モラルとは、無縁だと思っていた。
同性を恋愛の対象に選び、父子であってさえ、恋人として手を取り合おうとした人間に残されたモラルが、どれ程のものだろうか。
相手が幼い子供であることに、今更、何の躊躇いを覚えるのかと、危惧していた。
しかし、幸いなことに、この僕でも幼児を相手に欲情するまでは歪んではいなかった。
伊沢も、明らかな犯罪行為には、断固として反対する立場をとり、正確な意図はどこにあったのか、高嶺とソラくんのことまで持ち出した。いわく、今の圭さまたちは、生島さまとソラさまよりも、年齢差がおありなのですね、と。
都合よく忘れていた事実を突きつけられて、ゆうに一月は寝込むに値する精神的衝撃を受けた。
悠季は、彼らふたりの事を真剣に愛し合っている結果だと、開き直って割り切っていたが、本音では、14才のソラくんを肉体的にも恋人にした高嶺にいささかの抵抗を覚えていた事を知っている。
同じことが、我が身に降りかかったとき、愛があれば年齢は関係がない。などと、手のひらを返した対応を取れる性格はしていない。生まれ変わったくらいでは、そうそう性格は変わらない。守村悠季とは、そういう人だった。
その彼に、同じことを強要できるわけがない。
しかし、僕の危惧は、いらぬ心配に過ぎなかった。
いま、僕は、モラルとは次元が違うもので、立ち止まっている。
千希が、思春期と呼ばれるまで成長しても、本人にまるで性的関心が表れず、それが、守村悠季に影響されてのことなのかは、判らないが、悠季が自分のことをオクテだと言っていた意味が飲み込めた。
自分の過程を押し付ける気はないが、同じ年齢で、すでに父でもある恋人に肉欲を感じていたからと、千希に期待、或いは危惧をもっていた僕は、密かに安堵したのだ。
例え、千希に望まれたとして、僕は、果たして、彼の望みを叶えてやれたのだろうか。
そして、音楽高校への入学の為に上京し、週末には伊沢邸で過ごしているにも関わらず、僕らには進展がなかった。
肉体的には別人ではあるが、人間とは精神にも影響される割合も大きい。あの、守村悠季と同じ精神を持つ人物が、そう簡単に性的成熟をみせると思うほど、今はもう甘くない。
なれば、性欲はなく、欲情もしていない人間を、恋人だからといってセックスをする。それは、強姦と、どう違うのだろうか。
せめて、多田野千希には、トラウマを残す行為はしなくない。
僕としては、今のこの状況は納得ずくなのだが、もう一人の当事者である千希は、自分の所為だと責めているようだ。しかし、これは、全ては僕の所為なのだ。
すべては、桐ノ院圭の癒しがたいトラウマにはじまっている。
彼のトラウマである二度の女性経験は、有という客観的視点を得ることによって、冷静に思い出すことができる。
一言で称してしまえば、年上が言葉巧みに年下を誘った。ということだ。
彼のように、無理矢理奪われたわけではなく、年齢的に興味があり、同意のうえで成立した関係である。なかったのは、そこに本来存在すべき愛情だった。その結果、小さい命が犠牲になった。
僕らは、恋人ではある。
だからといって、僕が千希を誘うことに対して、ためらいがちになるのは、たぶん、これの所為なのだ。同じことをしようとしている、罪悪感。
千希が望むならまだしも、それとて、どうなるかは判らない。確実にいえることは、僕から千希を誘う事はないのだ。
恋人に持つべき感情ではないが、トラウマなのだ、仕方がない。
そして、桐ノ院圭には『恋愛』と定義される過程を経験した覚えがない。
結局のところ、当時、恋愛だと信じていた彼女らの時さえ、即、ベッドイン。彼女らに『恋愛』をする気がないのだから、即物的付き合いでしかなかった。その後の付き合いは、付き合いとも呼べない。あれは、決して、『恋愛』と呼べるものではない。圭は悠季に出会うまで、『恋愛』を知らなかった。
では、彼は、どうなのだ?
悠季とのそれを、『恋愛』と定義してしまうには、あまりに罪深い。いつも、選択権のない選択肢をつきつけ、僕が望んだ答えだけを奪ってきた。恋と愛と呼ぼうとも、結論ありきで、辿り着いただけのものだと称したなら、怒られるだろうか。
悠季は、ふたりの始まりを、気にしないと、必然だったといってくれていたが、有の視点を得ることによって見ることのできた圭のことを思えば、僕と同じ立場に立っている千希が出す結論は、彼とも違うはずだ。違っていて当然なのだ。
二人の過去を、千希は、なんと、いってくれるのだろう。
ありえない二度目の生を生きるいま、同じ過ちだけは繰り返すまいと誓っている。
ねぇ、千希、今度こそ、恋から、始めましょう?
2006.9/28 up
『恋をしましょう』