭和初期の石造りの建物だって負けないくらいに寒いはず。集合住宅から一軒家に引っ越してすぐに痛切に実感した私が保証します(笑)

おしゃれな暖炉の話題をテレビで見たことから思いついた話でした。

ハンドクリームは以前、イベントのときにいらっしゃった方から頂いたもの。その節はありがとうございました!ありがたく使わせていただいて、その後も続いて購入して使っております。私事ですが遅ればせながらここでお礼を。