【序】





 風も穏やかな小春日和の午後、静かなその地にゆっくりとした足取りで近づく足音があった。

その男は、目的の場所に到着すると手に持っていた桶を置き、かさかさとビニールの音をさせながら墓標のそばへと花束が置いた。

 彼の手は優しく墓標を清め、持ってきた花を生けると線香を供えて手を合わせた。

「やあ、久しぶりだね圭。やっとここに来ることが出来たよ」

 悠季、だった。

彼の目の前には、『桐ノ院圭』と書かれた花崗岩で出来たシンプルな墓標があった。

 悠季はその場にしゃがむと愛しげな手でその墓標を撫でた。ここに来るのにどれほどの葛藤と悔恨と痛みを抱えてきたのかは、眠っている圭には分からないだろう。
 悠季はそんな重い全てとなんとか折り合いをつけることが出来て、ようやく死ぬ時も一緒だと誓った伴侶の墓を訪れることが出来たのだった。

 




 あの事故の日、圭と悠季とは別々の仕事に行っていた。朝、お互いのスケジュールを確認して明日からはしばらく一緒にゆっくり出来るねと楽しくしゃべり合っていたというのに・・・・・。

 圭は自分の車で出かけ、悠季は電車で大学へ。

 そして・・・・・、圭の車にスピード違反の車がぶつかった。 即死、だったという。

 知らせを聞いた悠季が病院に駆けつけると、すでに圭のからだは清められて霊安室で彼を待っていた。死んだというにはあまりにも穏やかな顔で。

 悠季には圭の死に顔を見てからの数日の記憶があいまいになっている。

『嘘だ、これは嘘だ。絶対に何かの間違いなんだ・・・・・』

 悠季の頭の中に浮かんでくるのは、そんな想いばかり。悠季にとってはこの世に残っている肉体はもう既に滅んだも同然のもので、しゃべることはもちろん、食事も水も一切口にしようとはしなかった。

 悠季の感情は凍りついてしまい、葬式の前後数日間はただ周囲の人間たちが泣いているのを慰めていたような気がする。フジミの石田さんや市山さんたちが、若くして亡くなったことを悼んで『これからだ、これからだというのに・・・・・!』と泣きながら何度も言っているのを何の感情も感じられないままに聞き流しながら。

そんな悠季の身を心配したフジミの人たちや桐院家の人たちは悠季を監視し、世話を焼いてくれた。伊沢邸に一人で置いて圭の後を追ったりすることのないようにと桐院家に引き取り、注意深く見守ってくれた。名古屋や新潟から駆けつけてくれた姉たちも肉親として優しい慰めを与えてくれたが、それに答える余裕は悠季にはなかった。

 悠季が呆然としている間に桐院家の手で圭の葬式が仕切られ、さらさらと砂時計が流れるように儀式が続いた。大勢のファンや友人知人が弔問し、盛大な葬式となったし、悠季に対して心のこもった慰めを言ってくれたが、彼にとっては何の関係もないこと、耳を吹きすぎる風のようなものだった。

 圭の肉体は無くなり、わずかに骨壷の中に収められてしまったのだから。

 やっと悠季が茫然自失の状態から抜け出して、感情を爆発させたのはさらにその後。MHK交響楽団が常任指揮者だった桐ノ院圭をしのんで、音楽葬を行ったその晩のことだった。

 既にあの事故から一ヶ月。悠季はやっと落ち着きを取り戻したかのように見えた。フジミの人たちや桐院家の人たちもそんな悠季の態度にようやく愁眉を開いて、伊沢邸に戻ることを許可してくれた。全ての用事を済ませて久しぶりに伊沢邸に戻った悠季は、あまりにも静かな家の中の、しかし、そこここに濃密に残っている圭の気配に、死んだように静まっていた感情を揺さぶられたのだった。

「・・・・・嘘だよな。圭が死んだなんて・・・・・。きっと君のことだからどこかに隠れてて、『やあ、悠季びっくりしましたか?』なんて言ってくれるんだ。そうだろう?」

 がさがさとかすれた声は自分の耳にも不愉快に聞こえた。

「ねえ、早く出て来て僕の前に姿を現してくれよ!!」

 怒鳴りつけた声は静まり返った音楽室の中に消えた。悠季の慟哭と嗚咽だけが部屋の中に満ちた。しかし、その声答えるものは誰もいない。次第に自分の中にきしんでいくモノがあるのに気がついた。きっとこれに身をゆだねてしまえば、自分は闇に落ちてしまうだろう。だが、それを止める者はもうこの世にはいないのだ。

