惑い

まどい

守村さんが、いや、悠季が来ない。

ああ、これでは正確ではない。

僕が部屋にいるときには、来ないようにしているではないかと思う。

先週の火曜日、フジミの練習が終わったあと僕の部屋へバイオリンの練習に来ないかと誘ったのだが、用事があると断られた。

もちろん、学校の用事が忙しいこともあるのは僕も心得ている。

しかし、水曜日にも逢えなかった。僕がM響の仕事で遅くなって帰宅してみると、彼は既に帰ってしまっていた。


いつもならまだいる時間なのにもかからわず。




そして、木曜日。

夜にはいつもと変わらずフジミの練習に顔を出していたし、僕への態度も変わりないように思えたのだが。

「守村さん、このあとはどうされますか?この後僕の部屋で練習されるのでしたら、一緒に帰りませんか?」

いつもならこんなふうに誘うことはない。

フジミの諸君の耳を気にしてしまう悠季を気遣ってのこと。

それに誘わなくてもバイオリンの練習のためについてきてくれたからだが、ここ数日ゆっくりと悠季の顔を見られなかった飢えが、僕にこんな言葉を口にしてしまったのだ。

悠季は周囲をちらりと見回してから申し訳なさそうな顔をした。

「ああ、悪い。残念だけど今日はこのまま帰るよ」

「まだ学校の用事が残っておられるのですか?」

「うん、まあね」

悠季はほんのりと魅力的な笑みを浮かべると、

僕の

『帰らないで下さい』

という無言の願いに気がつくこともなく、さっさと住んでいる宮島アパートへと帰ってしまった。


いったい何があったのだろうか?


どんなことがあってもバイオリンの練習を欠かさず、時間さえあればバイオリンを手に嬉しそうに練習をしていた悠季が、練習に来ない。
 
それともどこか別の場所で練習をしているのだろうか?

以前出かけていた川原や野球場。僕の部屋に来たくない理由でもあるのだろうか?

僕が何か彼を怒らせるようなことをしたために、来なくなったのではないだろうか。

カレンダーを見ていてあることに気がついて、更に不安はつのった。

日にちを確認すると、もう既に悠季の勤めている学校は夏休みに入っている時期ではないだろうか?

それなのに、いったい何が忙しいというのか。

確かに吹奏楽部の顧問をしているとは聞いている。しかし、夏休みに入っている現在、部活がそれほど忙しいとは・・・・・?



翌日の金曜日。



やはり悠季は来なかった。

いつもなら来るはずなのに来ない彼を待ちくたびれてしまい、僕は部屋を出て宮島アパートへの道を歩き出した。

自宅に悠季がいるかどうかは分からない。突然彼の部屋を訪ねることは出来ない。

なぜ訪ねたのかを聞かれても、『君に会いたかったから』などと答える事は出来ないのだから。

しかし、少しだけアパートの周囲を歩いてみるのであればかまわないだろう。

散歩の途中だと言い訳できる程度で。

すると幸運な事に、駅前を悠季が歩いていく姿に行き会った。


「もりむ・・・・・」


声をかける前に彼はモーツァルトのドアを開けて中へと入っていってしまった。

どうやら僕がそばにいたことには気がつかなかったらしい。

モーツァルトに行く暇はあるのに、悠季はなぜ僕の部屋へと来てくれないのだろう。

僕の心の中にはなんとも言えない苦味が広がった。なんとも言いようのない不安と苦痛。
  
この感情に名をつければ、おそらく嫉妬かそれともひがみか。
  
悠季を愛しているのに、振り向いてくれない彼を何とか欲しい。

この抑えようがない執着。



思えば・・・・・



以前、僕はこの感情を抑えきれずに、悠季を強姦してしまった。

それは自分でも吐き気がするようなひどいしわざ。

今から思い返せばあれは僕の我儘以外の何者でもなかったと分かっている。半ばやけになった末の言い訳だらけのシロモノだったのだ。

身も削るような後悔の末、ようやく取り返した悠季との会話。

二度とこんなことはしないと誓約し、改めて最初から彼との仲のやり直しを始めていた。

いや、彼の寛容さに甘えて、居心地のよい位置を確保し何とかして彼と親しくなれないかとあれこれと思い悩みながらも、悠季の姿を見ることが出来てその演奏を聞くことが出来る幸福をかみ締めていたのだ。

たとえヘッドホンをかけてフルボリュームで聞いているから、彼が演奏していることなど気にしていないというポーズをとってこっそりと、ひそかに、ではあっても。

自分がどうやってモーツァルトの前からマンションの自室に戻ってきたのかさえ覚えていなかった。

このままではまたとんでもない間違いを起こしそうで怖かった。

彼のところへと押しかけて、とんでもない事を口走りそうだった。

なぜ僕は、彼のこととなるとこれほど非常識で凶暴になるのだろうか?

呆然として、アトリエのいつもの位置に座り込んだまま動けなくなってしまった。



「・・・・・あれ?どうかしたのかい?」

びくりと肩を揺らして振り向くと、そこには悠季が何事もなかったかのように靴を脱ぎ部屋へと入ってくる姿があった。

「・・・・・守村さん?」

「お邪魔するよ。あれ、・・・・何かあったのかい?」

「・・・・・いえ、それより忙しかったという用事は済んだのですか?」

「ああうん、ようやくね。吹奏楽部が文化祭でやる曲はパート譜がなくてね。部活がある間に渡しておかないと夏休みが終わってからスタートするんじゃ遅すぎるから、大急ぎで写譜をして渡したんだ。

それから君から渡された編曲の方もやらなきゃならなかったからねぇ。ここ数日はずーっと机にへばりついていたよ。

でもようやく全部終わったから、これで心おきなくバイオリンの練習にかかれるから嬉しいよ」

「僕が渡した編曲ですか?」

「うん、そう」

確かにフジミで今度から始める曲について、あちこち編曲をして渡した記憶はある。
         
「あの曲は写譜屋に渡しておいて欲しいと言ったはずですが」

「まあね。確かに君にそう言われたよ。でも、フジミの会費では写譜屋に頼むほどの余裕はないからね。いつも僕が写譜をしていたんだよ。

だから今回も僕がやることにしたんだ。誰より早く君の曲を眼にしたいと思っていたしね」

楽しかったよ。と、笑いながら言った。

「写譜は済んだからコピーしてみんなに配ってもらえるように先ほどニコちゃんに渡してきたから、今度の練習の時に始めることが出来るよ」

「・・・・・申し訳ありませんでした」

「いやいや、たいしたことないって」

手を振ってみせて屈託なく笑う彼。

僕はほっと肩から力が抜けた。

彼は僕が謝罪した訳を誤解していたが、僕は訂正しなかった。いや、出来なかった。

僕の誤解に過ぎなかった。彼は僕を避けようとしていたわけではなく、嫌いになったわけでもなかったのだ。

それなのに、僕の心はかすかにうずく。         





   ふと自分の手を見た。







         決して白くはない手を。