メッセージ

「ただいま帰りました」

僕は富士見町の我が家に帰りつき、光一郎さんの肖像画に向かって帰宅のあいさつを口にした。

その声が自分でも小さく元気のないものに聞こえたのはしかたないことだと思う。

悠季がいない家に戻る時の寂寥感は、毎回のこととは言えこたえるものがある。

まして今日は悠季に会ってからの帰り道なのだから。

あと二日、悠季に逢えない。

仕事などキャンセルして悠季のもとに駆けつけて激励したいと思っていたのだが、悠季自身がそれを望んでい ないのだから、内心では無念さをこらえながらしぶしぶM響の仕事に向かう事になってしまった。

あのサムソンの記事のせいで、うかつであったというだけの罪をとがめられて、M響での僕の立場は不安定なものにならざるを得なかった。

だからなおさらM響の仕事は大切にして欲しいというのだ。

モントリオールでの不本意なTV出演もそんな悪影響の一つだった。

もし安易に仕事を断れば心優しい悠季はどれほど心を痛めるか。まして今はぎりぎりの精神状態を保ってコン クールに挑んでいるさなかである。

彼の演奏の妨げになりそうなことは避けなければならないのだ。

一か月ぶりに再会した悠季は現在、将来の行方を決するような重要な局面であり、演奏者としての自分を極め るために、いかなる障害も排除している状態でいる。

相思相愛であるはずの僕の存在も、邪魔者にしかならないのはよく分かっている。

プロの演奏家としてどれほどの高みを目指せるか、その挑戦をぞくぞくするような興奮と共に期待して待って いた僕は誰よりも彼を応援しているのだから。

わかってはいるのだが・・・・・。

僕は赤子のぐずりのような内心の不平不満を押し殺す。

肚のなかに居座る『ベベ』は理性も理屈も関係なく、自分を一番かまって欲しくて駄々をこねてしまうのだ。





僕は一つため息をこぼしてからコートを脱いだ。

目をやって留守番電話の赤い着信ランプに目をとめた。

点滅しているのはメッセージが入っているということだ。

いつもの習慣で再生ボタンを押すと、無感情な女性の声がしゃべりだす。


《三通のメッセージをお預かりしています》


一通目

名前に聞き覚えのない出版社から、雑誌インタビューの申し込みだった。

僕のスケジュールについては全て宅島に任せている。

インタビューなどの管理もまた同様。

どこから僕の自宅電話を探り出したのかはわからないが、ルール無視の出版社などこちらからごめんこうむる というものだ。

僕は最後まで聞かずに次のメッセージへととばした。

二通目

MHKからの伝達事項だった。

内容は明日のスケジュールの確認で、重要な用件ではない。

僕はあれこれの雑用をしながら聞き流した。

三通目


「お帰り、圭、お疲れ様」


柔らかなテノール。



悠季の声だった。



僕は足を留めて、今朝別れて来たばかりの彼の声に聞き入った。

悠季は僕のさみしさを理解してくれていて、いたわりのメッセージをふきこんでいれていた。

彼もまた僕との別れを寂しがっていて、切なさを共有してくれたのだ。

短いメッセージが終わった時、じわりとまぶたが痛く熱くなって視界がぼやけた。

ぱたぱたと電話機に涙がこぼれた。

なんといとしい人なのだろうか!

僕の胸はきゅっと甘く痛み、そしてあたたかなもので満たされた。

こんなすばらしい恋人に、いま僕がしてあげられることは何かないだろうか?

そういえば悠季と吉柳氏は演奏のことだけで手いっぱいの様子で、食事面もかなりあやうくなっているようだ った。

これから本選に進めば更にストレスは増大し、特に胃に負担が来やすい悠季は食欲が落ちてしまうに違いない 。

僕はそちら方面のサポートに徹し、きめ細かく彼等を支えなければ。

そう。悠季に言ったように、無言を旨とする執事にならなければ!



考えてみれば、これは一石二鳥というものかもしれない。

悠季のからだのことも考えて、コンクール終了まで手出しすることは控えようと決意していたのに、1ヶ月ぶりの逢瀬に我慢で きずに抱いてしまい、自分の自制心の無さを悔やむ事になってしまった。

悠季はそんな僕を怒らず受け入れてくれたが、ミューズの腕の中から抜け出すことはできず、どこかいつもの彼と違っていて音楽のことで手いっぱいになっていた。

そんな状態になっていることは覚悟していたから、本選終了まで我慢するつもりだったのに出来なかったのだ。

だから自分を律するためにも悠季に忠実な執事になりきって動けば、冷静に悠季にかしずく事が出来るに違いない。

僕はパリへ行く時に持っていくものをあれこれと算段し始めた。

するとそれまでの会えない苦しみは一転して会う楽しみのための準備をする時間と変わっていた。

自分の気分の変わりやすさに苦笑しながら、次に悠季に逢えるまでの楽しみのために動き始めたのだった。





2011.4/11UP