ユウキとケイの二人はゲイカップルだ。
ということを、ユウキが留学していた時期に、ミスカははからずも巻き込まれた騒動の中で知った。
お互いに真剣であり、この関係をいつまでも大切にしたいと思っている。その愛情に深さは性別の違いを忘れさせるもので、普通の結婚とどう違うのか?と、ミスカのカソリックとしての立場を揺るがせるほどのものだった。
男性同士でもこれほど愛し合える。生涯、お互いをべストパートナーとして見つめ続けることが出来る。そんな相手を見つけることが出来た幸運。
だから、ミスカ自身もムティーからの求愛を受け入れて同性同士の恋人になろうと踏み切ることが出来た・・・・・のだが。
今回のブリリアント・オーケストラ第一回公演のために集まってきたとき、二人の関係がぎくしゃくとしていることに気がつくのは意外に早い時期だった。
表面上は何事もなかったように見える。しかし彼らのことをいささか知っている身としては、二人の間が緊張しているのを見て取ることが出来た。
「ねえユウキ。ケイと何かあった?」
「いや、別に。何もないよ」
と、口では言いながらも目が泳いでいる。隠し事の苦手な彼は心の中をすぐにあらわしてしまうので、何を考えているのかよく分かる。
ケイの方にもこっそりと聞いてみたのだが、答えは得られずさりげなく拒否された。ことは個人的なことであり、ミスカはそれ以上追及するのをやめるべきかと考えたのだが。
人の恋路を邪魔する者を、日本では【馬に蹴られて死ぬ】と表現するのだとユウキが教えてくれたが、だからと言って二人はブリリアント・オーケストラのかなめの二人であり、微妙にぎくしゃくしている関係を早急になんとか修復して欲しいと思う。
二人の関係を知っている者としては、実に落ち着きが悪い。
しかし、ミスカの心配は杞憂に終わったらしい。
流石に二人はプロの音楽家で、本番のブリリアント・オーケストラ第一回コンサートでは、コンダクターとオーケストラとがみごとにあうんの呼吸を合わせてソリストを迎え入れ、素晴らしい演奏を繰り広げる事となり、大成功を収めた。
続いてマチネーの演奏もよかったのだが、舞台裏では様々なハプニングが起こっていた。
夜の公演のあと、コンダクターとコンサート・マスターが、つまりケイとユウキが二人してレセプション会場からそのままどこかへ外泊してしまったこともその一つ。
朝になってからその事実を知ったディレクターのポールは、たいそう気をもんでいたようだが、当のユウキは動じていなかった。
その落ち着き払った態度は鮮やかなものだった。
その他にも、マチネー前のリハーサルでトラブルがあったりしたのだが、それはユウキたちのことは直接関係なかったので、脇に置いておくとして。
リハーサル中は、暖房が効きすぎて室内がかなり暑くなっていたせいか、途中の休憩でシャツの袖をまくろうとしているのを見て、ちょってと眉をひそめた。
ユウキは気がつかないようだったが、ひじの裏側の自分ではなかなか見られない場所にくっきりとキスマークがついていたのだ。
急いでユウキの首筋の外に出ている場所を見てみたが、そちらは大丈夫のようだった。
ケイを睨むと、彼も今気がついたのか、いささか困った顔をしてみせた。どうやら確信犯でつけたものではなく、今まで知らなかったものらしい。
「ユウキ。コンマスが袖まくりでいると余裕がないように見えるんじゃないのかい?」
僕が言うと、ユウキは急いで袖を下ろした。コンサートの主役である生島高嶺がまだ会場に現れていないことに団員達が動揺し始めていたから、ちょうどいい口実となった。
ケイが感謝を込めてうなずいてきたから、『これは貸しだよ』と声を出さずに言い渡した。
無事コンサートは全て終わり、それぞれが自分達の国へと帰っていく日の朝、ミスカはユウキの部屋を訪ねた。
