「はい、こちら重籐医院」
夜遅くにかかってきた電話からは、馴染みの声が聞こえてきた。
《晃嗣様、夜分このような時間に失礼致します。伊沢でございます。もうお休みでしたでしょうか?》
「ああ、いや。大丈夫、まだ寝てなかったから。何かあったのかい?」
僕はいつもの癖で壁にかかっている時計を見上げると、文字盤はすでに深夜を廻っている事を示していた。
《はい、実は圭様が・・・・・》
「何かやらかしたのかい?あの甥っ子は」
桐院家を勘当されて八王子で町医者をやっている僕にとって、実家である桐院家のことには全く関わりないと突っぱねるには・・・・・様々な不義理があった。
特にこの執事をやっている伊沢には、あれこれと口に出せないような世話になっていて、何か頼まれたときには断われない恩があった。そして何を頼まれても嫌とは言えない負い目もあったのだ。
それに、何よりお気に入りの甥は何かと気にかかる存在だったのだ。
甥の圭は、頭が切れて銀行家としての能力があるのは僕の目から見てもわかった。もっとも彼が望んでいるのは音楽家として進む事であったようで、音楽家としての才能もどうやらあるようだ。
となれば銀行家になる気などさらさらないようで、さっさと我が道を進もうと邁進している様子だ。
というわけで、今も義弟である胤光氏の懸命でむくわれない努力が続いている。・・・・・気の毒に。
圭の性格はいろいろ問題なところもあるが、まあまあ青臭くてかわいいといったところだろう。
・・・・・本人に言えば怒るだろうから言わないが。
とにかく、ごく普通の目で見れば優良物件の結婚したい男性という事になる。
だが、問題がひとつだけあり、これが実家の妹夫婦の悩みの種であるらしい。
それは、・・・・・彼の交友関係、ズバリ言えばセックスに関する事だった。
まだ中学の頃にその手の問題を起こし(まあ、最初の時は、女性からの誘惑だったらしいが)その後にもとある女性との間で妊娠騒ぎを起こしたことに懲りたのか、それからは宗旨替えをしたかのように、複数の男性たちと関係を持つようになっていたらしい。
未だに胤光氏は息子を銀行家にする夢をあきらめ切れない様子だが、銀行家としてこの手のスキャンダルは致命的だろう。
―――伊沢は圭のトラブルを表ざたにならないように陰から始末をしていたようだが・・・・・どんなことをしていたのか詳しい事は部外者である僕には分からない。―――
その当の本人は銀行家にしようという父親の手を逃れ、我が意を通してあっさりと音大に進み、更に日本でのトラブルからさっさと逃げ出してヨーロッパへと留学(遊学?)してしまった。
あちらでは少しは大人しくしていたらしいが、それでもウィーンからベルリンへと逃げ出さざるを得ないような羽目になり、更には日本に帰国することになったらしい。
全てが彼だけの責任問題ではないらしいし、交友関係だけが原因で移動したわけではないらしいが、それでも全く関係がないわけではないというところが、圭らしいことだった。
誰か特定の―――この際女性でも男性でもどちらでも構わないが―――特定のパートナーを見つけて、腰を落ち着けてくれればいいのだが、なかなかそんな相手は見つからないらしい。
彼にとっては、誰か一人だけを愛することなど出来ないらしいから。いや、それとも誰かを本当に愛したことなどないのだろうか?それはあの家に生まれて来た者について回る因果かもしれなかった。
その圭が日本に戻って来て間もなくのこの時期、深夜の電話ということは、またもやトラブルを起こしたのだろうか。
電話の向こうで伊沢は今回の用件について珍しく言葉をためらっていたが、やがて話し出した言葉に衝撃を受けた。
《実は・・・・・圭様はある男性に対して強引に事に及んだようでございます》
「強引?なんだって!?それはつまり、その・・・・・強姦したってことか?」
思わず声をひそめた。
《はい、そのようでございます》
圭の不行跡はそれまでにいくつも耳にしているが、頭のいい彼はトラブルの処理には悪知恵がきき、強姦などという犯罪を犯した事はかつてなかったはずだった。
「・・・・・それで、僕に頼みというのは?」
被害者の彼に今回の事を忘れさせようというのだろうか?つまり強姦されてしまった記憶の操作をして、何事もなかったようにしろと。
表ではごく普通の診療医である僕だが、実はほとんど誰も知らない秘密を持っている。
【洗脳】と言えば聞こえが悪いが、暗示をかけて相手の記憶や考えを誘導する事が出来る・・・・・という特技を隠しているのだ。
ドイツに医学留学に出かけていたときのものだ。向こうでは何回か医療のための臨床実験に使っていたのだが、日本ではまったく使う必要がなかった。その特技を初めて使う相手が甥になるのだろうか。
《晃嗣様のお手を煩わせて申し訳ありませんが、あの方の手当てをお願いできませんでしょうか?》
確かに強姦などという事なら、めったな医者に往診を頼む事は出来ないだろう。僕に頼むのが一番安全だった。だが、伊沢という人間は、桐院家あるいは父堯宗のためならどのようなことでも平然と出来る胆力をもっている。治療だけなら、口の堅い医者を呼び寄せることもたやすいはずだ。それなのに、わざわざ僕を呼び出すというわけは・・・・・。
《私がお願いしたいことはもうひとつございます。実は・・・・・》
伊沢が頼んできた言葉に思わず耳を疑っていた。
「いかがでございましたでしょうか?」
