さあ、ここからだわ。
わたしはシャワーを浴びたあとの鏡の中の自分に、気合を込めて、濡れた手でぱんと頬を叩いた。
ロン・ティボー国際バイオリンコンクールの予備選を通って、ついに本選が始まった。
今日はいよいよわたしの出番だ。軽く朝食を摂って、指ならしをして、それから落ち着いて午後の審査に臨まなくては。
第一次予選は3日間のスケジュールになっていて、番号のせいで他のコンテスタントたちの演奏を聞く事が出来なくなっている。
演奏審査は匿名によるからだ。2日間は自宅で練習しているしかなかったが、審査の様子が気にかかる。
ジリン!と電話が鳴った。
『アロー、ミュリエラ?』
予選を聞いてきた友人が、わたしは聞けない他のコンテスタントたちの演奏をいろいろと教えてくれることになっていたのだ。
「コンクールの様子はどうだった?」
『それほどあなたのライバルになりそうな相手はいないと思うわよ。初日なんて全滅だったもの。通ったとしても一次止まりってとこでしょう。2日目の今日はは2人ほどちょっとマシな人がいたけどね』
ピアノ科の彼女は的確で辛口の批評家だから、その意見は聞くべきものがある。
「誰なの?」
『まずはご存じの人物。ヒロミ・マルセル・シャントレーね。相変わらず、独創性と勝手気ままの中間の微妙なラインを演奏していたわ』
「ああ、あの自信家ね。優勝させない方が悪いと言いたそうだものね。以前と同じような、傲慢な音を出しているんでしょう?それで、もう一人は?」
『11番の東洋人でたぶん日本人よ。初めての出場者だわね。他のコンクールとか演奏会とかで見かけた事がないから。最初は期待薄だったんだけどね、これがシャントレーのすぐあとだからとても違いが目立ったんだけど、何というか・・・・・修道士と新妻が混じった演奏という感じかな?すごくよかったのよ!』
「何よ、それ?」
いつも感覚で意見を言うような彼女だったが、今回はさらに奇妙な感想に面食らった。
『だってね、生真面目な敬虔さと初々しい色っぽさが混じった演奏が聴けるってそうはないでしょう?』
「ずいぶんと熱の入った感想じゃない?」
『えへへ。実はね、練習室を譲ったお礼にとお花とチョコレートを貰っちゃったの』
「なんだ。買収されてたってわけね」
『あら、そうじゃないわよ。もちろん、貰った本人に好意は持ったけどね』
ハンサムだったし、とはしゃいだ声で彼女は続けた。
『でもね、また聞きたいと思わせる演奏だったのよ。だから二次予選も楽しみにしているの』
そこまで言われる演奏なら聞いてみたかったが、残念ながらミュリエラの番号は17番で、コンテスタントの中でも最後に近い。ほとんどのライバルの演奏は聞く事ができないのだ。
これまでは緊張しやすい性格なので、他のライバルたちの演奏を聞かずに済む事をラッキーだと考えていたが、逆に聞けない事がプレッシャーになりそうだった。
日本人だと言われて、思いだした人物がいる。
演奏順を決める抽選の時に、ちょっと気になった男性がいたのだ。
細身で眼鏡をかけた東洋人。
シャントレーと友人なのか一緒にホールへと入ってきた。
二人で話している時に見せた少年のようなはにかんだ笑みが印象的だった。
渡されていたパンフレットで誰なのか調べてみたら、ユウキ・・・・・モーリムラ?モリムラか。
・・・・・日本人の名前って覚えにくいわね。
彼が友人の言っていた素敵な演奏をするという人だといいなと思う。
とは言っても彼もライバルなのだから、あくまでもこれはわたしのミーハー気分な部分での思いでしかない。本当はわたしより上手では困る。なんとも悩ましい問題だった。
一次予選は思っていたとおり無事に通ることが出来た。二次も同じく。
そして最後の本選に残ったのは4人で、その中には友人が挙げていた、シャントレーとモリムラが入っていた。
モリムラの演奏を二次予選のリハーサルで聞けるかと思っていたのだが、残念なことに翌日の朝に持ち越しになってしまったために、聞けなくてがっかりした。
本番は自分の演奏で手いっぱいで、他の人たちの演奏を聞く余裕がないのだ。
けれど本選のリサイタル形式の演奏の時、たまたま聞く事が出来た。
自分のリハーサル終了後はそのまま帰ろうと思っていたのだが、第一部のコンテスタントの本番の演奏を聞いて行こうと思いついた。
最後まで誰の演奏も聞けないというのは気になって仕方なかったから。
最初の演奏は確かシャントレーのはずで、残念ながら気になっていたモリムラのものではないが、ライバルがどんな演奏をするのか聞いておいても構わないだろう。彼の演奏ならある程度察しがつくというものだけど。
ところがシャントレーの演奏とモリムラの演奏が事情で交代になったそうで、彼が最初に演奏することになったのを知ったのは、席についてからだった。
アナウンスを聞いて、思わずラッキーと喜んだ。
モリムラという日本人がどんな演奏をするのかを聞く事が出来る。
友人が褒めていた演奏とはいったいどんな音なのだろう?
