後悔しない
部屋を満たしていたバイオリンの音がやんだ。
圭は(悠季に怪しまれないようにと、自分の勉強をしているふりで本当は音量を落としたままの)ヘッドホンを、彼が怪しまない程度だけ時間をずらしてゆっくりと外すと、背後で練習していた悠季の方へとさりげなく向き直った。
悠季はまだ完全にこちらへと戻っていない様子で、のろのろとバイオリンをケースへとしまいこんでいた。
ケースをいつもの場所へと戻すと、そのまま歩き出した。
「悠季?」
「自分の部屋へ帰るよ。お休み」
「コーヒーを淹れます。飲んでいかれませんか?」
「いらない」
いつもならもっと丁寧なものの言い方をするのに、今日の彼はどこか気もそぞろの様子だった。
歩き出した彼の腕を掴んで引き寄せると、そのまま圭の腕の中へと入っておとなしくしている。
普段の理性に縛られた悠季ならこんなふうにされたならあっと言う間に真っ赤になって逃げ出しているはずだった。
「悠季?つけこみますよ」
しかし答えがない。
顔を覗き込んでみると、未だに音楽の中に取り込まれているように思えた。
彼は時々こんな風にミューズの愛撫に身をゆだねている。
自分はヘボのバイオリニストだと嘆いていながら、本当は彼女たちに愛されているのだ。その事に気が付いていないだけで。
悠季には圭のいらだちは分からないのだろう。
無条件に愛されているミューズの愛し子に嫉妬しているのだとは。
圭は何も言わずに悠季の唇にそっと口づけた。
そのまま荒々しくむさぼり続けると、やがて悠季は苦しげにうめいた。
「な、何・・・・・?」
ようやく開放されて、我をとりもどす。
彼に何かあったのか?
あわただしくまばたきをしながら、混乱した頭でそう考えているのが手に取るようにわかる。
「ミューズから君を取り戻そうと思いまして」
「・・・・・何を言っているんだか」
悠季は苦笑してみせた。
相変わらず圭の言葉は口説くためのものとしか思っていないのだろう。
圭の胸を押し離すと、そのまま帰ろうとした。しかし彼の腕は外れなかった。
「・・・・・桐ノ院?」
悠季が圭の顔を覗き込むと、彼の顔が翳っていった。
黒い瞳に映るのは圭の顔。どこか不安そうな、切なく頼りない風情の。
「今夜はここに泊まっていってもらえませんか?」
悠季は彼の言葉に、迷ったふうにためらい、そして黙ってうなずいた。
――――― 悠季の優しさ。
彼の優しさは哀れみか、それとも慰めのつもりか。
いずれにせよ、圭が望んでやまない愛ではないだろう。
それでも。
悠季の肩に顔をうずめ、更にぎゅっと抱きしめた。
唯一の、かけがえのない愛しい人を、人の世に引き止めておくために。