この鍵は大事な鍵です

「さて、このくらいかな？」

僕は雑巾を片手に額の汗を拭い、ぐるっと部屋の中を見回した。

この部屋は今日から僕が住む事になった、桐ノ院の父親の持ち物件のマンションの一室。

すぐ上には桐ノ院が住んである部屋があって、防音が整っている部屋をバイオリンの練習のためにと、好きなときに使わせてもらえるというオマケがついている。

もっとも、その防音というのも完璧じゃなくて、下に対して(つまり僕が住んでいる部屋に)音が漏れるという欠点がある。

僕はそんなことは気にしないから契約したわけだけど、この欠点のおかげで家賃が安くなったのはとてもありがたいことだと思っている。

僕がこの部屋の引越しする事になったのは、桐ノ院のすぐそばに住みたいと思っていたからじゃない。

むしろ、僕に対して恋愛感情を持っていて、何とかして僕を恋人にしたいと願っている彼のことは、どうすればいいのか･････今も迷っている。

彼はもう僕に無理強いしないと自分の感情を押し付けたりしないと言っているけど、彼と二人きりになると緊張するみたいで少し落ち着かない。

「そちらは片付きましたか？」

「ああ、うん。だいたいだけどね」

今まさに考えていた当の本人が、向こうの部屋から顔を出して僕に声をかけてきたんでドキッとした。

僕はたいして荷物があるわけじゃないから、引越しの手伝いなんてしなくてもいいって言ったんだけど、病み上がりなんだから力仕事に使ってくださいって申し出てくれた。

それで桐ノ院の言葉に甘える事にしたんだ。

前に住んでいた宮島アパートは、僕が夏休みの実家へ帰省中の今年の夏、留守中に全焼してしまった。

僕に残されたものといったら、田舎へと持っていった多少の着替えとバイオリン。それに学校に置着っぱなしにしていたスーツくらいのもの。

学生時代に使っていた書き込みだらけの楽譜やこれから練習しようと思って買っていたけど手をつけていなかった楽譜、それに少ない予算で買いためていたCDなんかも全て失ってしまった。

他の服や家財道具は言うまでもない。

おかげで僕はすっかり難民状態になってしまい、あげくのはてに風邪を引きこんで桐ノ院のマンションに緊急避難をすることになってしまった。

でも、どんなに悪い出来事だって、少しくらいはよいことも入っているものだ。

以前は悪印象しかなかった桐ノ院に対する僕のイメージが、このやむをえなかった合宿生活の中で、次第によいものに変わってきたのだから。

少なくとも僕の意思に反したことは絶対にやらない男なんだって、信用することが出来るようになったし。

もっとも、信用はするけど僕に時々向けられる熱っぽい視線を、平然と受け流すような真似は

･････出来ない。

今回引っ越してきた新居に持ち込んだものは、ほとんどがフジミのみんなや新潟に住んでいる姉たちからのカンパの品々だった。

引越しするとなると思いがけない品々が大至急で必要になってくる。

僕がこのマンションに越してくるにあたって、細々としたものを買ってこなければならなくなったんだ。

布団、カーテン、シーリング。トイレの電球からシャンプーリンスまでそれこそあらゆるものが ――――。

フジミの方たちからのカンパは実に有難かった。

台所に必要なものはほとんどもらったし、タオルケットやシーツなどの寝具類も入っていたので買う必要がなかったんだ。

必要なものを買いなさいと、姉たちからもらった見舞金もとても助かった。

最初はいらないと断っていたんだけど、こういうときは遠慮するんじゃないって逆に叱られてしまってんで、ありがたく貰っておくことにしたんだ。

そして驚いた事が一つ。

今度の部屋には新しいクーラーがついた。

これは朝一番に電気店の人がやってきて取り付けてくれたんだけど、僕が買ったわけではない。

本当は元々部屋に付いていたんだけど、前の人が壊したのか、クーラーの調子が悪かったんだ。

管理会社の方で修理してくれるという話だったんだけど、修理屋さんの都合が悪くて延び延びになってしまったのを知って、桐ノ院が引っ越し祝いとして買ってくれたものなんだ。

今まで住んでいたアパートにはクーラーなんてぜいたく品だったから付いていなかったし、少しの間我慢して待てば直るって分かっているのに、

『熱射病で倒れた人がクーラー無しで暑い盛りを乗り切ろうとしているのを知ってしまった以上、気になって放っておくわけにはいきません！』

って言われてしまった。

･････確かに。

僕としても今年の夏は特に暑い気がするし、まだ体力に自信がないから申し訳ないけど、受け取らせてもらうことにした。

「一度に片付けようとしたらバテますよ。もう暗くなりましたしそろそろ腹に何か入れたほうがいいでしょう。飯を食いに行きませんか？」

そう言えば、そうかも。

と思ったとたんに腹の虫が鳴った。

･････ははははは。

「じゃあ『富士見』に行くかい？」

駅前にある小料理屋富士見は桐ノ院の馴染みの店で、今までも何回か二人で出かけている。

「そうですね。ああ、その前にもう一つ引越し祝いがあるのですよ」

「ええっ？もうこれ以上のものはいらないんだけど」

いくら金持ちの坊っちゃんで、僕には大金でも彼にとってはたいした負担じゃないと言っていても、僕なんかのために金を使わせちゃったらもうしわけない。

「これなんですが」

彼がポケットから取り出して僕に渡してくれたのは、小さな箱でブルーのかわいいリボンが飾られていた。

「これは何？」

「開けてごらんなさい」

言われるがままに箱を開けてみると、中に入っていたのは部屋の鍵だった。

「･････これって？」

「上の部屋の鍵ですよ。以前差し上げた鍵は失くされたのでしょう？」

「ああ、うん。」

前の鍵は、僕がまだ桐ノ院を嫌っていた頃に貰ったもので、つい練習場がないと言ってしまった僕のために自分の部屋を使いなさいと言ってくれて、強引に押し付けられたものだった。

あの頃はいやいやもらって、渋々上の部屋を使わせてもらっていたんだけど、アパートの火事と一緒に鍵も失ってしまった。

「上の部屋にはお好きな時間にきて練習してください。僕がいなくても構いませんから」
　　　　　　　　
「でも、悪いじゃないか」

「秋にはバイオリン・ソロを演奏されるのですから、よい環境で練習をされた方がよいと思いますが」

「･････それはそうかもしれないけど」

「でしたら受け取ってください。これはコンダクターの命令です」

思わずぷっと吹いてしまった。

「ありがとう。使わせてもらうよ」

桐ノ院はポーカーフェイスのままだったけど、内心は嬉しそうなのが分かった。これも数日間の合宿のおかげかもしれない。

「そろそろ出かけましょうか」

「うん。行こうか」

こんなふうにさりげなく友人として過ごす事が出来るなら、桐ノ院って男はとてもいいやつだと思う。

僕はずうっとこのままならいいのにと願っているんだけど、彼は今もその先を望んでいるんだろう。

だから、この先二人の関係がどうなるのかは ―――――― 誰にも分からない。

　　　　　　　　