始まったそれは、けっして華やかな演奏ではなかった。
楽曲に忠実で、透明で、繊細で緻密。でも人を拒絶しない音色は、時折現れる誘いかけるような色気や穏やかな余裕が鮮やかな色彩を帯びて、聞く者の耳をそばだたせるものだった。
ああ、何といい音なのだろうと思い、そして―――――次の瞬間、聞くんじゃなかったとひどく後悔した。
きりりと歯を食いしばって演奏を聞いていたが、最初の曲が終わるとすぐタイミングを見計らって席を立ち、練習を再開するためにこのコンクール用に借りているフラットへ走って帰った。
彼はきっと今頃、万雷の拍手とブラヴォーの嵐を受けて舞台を下がっていったことだろう。
フラットに戻るとすぐにバイオリンを手に取った。
懸命に練習を続け、彼の演奏の影響を耳から洗い消して、自分の出番までには気自分の演奏を立て直すことが出来て、本選ではなんとか自分らしい音を取り戻して演奏が出来たと思う。
ほっと胸をなでおろした。
そして、最後のコンチェルト審査。
これで最後だと思ってりきんだのが悪かったのか、今までのプレッシャーがとうとう胃を直撃してきてしまった。
女性用トイレに入るつもりがそこまでたどり着けなくて、よろよろと男性用トイレへ飛び込む事になってしまったのだ。
さいわい誰もいなかったから抗議も非難もされずにすんでよかったけれど、誰か入ってきたらどうしようと思いながらも、洗面台から離れる事が出来なくなっていた。
えずきが止まらなくて、でも胃の中には何もなくて、胃液を吐いていると背後のドアが開いて、誰かが入ってきた!
「大丈夫ですか?」
ちらっと見ると、そこにいたのは同じコンテスタントのユウキ・モリムラだった。
こんなひどいところをライバル
に見られるなんてとひどく恨めしく思いながらも、その場を繕う事もできそうにない。
「出て行って!」
わめき散らして追い出そうとしたが、彼は更に言葉を重ねて私を気づかってくれていた。
「ほっといてちょうだい!」
すると彼は私のヒステリックな言葉に引いてしまったのか、何も言わずにそのままトイレを出て行った。
けれどすぐに戻ってきて、私のいる洗面台のすぐそばに何か置いた。
「ガスなしのミネラル・ウォーターです。よかったら飲んで」
そう言うと、今度こそさっさと出て行ってしまった。
残されたのはよく冷えて汗をかいているボトル。
きっと言うと思っていた『頑張れ』も『しっかりね』も『演奏楽しみにしているよ』も、なし・・・・・。
その言葉たちが今のわたしにとって何よりも重荷になることが分かっているようだった。
きっとその時にわたしの中でユウキ・モリムラという男性が特別なものに変わっていたのかもしれなかった。
彼のバイオリンの音色が、どれほど嫉妬をかき立てるものだとしても。
自分の出番になった時、わたしは自分のちからを出し切った演奏が出来たと思う。
けれど、結果を待っている間に他のコンテスタントたちの演奏を録音したものを聞く事が出来て、どこかで分かっていたのかもしれない。
誰が優勝するのかを。
長い待ち時間の後、ようやく審査結果が出た。
結果はユウキ・モリムラの優勝だった。
ああ、やっぱりねと、頭の隅で納得していた。
それなのに肝心のユウキは、優勝を信じられなかったのか会場の人々が盛大な拍手を贈っているのに呆然とその場に立ち尽くしているだけだった。
圧倒的な説得力をもったコンチェルトを弾いた人間とは思えないような、頼りなさ。
そんなギャップのある姿を見て、胸がきゅんとした。
「やはり愛しているわ!」
と叫んで、抱きついてキスしてしまうほど。
彼はわたしがキスしたことに驚いていたけど、拒絶してこなかったから好意はもっていてくれるんじゃないかと思ったりした。
でも・・・・・。
わたしの恋心は、ガラ・コンサートの舞台袖であっけなく破れてしまった。
観客からのBisを受けて、2度目のシベリウスのコンチェルトを弾き終えてよろよろと舞台袖に戻ってきたユウキに、わたしはスタミナの補給のためにチョコレートを差し出したときのこと。
半分冗談、半分はからかいのつもりで『はい、あーん』と指で持って口に入れてあげようとしたのだけど、生真面目な顔で断わってきた。
「背の高い彼が妬く?」
カマをかけてみたら、あっさりとこたえてくれた。
それも
「僕らは結婚していてケイは独占欲が強い」
なんて、のろけ混じりの言葉を!
わたしの事を少しは好きになってくれているのかと思っていたのは、ただの勘違いだったよう。
あまり世慣れていなくてシャイな日本人の彼は、女性からのアプローチに疎くて、わたしの誘いに鈍い反応しかしないのかと思っていたのに。
思わずため息をついたけど、彼はその意味も分からなかったみたい。
鈍いのは本当にそうかも。
でも、パートナーの彼のことしか頭になくて、他の誰かに恋心を寄せられるってことさえ考えられないのかしらね。
そう考えるとちょっとしゃくだけど。
思い返してみると、わたしがユウキのそばに来た時、あの背の高いハンサムさんがずいぶんと険しい顔をしていたわね。
こんなに鈍い恋人を持っていたら、気が気じゃないでしょうね。彼にその気ではなくても、これからずいぶんと女性からも誘いがくるでしょうから。
あ、男性からも、かしら?
なんて心配をしていてもしょうがない。わたしがふられたのは間違いないのだから。
彼がぜんぜん気がつかなかったなんて、コミカルな終わり方で。
あ〜あ、本当に恋ってうまくいかないものなのね・・・・・。
コンクールで何やら悠季に恋心を抱いていた気配のあった、ミュリエラ嬢。
彼女の側から見たコンクール風景というお話でした。
BLというジャンルでは、女性のキャラクターは悪女か添え物というのが多いのですが、ミュリエラは珍しくいい感じの女性でしたので、気に入っています。(笑)
でも、もう出て来ないんでしょうね。・・・・・がっかり(爆)