玄関の扉を開けると、冷たい空気がぴりっと肌を刺した。今朝はひどく冷える。まるで出かけようとする足をすくませようとしているかのように。

 せっかく今朝は悠季と一緒に出かけられるというのに。

 互いの用事を済ませるために、途中まで電車に乗っていくだけとはいえ、こうやって連れだって出かけていける機会はそう多くない。

 僕の隣に悠季がいると思うだけで、目の前の景色の明度までが上がるような気がする。

 もっとも、今朝の空は低く暗く、鈍色の雲に覆われていて、街並みの色彩さえ沈んでいるようだ。





 もうすぐ駅に着く、というところで、視界の隅をあざやかな色合いがかすめていった。

「ねえ、圭!見てごらんよ。振袖を着た女の子たちがいるよ。そうかぁ、今日は成人式だったんだね」

 僕が悠季の示す視線の先に目をやると、そこには数人の女性たちがかたまっていて、華やかな振袖姿で楽しそうにおしゃべりをしている。どうやらここで友人同士が集まって、式場へと出かけるところらしい。

 彼女たちの着物は、それぞれが違う色や柄模様をしており、裾を彩るあざやかな染めや刺繍の数々が更に着物を引き立たせていた。

 だが、一つとして同じ着物があるわけでもないのに、どこか彼女たちの制服のように感じさせてしまう。似たような髪型、同じような帯の形、そして襟元にはおそろいのようなフェイクファーのストールという姿がそう思わせるのかもしれない。

 その上、彼女たちが着物を着たのはこれが初めてなのか、所作や歩き方がぎこちないから、見ていていささか見苦しく思う。

 桐院家では、男女とも着物を着る機会が多かったから、僕を含めて着なれていた。彼女たちのように歩くときに無様に裾を乱してしまったり襟が崩れたりしなかったから、そう見えるのだろう。

 もっとも今時、成人式でもなければ着物を着るチャンスなどないのかもしれないとも思ったが。

「うっかりしてたなぁ。今日が祝日だということも忘れていたなんて。どうも僕は世間の出来ごとにうとくなっているよ。これってまずいよな」

 悠季がなげいていた。

「それだけ君が音楽に集中しているということですよ。確かに僕たちはあまり時間に縛られていない職業に就いているわけですから、世間一般の行事とはずれているのかもしれませんね」

 ここ数日、悠季は大学へ行く用事がなく、根を詰めてバイオリンの練習に努めていたから、日時の感覚がうとくなっていたのかもしれない。

僕たちは一般の祝日や休日にはとらわれない生活をしている。こんな風に戸惑う事はこれからもあるだろう。彼らに特別な日も、僕たちにとっては普通の日になってしまうことになる。

僕のなぐさめは悠季を浮上させただろうか?




 振袖の女性たちが僕たちの方を指さして何やら言っているようだ。僕たちのことに気がついたのかもしれない。

 僕の音楽のファンならば、それなりに応対しよう。ただし、プライベートにかかわることがなければ、だが。

 しかし、悠季のファンであるのなら・・・・・いささか複雑な気持ちだ。

 彼のバイオリンから生み出される音楽は、誰の心も魅了する力を持っている。だから、彼女たちが魅かれるのも無理はないと思うし、ぜひ聞いて感動を分かち合って欲しいと思う。が、女性が悠季に関心を持つと思うと穏やかではいられない。



 それは僕が悠季を手に入れることができた時から心ひそかに恐れている想い――――――。



 僕はそれ以上彼女たちを見る気がしなくて、目を背けた。悠季が彼女たちを見ていたのは、自分の生活のゆとりのなさを嘆くためだと知ったから。

 しかし、悠季の思いはそれだけではなかったようだ。

「悠季?」

 僕が彼の方を見やると、まだ彼女たちを見つめているではないか!

 あたたかく、やさしいまなざし。

 それに気がつくと、僕の胸にがりりと噛んでくるものがある。これがどういう意味なのかは分かっている。ほとんどは嫉妬。それから・・・・・いささかの忸怩たる思い。

 悠季の性向は、もともとノーマルで女性を恋愛対象にしていた。出会った時も富士見の中で片思いを育てていた。プロポーズしようと心ひそかに望んでいたのだという。しかし、それを僕が横槍を入れて奪い取った形になった。

 僕は自分がしたことを後悔はしていない。

 けれど。

 だからこそ、いつ彼の前に気立てのよい綺麗な女性が現れて、悠季も彼女を見つめ、彼女に恋をし、僕のそばを離れて彼女と行ってしまうのではないかという恐怖心が、いつも心の奥底にある。

