レッスンとしてではなく、休日の午後の楽しみとして、バイオリンを弾いている。


 フジミまでの時間、伊沢邸のピアノ室での自分と僕の楽しみのためのひと時。
 ピアノ室のソファに怠惰に体を預け、無心に演奏する恋人の姿を眺める。
 千希は、時々、視線を寄越し、合うと、恥ずかしげに視線を戻す。
 再び、手にする事の出来た、なにをするでもない、ささやかな幸福に酔いしれる。




 ふいに音が途切れ、見遣ると。

 幾つか目の小曲を弾き終え、今日の楽しみに区切りをつけたのか、バイオリンと弓はピアノの上に置かれていた。

 バイオリンの音に浸る心地よさにまどろみ気味の僕に笑いかけてくる。

「生まれ変わったなって、実感するのって、眼鏡なしでバイオリンが弾ける時だよねぇ。
 楽譜はくっきりはっきり一本線でみえて、汗で眼鏡がずれ落ちてくることもない」

 それは幸福そうに呟いたのち、なぜか、僕を睨みつけて。

「きみには、判らない感情だよね」

 拗ねられて、責められる。

 どう答えればいいのか。
 もしや、これは夢、かもしれない。

 けだるく延ばした指で、目の前の千希のぷっくりと膨らました幼い頬を摘んでみた。


 ――――――倍になって返ってきた。どうやら、現実らしい。


 すでに機嫌を損ねてしまったので、ここはぜひ恋人の望む答えを返したいが。

 必要以上に、時間をかけた結果。

「そうですね」

 こうとしか答えられなかった。

・・・・・嘘でも、判りますといっておくべきだった。見る間に、不機嫌になってしまう。

 だが、恋人の不興を買おうと、判らないのだ。だからといって、判りもしないのに、判るといってしまえば、余計に不興を買う事も判っている。

 千希のいう「生まれ変った実感」を覚えることは、恋人が幼い少年になったこと以外は、実に少ない。

 僕と彼の、唯一にして最大の違いは、知る人ぞ知る、手先の器用さ。

 桐ノ院圭の不器用は、天性のものではなく、幼年期の育ちが原因だったようで、僕、桐院有は、父である悠季の教育方針のおかげで、人並み以上の器用さを手にいれている。それでも、死ぬ間際の圭も、恋人の喜ぶ姿を見たいが為の努力で、人並みの手先をどうにか手にしていた。

 それ以外に、有と圭の違いは、どこにあるのか。


 才能については、今更。
 家庭環境の複雑さは、似たようなもの。

 今から10年程前のことになるのか、幼少の頃からの顔見知りであった某チェリストから、「おまえさん、実はクローンだったのか?」と、かなり本気でいわれた身体的相似点。

 服のサイズだけに限定するのなら、

「使い回しもできますからね」

「手直し、なしで?」

「ええ、なしで」

「ずるい」

 なぜ、ずるいのですか?

「・・・・・・あー、その」

 判らないままに弁解をしかける僕に、恋人は、可愛らしく拗ねてみせる。

「ちがう。
 僕なんか、あつらえたものなんて、礼服しかなかったから、それはいいんだけど」

 ここで、一度、大切に保管されているバイオリンたちに目をやり、そして、悔しげに呟いた。

「『草薙』だけは、そうはいかないじゃないか」

 守村悠季が、無名時代にあつらえたバイオリン。

 かの西大路氏の特注品で、彼が作成した中でも一二を争う出来。当時、セミプロでさえなかったバイオリニストの為に作られたことが、『草薙』と守村悠季を有名にした。

 そして、守村悠季が亡くなったあと、『草薙』と、時田氏より終生貸与から正式に譲渡されたグァルネリを、父の遺産として相続した僕に、貸与の依頼が数多くやってきたものだ。

 本来なら、次代の奏者に渡されるべきなのだが、いずれ、多田野千希によって奏でられるのが決められているバイオリンを、一時でも手放すつもりはなかった。断る過程で、あまりに多い申し込みにいささか面倒になった僕が、千希の存在を白日の元に晒したのは、不幸な事故ということにしておいてほしい。