ムティーが迎えに来るまでにはまだ充分に時間があるし、ユウキとケイが日本へと帰る便も時間の余裕があり、ホテルにいると聞いていた。
だから、声をかけても邪魔にはならないと思ったのだが。
「ユウキ、話があるんだけど・・・・・」
ノックをしても返事がなく、ノブを回してみると部屋の鍵は開いていた。
ドアを開けて中に入ると、部屋の奥からはバイオリンの音が聞こえてきた。
「グァルネリじゃないみたいだな」
聞こえてきたのは、ヴォーン・ウィリアムスの『揚げひばり』
甘い高音が続くテクニカルな曲だった。
「・・・・・でも、このバイオリンは今ひとつだな」
いつもユウキが使っている愛器とは違い、いささか生硬な音が耳につく。
鳥の鳴き声を模した曲想が続く小曲で、難しい高音が続くところが聞かせどころなのだが、このバイオリンはさほど響いてこない。
「あれ?ミスカ来てたの?」
曲が終わったところで、ユウキが気がついて声をかけてくれた。
「そのバイオリンっていつも使っているグァルネリじゃないよね。それほど音色が出てないみたいだし」
「そうだよねぇ」
ユウキは苦笑してみせた。
「実はこのバイオリンは半年ほど前に作っていただいたオーダーメイドでね。今せっせと音を入れている最中なんだ。離れがたかったもので、迷ったけどこの子もアメリカまで連れてきたんだ」
「オーダーメイド!へぇ」
「触ってみる?」
渡されたバイオリンはとろりとした飴色をたたえていて、素直にとても綺麗な楽器だと思った。
F字孔をのぞいて見ると、中に作者名らしいものが書いてあった。
「今使っているグァルネリのように素晴らしい音を持つバイオリンを弾くのはとても気持ちがいいけど、こうやって自分のために作られたバイオリンを少しずつ好みの音に仕上げていくのもとても楽しみなものだよ」
「そうなんだ」
「それに、このバイオリンを手にするまで3年かかったから、よけいに思い入れが出来ているのかもしれないね」
「3年!そりゃずいぶんと気長に待っていたんだね」
「うん。作者の西大路さんはとても素晴らしいバイオリン製作者で、注文がたくさんあるそうなんだ。僕も何年も掛かるのは覚悟してたからね。それでも早く手に取れた方らしいよ。今はもっと待たないといけないみたいだから。でも待ったかいがあったよ。僕の腕や指の長さに合わせて作ってあるからとても弾きやすいんだよ。まるで最初からぴったりと気持ちに添うんだ」
ユウキは笑った。
「でも音がこれじゃあコンサートに使えないだろう?」
「まあ今のところはね。でも、もう少しすれば音が落ち着いてくる。1年ほど熟成させれば、グァルネリには及ばなくてもそれなりにいい音になると思う。手に入れた時と今を比べても違いははっきりしてる。これのキャパシティがもっとあるということなんだ。年月を重ねてやれば大きなホールでも響く音を聞かせてくれるだろうと思うから楽しみなんだ。もっとも僕自身が何時コンサートを開けるか、あてなんかないんだけど」
「そりゃあずいぶんと気の長い話だね!」
ミスカは笑い出していた。すぐに弾けるバイオリンばかりを欲しがっている自分とずいぶん違うと思ったから。
しかし、そこでふと考えていた。
ムティーに名のあるバイオリンをねだろうと思っていたが、自分もユウキと同じバイオリンを欲しいと言ってみたらどうだろうかと。
少なくとも3年ほどの年月を待たなくてはならない。逆に言えば、3年ほどの間、ムティーとの縁は切れないという事になる。
――――― 3年くらいで消えるような軽い恋ではないと信じているが。
彼が自分との関係をどれほど真剣に思っているか、試すことが出来る。3年以上自分と一緒に過ごしてくれるという言葉をもらったようなものになるではないか?
