桐ノ院圭の機嫌はすこぶる悪かった。
無理もない。今回の公演は何かにたたられているのかと思えるほど、様々なトラブルに見舞われた。
まず楽団組合の待遇改善を求めて、オーケストラがストライキを起こした。
最初はこのまま公演が中止になるかもしれないとまで思われたが、どうやら歩み寄りがあったようで、練習スケジュールは押してしまうことになるが、本番当日までには決着して無事公演
開始になりそうだった。
ストライキの間、ボスは今回のプログラムの一つ、ブラームスのバイオリンコンチェルトでソリストをつとめるナディア・ソネンバーグと音合わせをしていた。
ストが終わり次第オーケストラとの練習には入る予定だったのだが、どうにもソリストの出来 が悪かった。
どうやら体調が悪いらしく、音に生彩を欠いていたのがボスには気に食わないらしかった。
「スケジュールが決まっている以上、体調管理は当然の義務のはずです」
そう言って不機嫌になっていたが、俺もそれには同意見だった。
「いっそのこと公演が中止になってくれれば、悠季の元へ行けるのだが」
そんなぼやきまで言い出す始末。
まあ、言い出すのも無理はない。
二人がラブラブなのはよーく承知しているが、お互いのスケジュールが掛け違っていて、ここ半月の間顏を合わせていないのだから。
特に今は二月であって守村さんの誕生日なのだから、ぜひ会って祝いたいらしい。
昨日は守村さんが近くに居る事が分かっていたのだから、なおさらだった。
近くと言っても飛行機で行けば近くなのであって、距離的に近いわけではない。
ちょっと車で行って会ってくるというわけにはいかなかったのが、彼のご不満の種なのだ。
「でも守村さんも音楽祭に主賓として出演するんだから、向こうから会いに来るわけにもいかなかったんだよなぁ」
「仕事を選ぶべきだと言ったのですが」
小さな音楽祭だが権威があるらしく、その上ロスマッティ氏の依頼だから断わり切れなかったらしい。
「加えて日本に急遽帰国してテレビのインタビューを受けなければならないとは!そんな興味本位の依頼など断わればよかったのに、悠季も頑固です」
ボスはなげいてみせたが、あれはそんなに悪い話ではないと俺は思う。
インタビューだけではなく数曲の演奏がはいっているし、向こうのプロデューサーも好意的で、次のツアーのいい宣伝になるはずだ。
もっともボスが気にしているのは、守村さんの顔が全国的に有名になって、誰彼にちやほやとまとわりつかれそうなのを嫌がっていることの方が大きいのだろう。
この男は、守村さんの事になるとそうとう狭量になるのだから。
ボスの不平を聞いているのも飽きてきたし、そろそろニコチンも切れて来た。
「ちょっと席をはずすから」
俺はそう断わって控室を出ると、喫煙場所へと歩き出した。
昨今の禁煙運動のせいで、この劇場もご多分にもれず禁煙になっていて、タバコを吸うものに
とっては喫煙できる場所を確保するのは重要な問題となる。
劇場の裏口近くにちっぽけな灰皿が置いてあるのを見つけてあるので、そこでならタバコを出せる。
いそいそと歩いていくと、聞き覚えのある声がひそひそと密談をしているところに出くわしてしまった。
『インフルエンザの疑いだって!?』
そんな言葉に耳が向いた。
『そうらしい。病院に行って調べてみるそうだが、熱が高くなってきたから今回のソリストをつとめるのは無理かもしれない』
『彼女、ワクチンは打っていなかったのか?』
『こちらに来る前に急いで打ったそうだが、どうやらワクチンの効き目が出る前に罹っていたみたいだね』
『なんてことだ!急遽代役を探さなくてはならないじゃないか!こんなに急なことで、支配人の満足がいくバイオリニストを探し出せるのか?』
そのセリフを聞いて、あっと思った。
密談している中の一人は、このシャトレ座の支配人の秘書の声ではないか!
すると、インフルエンザに罹ったというのは、体調が悪いと言っていたソリストのナディアか!
二人はソリストの代役を探しに行くのだろう。俺とは違う通路から劇場の中へと入っていった。
俺の方も、急いでボスの元へと戻った。
「ボス、インフルエンザの予防接種は受けてましたよね」
「もちろんです。飛行機に長時間乗ることが分かっているのですから、当然の措置です」
「じゃあ、ひとまずこっちは安心か・・・・・」
ボスはひょいと眉をあげると、無言で先を言えとうながしてみせた。
「バイオリニストは交代の可能性がある。ナディアはインフルエンザでダウンだそうだ。今病院へ行って検査しているらしい」
俺の言葉に、ボスは珍しくポーカーフェイスを崩してしかめ面をしてみせた。
「・・・・・悠季がここに来ていれば間違いなく推薦できたのに!」
まあ確かになァ。守村さんなら俺だって太鼓判で推薦する事が出来る。
でも今頃彼は音楽祭が終わって、直行の最終便に乗って日本への帰国の途についているはずだった。
「一応念のために悠季がどこにいるのか確認してください」
「了解。井上に連絡をとる」
俺は急いで携帯を取り出しそうとしたとたんに鳴りだし、井上からのメールが届いた。
内容を読んで、思わず口笛を吹いてしまった。
「・・・・・こりゃまたすごい!ボス、守村さんたちは音楽祭が長引いたせいで、予定してた飛行機に乗れなかったそうだ。
ド・ゴール空港に来て、日本行きの最終便をつかまえるとあるぞ」
「宅島、急いで井上に連絡して、日本のインタビューをキャンセルするように言いたまえ!」
「あ、いや、そりゃあまずいっしょ。あの生真面目な守村さんが自分の都合で先に予定が入っていた用件をキャンセルするはずがない」
ボスがぐっと詰まって、ぎゅっと眉をしかめてみせた。守村悠季の律儀な性格を思い出したんだろう。
「では僕が直接会って説得します」
「おい!空港まで行くつもりか!?」
「急いで行けば捕まえられる。君は支配人に掛け合って、なんとか悠季を代役にしてもらえるよう説得してくれ」
「本気っすか?!」
俺の言葉は彼には聞こえなかっただろう。あっという間に部屋を飛び出していったのだから。
「いや、まあ。支配人にはちょっとした貸しがあるから頼む事も出来るかもしれないが、当の守村さんが引き受けてくれるものかねぇ?」
ソリストの代役を頼んでしまったという既成事実をつきつけて、守村さんを説得するという荒技を使うつもりなのかもしれないが。
まあとにかく。支配人に話してみるのが先決か。
俺は吸えなかったタバコのことをちらっと思い浮かべて一つため息をつき、大きな問題に取り掛かることにした。
支配人室に行くと、あわただしく人が出入りしていた。
どうやらナディアがソリストから降板するのは間違いないらしい。その代役はこんなに押し詰まってからでは選定も難しいに違いない。
『空港が閉鎖・・・・・?飛ばないのか!?』
そんな言葉が入ってきた。えっと思って窓の外を見てみると、確かにそこは一面の白銀の世界。
朝はちらちらと降る程度だったのだが、気がつかないうちに雪がひどくなっていた。
これでは空港の機能は混乱する事だろう。
誰かに代役を頼んだとしても、この天候では果たして呼び寄せる事が出来るのか。
守村さんが日本に行くために乗る予定の飛行機も、こうなると怪しい。
どうやら何かが彼にチャンスを与えようとして、この地に引きとめようとしているのかもしれなかった。
あとはこちらの出番。
俺はソリストの推薦を説明するべく、にこやかにシャボワ氏のそばへと歩み寄っていった。