「あー、しかし、なぜ、僕の服と『草薙』でずるいのですか?
 『草薙』もグァルネリも、アマーティ写しも、最高の条件で、きみに弾かれる日を待ってますよ?」

 事実、いまのバイオリンでは、近々力不足になるだろう。

 その時には、アマーティ写しを貸与する予定である。伯母上は、あまり良い顔はしないが、仕方がない。もう千希に相応しいバイオリンは、やすやすと買えるようなランクではなくなっているのだ。

子供らしくない大きいなため息をつき、有ってば、ホントに判んないんだね。と、呆れられる。彼の息子であったころの名残か、千希は、15も離れた、世間的には保護者の僕を子供扱いすることがある。

「そーゆー問題じゃないんだよ。
 きみは、・・・・・ホントに、きみ、うちの遺伝子を受け継いでるのっかて思うほど、桐院家のDNAで、そっくりだけど」

 そういった千希の目に一瞬だけ走った、小さな欲情の欠片。

 本人も気付かないそれを、僕も見ない振りを続ける。

「それは、恐らく、ここ三人ばかりの桐院家の婿の共通の意見でしょう」

 僕と圭伯父上がそっくりなのは、生まれ変りの所為ではなく、すでに桐院家の呪いではと、疑っている。有が、もうすこし、圭に似ていなければ、千恵子伯母上からの風当たりも違っていたと思うと、複雑なものがある。

「あ、はは、は。
 そうだよね。みんな、そっくりだよねぇ。
 でもね、僕はそうじゃ、ないんだ。
 父さんって、ユキ叔父さんより背が低いんだよ?・・・・・そもそも、父さんの家系って、そんなに高くないし。母さんのほうも、僕だけがどうしてだってくらいにみんな低いしぃ」

 いいながら、すでに落ち込みに沈んでいく。引き上げてあげたくても、落ち込む理由が、いまだに判らない。

「それが?」

 それは、判る。

 僕とて、守村家の血を引く人間なのだ。機会は少ないが、守村側の親戚に会うたびに、僕の姿は、母親の血だと言われ続けている。しかし、その点、千希は、どちらかと言えば、多田野ではなく、守村の血統を受け継いでいるようにみえるのだが。

「『草薙』って、守村悠季に合わせたんだから、少なくとも、あの身長がないと、サイズが合わないんだ」

 澄江さんに合わせた『まほろば』を、多少リーチが余ると聞いてはいたが、苦もなく弾いていてたのを思えば、その言い分は理解できない。





 なくしてから判るありがたさ。身長もそうだったなんて、お笑いだよね。だって、あの時は、勝手に成長してあの身長だったし。ありがたいなんて思ったこともなかったし。羨ましがられてもね。困るだけだったけど。

 羨ましがった奴の気持ちが今更判っても、遅いよね。まだまだ、成長期ってこれからだよね。望みは捨てないでいいよね。





 答えは、ソファのすみにうずくまって、隣に居ながら僕のことを忘れて呟いている千希が、僕を思い出してくれるまで待たなくてはならなかった。

 充分に落ち込んで、僕を誘惑しつづけても、それに気付いていない千希が恨めしい。

 こちらの不都合を思いやってくれずに、追討ちをかけるように魅力的な笑顔を振り撒いていく。

「あのね、確かに、そうだよ?」

 物分りが悪い子供に、諭すように説明してくれる千希がいうには、個人のサイズに合わせた特注品といえどバイオリンである以上、他人が弾けなくはないのだが。確かに、それでなければ、あれほど貸与を求めにくるはずもない。

 しかし、小田氏作の弓もそうだが、自分の体の延長のような一体感がなくなる、らしい。

 一度それを知ってしまってた身には、それでは、唯の音の良いバイオリンでしかない、という。




 千希は、15才。

 身長は、150cm。

 対して、悠季は、175cm。

 その差、25cm、『草薙』を愛器にするには、辛い。




 そして、千希は、青少年のお約束だと、毎日1パックの牛乳を呑んでいる。









2006.9/27 up
『アナタヘツヅク ナガイミチ』