「ねえ、ユウキ。そのバイオリンってどこにどうやって注文するものなのかな?」
「えっ。・・・・・えーと」
ユウキは困ったように頭をかいた。
「作者に直接注文するんだけど。・・・・・実は僕はこのバイオリンの代金を払っていないんだ」
と、驚くようなことを教えてくれた。
このバイオリン製作者は年間に10本程度のバイオリンを製作するが、その中で特に出来のよいものが出来上がったときには、これぞと気に入ったバイオリニストに無償貸与してバイオリンを育ててもらう。もし、バイオリニストが気に入らない育て方をするようなら引き上げることで、縁は消滅する。
バイオリンは作ってすぐにはよい音は出ない。良い弾き手がいい音を鳴らし続けてやって、ようやく響く音を奏でてくれるようになる。バイオリニストにとっても作者にとっても、そしてバイオリンにとってもよいシステムに思えた。
「おもしろいね」
「うーん。僕が西大路さんの眼鏡にかなうような音を作り上げられるかどうかが問題だけどね」
ユウキは笑いながらそう言った。
「ミスカもこのバイオリンが気に入った?」
「バイオリンを育てるっていうのが面白そうだからね」
「西大路さんに頼むつもりなら、僕から口ぞえしてもいいけどね。情熱の吟遊バイオリニスト、ミスカ・キラルシュが欲しいと言っていると伝えたら、きっと西大路さんも喜んでくれると思うから」
「ありがとう。でも僕はムティーに頼もうかなと思ってるんだ」
「そうか。そうだよね」
ユウキは納得したようにうなずいた。
アラブの王族であるムティーなら伝手を頼って頼むことも出来るだろう。
他にもっと良いバイオリンを作る工房があると言い出すかもしれないが、ユウキと同じバイオリンが欲しいと言えば通るだろう。
「西大路さんはクレモナで修行した方で、あちらでも評価が高いんだ。きっと気に入るバイオリンを作ってもらえると思うよ」
「うん。そうだね」
「ところでいったい何の用だったんだい?」
「あ、ああ。・・・・・ええと、実は僕が編曲した演奏を聞いて欲しくてきたんだ。昨日の打ち上げではユウキは寝てしまったから聞いてくれなかっただろう?」
「えっ!?そうだったの?ぜひ聞かせて欲しいよ!」
そのときドアがノックされて、さっと開いた。
「悠季?・・・・・おや、話中でしたか」
「ミスカが演奏を聞いて欲しいんだって。で、どこで聞かせてくれるの?」
「それなら昨日の打ち上げパーティーを開いたホールで」
「僕もご一緒してよろしいですか?」
聞いていた圭も声をかけてきた。
「どうぞ。きっと他にもあそこにメンバーが残っていると思うけど」
飛行機の時間は人それぞれだから、別れるまでの時間を音楽家同士の気楽なおしゃべりで過ごす者も多い。
「ユウキ、そのバイオリンを持って行ってみんなに聞かせてくれない?きっと僕以外にも興味を持つ者がいると思うよ」
「うーん、そうかなァ」
ユウキは笑いながらも、提案を承知してバイオリンを持参してホールへと移動した。
コンサートが終わったせいもあるのか、二人の間には昨日までのぴりぴりとした雰囲気は消えているようだった。
二人はきちんと仲直りしたのだろうか?