マンションのキッチンで僕の手当てが終わるのを待っていた伊沢はさっそく聞いてきた。
「ああ、彼はたいした怪我じゃなかったよ。打撲と擦過傷、軽い脳震盪。それに、肛門裂傷。どれも数日中に治る程度のものだ」
僕の答えを聞いて、伊沢の眉が少ししかめられた。聞きたかったのはそれではなかったのは分かっていたが、まずはけがの手当てが先だったのだ。
「あっちの方は、予想以上の出来になったよ」
「と、申しますと?」
「守村くんだったか?怪我をした彼の方はもともと素直な性質だったんだろう。あっさりと暗示にかかったよ。
どれくらい効き目があるかは、これからの圭の態度次第といったところか。
それから、ずいぶんと自虐的でマイナス思考の人間みたいだったから、そのあたりを少し変えるようにしておいた」
「圭様の方はいかがでございますか?」
驚いたことに、伊沢は二人共に暗示をかけるように依頼してきたのだ。
「普段の圭なら冷静でごく理性的だから、たとえどんなテクニックで仕掛けても暗示が効く事はまずない。しかし動揺している今夜はあっさりと記憶を操作する事も可能だった。かなり深く効いたみたいだよ。
もっとも、圭は暗示をかけなくても彼の事をかなり気に入っていたみたいだねぇ。恋人にしたいというところまではいかなくても、このまま関係を続けていたいと思っていたようだ。だからこそノーマルな相手に対してこんな事件を起こしたのかもしれない。
わざわざこんな暗示を仕掛けなくても、ふたりの関係は大丈夫だったんじゃないかと思うがね」
つまり僕は今回の無茶な依頼を内心で非難していると言いたかったのだが。
「圭様にはそろそろ落ち着いていただかなくてはなりません。そのためには特定のパートナーを持つことが必要なのでございます」
伊沢はきっぱりとした口調で言った。
「それが守村くんってわけかい?まるで圭へ捧げるいけにえのように思えてくるよ」
「よろしいのです。圭様に心から愛する相手が出来れば。そして、圭様に愛されるのなら守村様も幸福になれるはずです」
「やれやれ、そうなればいいがね。
・・・・・念のために言っておくが、暗示はあくまでも心の傾きを少し押すだけのものだ。本人がそれを望まなければいずれ暗示は消える。二人がすりこまれていた事実が気に入らないという事態になれば、何もしなかった時よりもひどく反発する事になるだろう。それは心得ておいてくれ」
そう言いながら、僕はマンションに踏み込んだ時に見た圭の顔を思い出していた。真っ青な顔色で、すがるような必死な目で僕を見ていた。それをみただけで、どれほど彼の事を気にかけているのかという事がわかった。
もしかしたら・・・・・いや、おそらく圭は本当に守村くんのことを愛し始めていたのかもしれなかった。
だとすると、もし何かの拍子に暗示が解けたらいったいどうなるか。それまでの愛情の深さがそのまま憎しみに変わってしまうこともあるのだ。
伊沢は僕の説明を淡々とした様子で聞きとると、ごく平静な表情のまま頭を下げた。
「よくわかりましてございます、晃嗣様。ありがとうございました」
・・・・・僕にはもう何もすることはなくなった。
持ってきた器具類を医療鞄に仕舞うと帰ることにした。後片付けをしてから帰るという伊沢が玄関まで見送ってくれたが、そのときふと思いついたことがあった。
圭が日本に帰って来た時、成城の屋敷にそのまま戻ることを嫌がった。独立してどこか別の場所に住みたいという彼の望みに沿ってこのマンションを紹介したのが伊沢のはずだった。
彼が圭の動向を把握していないはずはない。あの青年と出会ったのは偶然だとしても、その後の行動を追い、どんな行動をするのか予測は出来たはず。そして圭に何らかの影響をあたえることも・・・・・。
それは伊沢だけの考えか。おそらくそうではないだろう。彼は父である堯宗に長年仕えた者であり、老いるまで連れ添ってきた者でもある。父の意思を反映した行動のはずだった。
振り向いて伊沢の顔を見たが、彼の顔にはどのような感情も浮かんではいなかった。おそらく問いただしたところで、何も言うはずはないだろう。
「お気をつけてお帰り下さいませ」
何とも言えないあやしげな微笑みを浮かべ、伊沢は丁寧なお辞儀をして僕を送りだしたのだった。
こうして、僕が仕込んだ暗示によって、圭と守村くんという青年は互いを愛するように仕向けられた。
まるでシェークスピアの戯曲『真夏の夜の夢 』の中でパックが恋人たちのまぶたに薬を塗ったかのように、守村くんと圭はそれまでのわだかまりをあっさりと消して、互いに恋するようになった。
そして二人は恋人同士になっている。
音楽家同士という接点もあって、二人は数年経った今も富士見町にある元伊沢の実家があった屋敷で仲好く暮らしている。
だが、無理強いした関係がいつまで続くのか分からない。もしも暗示が切れたなら、果たして二人の仲はどうなるのか。
僕は薄氷を踏む思いで、今も彼らの動きを追い続けている。
いつまでもこのままの二人でいることを願いながら。
年に一度は熱病のようにこんな話が出来てくるようです。(苦笑) 今年は出て来ないなァと思っていたら、ハロウィーンの頃に出てきてしまいました。 それも、今回の悪役は伊沢さん・・・・・ (x_x;) |
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2013.10/31 up