 悠季は僕を愛してくれている。心から。それは確かに。

 しかし、彼が以前告白したことがある、『君に捨てられてしまうんじゃないかというおびえがあるんだ』という言葉はそのまま僕に当てはまってしまう。

「彼女たちを知っているのですか?」

僕はポーカーフェイスながら、内心では戦々恐々としながら尋ねてみた。

見た限り、かのじょたちはフジミのメンバーではないし、悠季が受け持っている生徒でもない。では、国立に通う顔見知りの音大生なのか。

「彼女たち?いや、まったく知らない人たちだよ」

 悠季はあっさりと否定してくれた。

「ただね、あの子たちを見ていたら姉たちの成人式のときをちょっと思い出しちゃったものだから」

 そう言って笑っていた。

 ああ、そういうことなのか。僕はひそかにほっと胸をなでおろす。

「うちは姉が3人もいるだろ?それぞれに振袖をあつらえるとなると、かなりの物入りになるからね。両親が大変だと言いながらも楽しそうに準備していたのを思い出したんだ。娘にとって一生に一度の嬉しい思い出になるからと、大切にしていたんだね」

 悠季の微笑みにはほろ苦いものも混じっているようだった。

「僕にもちゃんと用意してくれると言っていたけど、僕は男だからね。それに、父さんは僕が高校の時に事故で亡くなってしまったし、僕は故郷を離れて音大に行くつもりだったから、何もいらないって言ってあったんだ。
それでも、母さんはお祝いを上げるから楽しみにしていなさいって言ってくれていた。
でも・・・・・、君も知っての通り、母さんは僕が成人式を迎える前に亡くなってしまったから」

 そうだった。悠季の両親は彼が成人する前に亡くなられていたのだった。

「ふみ姉が母さんの代わりにお祝いしてくれると言ってくれたけど、断わったよ。
ただでさえ僕のために仕送りをしてくれていたのに、負担をかけられなかった。まあ、いずれにせよ新潟に帰って成人式に出席することも出来なかったしね。時間に余裕がなかったからねえ。その頃の僕には課題がぎっしりで、こなすのに精いっぱいだったのさ」

 なつかしげに目を細めていたのは、必死に音楽と向き合っていた日々を想い浮かべていたものか。

 僕は彼の気持を邪推したことをすまなく思いながらも、彼の気持が他に揺らいでいないことに心から安堵していた。

「そう言えば、圭の方は成人式はどうしていた?君のことだからきっと盛大にお祝いしたんだろうね」

「僕は20歳の頃には既に欧州に遊学に出ていましたからね。日本の成人式は経験していません。それに、桐院家では世間一般のような20歳成人ではなくて、18歳の元服をもって成人とみなします」

 桐院家のしきたりは、明治の頃と変わっていないものが多い。

「祖母が生きていたら、それこそ格式ばった衣冠束帯といった衣装をあつらえたかもしれませんが、既に亡くなっていたので、紋付袴姿で親戚への披露があっただけです」

 助かりましたよ。と、ほほ笑んでみせた。

「君の平安衣装ってちょっと見てみたかったかも」

 悠季がくったくなく笑う。

 彼となにげない話をする幸せ。

 彼が僕を愛していることをさりげなく感じさせてくれる瞬間。

 だからこそ、悠季が僕を捨てて去ってしまうかもしれないという不安は、決して忘れてはいけないと思っている。

 守村悠季というかけがけのない人と出会い、愛し合って過ごしていける幸福をまざまざと味わう事が出来るのだから。

 そして、決して彼を手放せないと事を改めて思い知ることになる。日々のたあいない出来ごとの中にも貴重な宝石は転がっている。



 だから、僕は今は今夜の献立について話しはじめている悠季の耳元に、さりげなく吹き込むのだ。

「君の作って下さるものなら、なんでもごちそうですよ。悠季」

 そうして、ぽっと桜貝のような耳たぶがあざやかに染まっていく美しさを目にすることが出来る。






 愛していますよ、悠季。

特別ではない日
2010.1/12 UP

悠季が圭に捨てられてしまうかもしれないという不安を口にしていますけど、圭も同じような不安は持っているのではないでしょうか。
ただ、彼の場合は肯定的に考えているのではないかと思います。
やはり、心のどこかにそんな不安を持ったままでいないと、新鮮なラブラブ気分を持続出来ないのではないかと思いますが、どうでしょう?
2人にはいつまでも甘々なカップルでいて欲しいと思っています♪