「光一郎さん、ねえ、どうして?圭はどこへ行ったんですか?知っているなら教えて下さい!」

 だがこの屋敷の守護霊であるはずの光一郎さえ、何も答えようとはしなかった。じわじわと闇が悠季を食い破っていくのが手に取るように感じられる・・・・・。

 ことり、と悠季の背後に人の気配がたった。

「・・・・・守村さん?」

「圭っ!?」

 ぱっと振り返った。悠季の背後から聞こえてきた声はあまりにも圭の声に似ていたので。

 だが、夕闇の中に浮かんでいたシルエットは見慣れた長身の男性のものではなく、背は高くてもほっそりとした女性のものだった。

「・・・・・ああ、小夜子さんですか・・・・・」

 小夜子は悠季の側へとやってきて、なだめるように彼の腕に触れた。

「お兄様が亡くなられて一ヶ月も経つというのに、お兄様がすぐそこから現れそうな気がしますわね」

「・・・・・一ヶ月もではなくて、一ヶ月しか、ですよ」

 悠季は寂しく答えた。

「ええ、ごめんなさい。でも守村さんをここにお一人にしておくと心配でならないんですの。どうか今夜はわたくしと一緒に桐院の屋敷にお戻りになりませんか?」

「戻るなんて・・・・・僕のうちはここですよ。どうか小夜子さんはこのままお一人でお屋敷にお戻りになってなってください。今夜は、僕はここに帰ります」

「・・・・・でも・・・・・」

 小夜子はためらっていたが、ふいに手を伸ばして悠季の顔に触れた。

「こんな風に切ない泣き方をされる方を放って置いて帰ることなどできませんわ」

「・・・・・え?」

 小夜子はバッグからハンカチを取り出すと、悠季の頬に流れている涙を拭ってくれた。

「・・・・・気がつきませんでしたよ。男としてみっともないところをお見せしちゃったな」

 悠季が自嘲した。

「いいえ、貴方はとても辛抱強い方ですわ」

 小夜子はふいに悠季のからだに抱きつき、ぎゅっと抱きしめた。

「お泣きになればよろしいのよ。貴方にはその権利がありますもの。ここでは不実なあの兄をなじって気の済むまでお泣きになればよろしいわ。あれからずっと我慢されていたのですものね」

「・・・・・小夜子さん・・・・・!」

 悠季は震える腕で小夜子を抱きしめた。ぼろぼろと涙が溢れてくるのを感じながら。暖かな人肌のぬくもり。それは身に馴染んだ圭のものではなかったが、とても快く慰められるものだった。
 悠季はほとんど声を立てることもなく、そのまま泣き続けて、その彼を小夜子は黙ったまま抱きしめてくれていた。
 ふと、悠季は自分が抱いている人が心地よいぬくもりと香りを持つ『女性』であることを意識した。それは悠季にある変化をもたらして・・・・・。

「い、いけません!」

 不意に悠季は顔をそむけて小夜子のからだをもぎはなした。

「・・・・・い、今の僕はどうかしてるんです。このままではあなたのことを圭と勘違いしそうな気がする。どうか僕を放っておいて帰っていただけませんか?」

「守村さん、・・・・・あの、わたくしでよければあなたの救いになりたいんですの。どうか、そうさせてくださいな!」

「さ、小夜子さん!?」

 小夜子は両手で悠季の顔を挟むと、優しく口付けた。彼女は今夜、悠季にとっての『溺れかけた者を救う一本の葦』になりたいと思ったのだった。

 





「君がここに葬られてから一ヶ月が経つんだね。でも、僕はここに来られなかった。君を裏切ったって思いが、僕が墓参りに来ることを妨げてしまっていた。そうだよね。ひどい裏切りだ。

でも・・・・・悪かった、許してくれなどとは言わないよ。君が僕を置いて消えてしまったのが悪いんだから。それに、今の僕には君の後を追うことも出来なくなってしまったから、なおさら許しを請うことも出来ないね」

 悠季は右の薬指から圭にもらった銀色の指輪をはずした。

「これはもうこの指に嵌めていることは出来ない。小夜子さんに赤ちゃんが出来たんだ。僕の子供だよ。だから・・・・・、責任を取って結婚しようと思う」

 悠季は墓標の上に指輪を置いた。

「今日からは僕は君の悠季ではなくなる。僕の心は君が墓の中に一緒にもって行ってしまったし、ここに残っているのはバイオリン弾きの守村悠季というわずかな残骸でしかない。でも、それでも、僕は生きていかなくちゃならないんだ。いつの日か、君の隣に眠ることになるまでね。・・・・・もっとも君はそんな僕を許してくれるかどうか分からないけど」

花崗岩の墓標には桐ノ院圭と刻んであったが、その隣には朱で守村悠季と書かれていて、隣りに入れる余地を残してあった。

「じゃあね。また、いつか来るよ。お休み、圭」

 悠季は空になった桶を持って圭の墓を後にし、二度と振り返ることはなかった。

  








 そうして・・・・・この物語は始まる。