昨日打ち上げ会場だった場所は、すっかり片付けられていてドンちゃん騒ぎが行われた形跡もなくなっていたが、帰国までの時間を数人の楽員たちが集まって談笑していた。
ミスカは昨日沈没して聞けなかったユウキに、自分で編曲した《魔王》を聞かせ、ユウキは音を入れているというバイオリンをみなの前で披露した。
特にバイオリニストたちはその新作のバイオリンを育てているということに興味を示し、ユウキにどんな育て方をしているのか聞きたがった。
「一番いい音を鳴らせてやっているんだ。いつも練習している場所だけでなく、なるべく反響のいいホールに持って行ってやって、演奏するようにしているしね。今はまだこれくらいの音しか出ないけど」
そう言うと、ユウキはバイオリンを顎にあて、弓を構えた。
弾き出されたのは、バッハの無伴奏1番だった。
「・・・・・!!・・・・・」
ホールにいた者たちは会話を止め、いつの間にか静かに耳を澄ましていた。
清冽な音の重なりは、バイオリンの未熟さを補って余りある物だった。彼方まで引き込まれそうなバッハの世界。
クリスタルで構成された神殿が見えるようにさえ思えた。
「・・・・・と、今はこれくらいの音だけど、来年くらいにはもっとよくなっているはずなんだ」
ユウキは第一楽章でバイオリンを下ろしてはにかんだように笑って見せた。
「ああ、・・・・・うん」
呆然と聞き惚れていたミスカはその声に我に返った。盛大な拍手が響いて、はにかんだ笑顔でユウキが会釈していた。
バイオリンを手入れしてケースにしまっているユウキを見ながら、ミスカは密かにため息をついていた。ミスカだけではない。その場で演奏を聞いていた者たちも、また。
――― 僕はユウキの技量を見くびっていたらしい ―――
思えば、今まで本格的なユウキの演奏を聴いたことはなかった。だから、ユウキがどれほどのバイオリニストなのかを知らなかった。
去年のCM撮りの時のチャイコンは突発に近いものがあって、彼の技量を十分に発揮したものではなかったのだろう。今回のコンサートではコンマスになっていて、彼だけのソロを聴くことはなかった。
ユウキがソリストとしての活動をしていないことは知っていた。母校のバイオリン講師として働いているのだということも聞いていた。
だから、コンサート・マスターとしての力はあっても、ソリストとしては立つ事が出来ないのだろうと思っていたのだが・・・・・。
「ねえ、ケイ。聞きたいんだけど」
ミスカはユウキが帰国の挨拶にやってきたメンバーと話している隙にケイにこのことをぶつけてみた。
「なんでしょうか?」
「どうして悠季はソリストとして活躍しようとしていないんだ?あれほど素晴らしいバッハを聞かせるのに!」
なぜユウキはソリストとして立っていないのか。あれほどの技量なら各地でコンサートを開いて好評を得ることが出来るだろうに。
「ええ。それは僕が一番不思議に思っていることですよ」
圭は少しおかしそうに、そして愛しそうにユウキのことを話した。
「彼は頑固な完璧主義者ですから、自分の演奏に対していつも評価が低いのですよ。彼がプロのバイオリニストとして立つ事になったこと自体、とても大変でした。しかしプロになることは既に決められていたのかもしれないと思っています。ミューズがあれほどの才能を放っておくはずがありませんから」
だとしたら、なんとも傲慢なことではないか?
あれほどの才能に対して、なぜ見合った報酬(=演奏)を支払おうとしないのか。
「神が彼にバイオリンの才能を与えてくれたからには、それを才能伸ばし多くの人たちに音楽を与え聞かせることが神への義務じゃないのかい?」
「ああ、君はクリスチャンですからそう考えるでしょうね」
圭は苦笑しながら言った。
「彼は日本人ですから、そうは考えませんがね。他人へ聞かせる音楽は恥ずかしくないものにしたいと努力しているのですよ。大丈夫。彼にも分かっています。時間はかかっていますが、ちゃんと自分の果たすべきことは分かっていますよ。そろそろコンサート活動を開始することになるでしょう」
「へぇ。何か企んでいる?」
「企んでいるなど、人聞きの悪い。彼がこころよくバイオリンコンサートを開けるように手助けをしようとしているというだけです」
「そうだといいけどね」
このブリリアント・オーケストラを立ち上げるきっかけを作ったケイは、策士の顔で笑って見せた。
「お待たせ。僕たちも帰ろうか」
ユウキが戻ってきたので話はそこまでになった。そろそろ出発の時間。ユウキとケイは帰国する時間が迫ってきたのでホテルを出る事になる。別れのときがやってきたのだ。
「また来年!」
「また来年会おう!」
互いに握手を交わして別れ、帰国の途についた。
西小路氏のもとに何人ものブリリアント・オーケストラの楽員からの注文が依頼されてきたのは、それから後の話となる。
一番最初に申し込んだのは、ミスカだった。
拍手に書いていた掌編を少しいじったものです。
うーん、あまり変わらない?(;^_^A