サイクリング







「それで、カタツムリ・カーを買って、どこへ行きたいわけ?」

悠季は僕に尋ねてきた。

彼のこんな諧謔を含んだ語りくちは、愛らしく好ましい。

たあいないしゃべりの中にも入ってくる僕を気遣った言葉は、あっさりと僕の頬を緩めてしまう。

「国内でしたら北海道でしょうか。宿の心配なしのドライブ旅行です。山の置くでも湖畔でも景色のいい場所を見つけたら、そこで好きなだけ滞在する」

「うふ、でも実質キャンプだろ?きみってアウトドアは好きだっけ?」

悠季は楽しそうに話に乗ってきてくれる。


そう。僕は何をしたいのか―――――。


僕は誰にも邪魔されず、時間にも場所にも自由気ままに過ごしてみたいのだろうか。

それはおそらくサムソンとの契約中にうんざりするほど願っていたことなのだから。

だが、それだけではない。

と考えていたところで、悠季が僕の考え事にストップをかけてきた。運転を任されているのだから、当然のことだ。

大切な悠季に万一のことでもあっては一大事というものだ。

だが、僕の頭の隅に、悠季との魅力的な旅のプランが棲みついてしまったようだった。






長野からの帰り道、さまざまな話をしているうちに、ふと先ほどのアウトドアの話に戻ってきた。

北海道なら季節のよいときには、車でのドライブだけでなく自転車でのツーリングも楽しいのではないかという話だ。

「きみって自転車は乗れるの?」

「あー、自転車は・・・・・」

悠季の質問に僕は返事をためらった。少々痛い思い出が混じっていることまで思い出していたからだ。

察しのいい悠季は、それ以上自転車の運転には触れず、話題を変えようとしてくれたのだが、もうこれは時効にしてもいい話ではないか。

「実は子供のころに一度だけ挑戦したことがあります。夏の避暑に出かけたときのことなのですが。しかしそれっきり練習のチャンスがありませんでした。ですからもう乗れなくなっているでしょう」

それは、僕がたまたま燦子母上の失言を聞いてしまったときのことだった。

それまで幼稚舎の子供たちが自転車を買ってもらい、乗れるようになったという話をしているのを耳にしていた僕は、何とかして自分も自転車に乗ってみたかった。

しかし、祖母が生存していた頃には断固として拒絶されていた。

曰く、自転車など庶民の乗るもの。貴族である桐院家の者が乗ろうとするなどとんでもない。まして跡取りである圭が危ないまねをするなど言語道断。というものだった。

祖母が亡くなった後は、乳母のハツが危ないと騒ぎ立てていたために、父に自転車は買ってもらえなかった。

いや、僕が強く望めば可能だったのかもしれないが、自転車を乗りたいなどねだるのは子供っぽいことに思えて父には言い出せなかった。

しかし伊豆の別荘に避暑に出かけたときに、どうしてもと伊沢にねだって自転車を借りてもらうことができたのがとても嬉しかった。

後ろを支えてもらって何とかふらふらと数メートルほどは走れるようになっただろうか。

得意でたまらず、明日もまた練習して乗りこなせるようになろう。乗りこなせるようになったら父に自転車をねだろうと思っていたのだが・・・・・。

燦子母上のところへと自転車に乗れたと報告にいくと聞こえてきたのは両親が言い争っている声。そして、あの母上の発言。



「圭さんの母親としての務めは、誠心誠意果たしております」



桐院家に出入りしている者たちの中には余計なことをふきこみたがる者がいる。そのせいで、僕は燦子母上が実の母ではないということを、うすうす知っていた。

それでも僕にとって母上はやさしくて慕わしいものだったのだが、そのときの彼女の言葉を聞いた瞬間、それまでのすべてが反転し、嘘と虚実に塗り固められた毒に変わってしまった。

夏の海の別荘の魅力は色あせたものになり、記憶から消したいとさえ思った。

だからそれ以来、僕は伊豆に行くことはなく、当然のように自転車に乗ることはなかった。

東京に帰ってからは音楽に夢中になっていたし、自転車を乗ることに興味が失せていた。いや、自転車を無視し、封印したのだ。

だが、今となれば興味がわいてくる。

悠季と二人で自転車に乗って走らせれば、自動車とは違った爽快感を味わえるのではないかと思いついたからだ。

「きみは自転車に乗れるのですか?」

「うん。一応ね。バイオリンのレッスンに行くのに、夏はバイオリンを背負って自転車で行っていたから。
本当はバイオリンを持って自転車に乗るなんてとんでもないことなんだけど、あの頃は忙しいのに毎週車を出してくれなんて言えなかったし、バスで毎週通うのも申し訳なかったしね。
冬はさすがに雪が深くて自転車ってわけには行かなかったからバスになっちゃってたけど」

故郷を懐かしんで柔らかな表情を浮かべていた。

「悠季、僕に自転車の乗り方をおしえてもらえませんか?」

以前の僕なら悠季に見栄を張って乗れる振りをしていたかもしれないが、今の僕は彼に素直に教えを請うことを知っている。

「今度こそきちんと乗れるようになりたいと思っています」

「ええっ!?僕にちゃんと教えられるかなぁ。それに僕自身何年も乗ってないんだし。ちゃんとプロの人に教えてもらったほうがいいんじゃないかな」

「僕はきみに教えてもらいたいのです」

「そんなに自転車に興味があったの?」

「実は、高嶺が乗り回している姿を見ていて、乗ってみたいと思っていました」

「うらやましかったってわけ?」

「はい」

「そうかー。あの人みたいにどこに行くのもへいちゃらって感じなら気持ちいいかもね。じゃあ、僕ももう一度乗れるように練習するということで、二人でやってみようか」






こうして、僕たちは自転車教習にはげむことになったのだった。



伊沢に電話をかけ、自転車に乗りたいのだと頼むと、受話器の向こうは一瞬の沈黙があった。冷静沈着で何事にも動じない彼にしては珍しい。

《承知いたしました。大人のための自転車講習を行っているところがあります。そこで自転車と場所を借りましょう》

どうやら大人になってから初めて自転車を走らせたいと思い立つ者は僕だけではないらしく、望んだとおりに貸切で広い場所が借りられることになった。

「よろしく頼みます」

《圭様、今度は無事お乗りになれるよう、かげながら応援しております》

やはり彼もあの夏のことを気にしていたようだった。






そうして、悠季と二人で車で練習場所へと出かけ、用意されていた安全のためのサポーターやヘルメットをつけた。

「うっくくくく・・・・・」

笑いをこらえようとしながら我慢しきれずに、背を向けて肩を震わしながら悠季が笑う。

「そんなにおかしいですか?」

いささかならず普段の僕のスタイルとは違ってしまったもので、悠季の笑いのツボにはまってしまったらしい。

「ご、ごめん。普段はおしゃれでかっこいいきみが、なんだか甥っ子たちと同じようなかっこうをしてるものだから。
・・・・・えー。えへん。もう大丈夫」

ひとしきり笑われてしまったが、その後は丁寧な指導者に徹してくれた。

自転車は高嶺と同じ機種では初心者には乗りづらいということで、いわゆるママチャリ型が用意されていた。

さあ自転車の練習を。

しかし・・・・・。

「ペダルがありませんが?」

「うん、初心者はまずバランスをとることを覚えなきゃいけないからペダルは外してる」

いざはじめてみると、最初のうちはふらふらとなってバランスも取れなかった。しかし何回も悠季のアドバイスを受けながら自転車にまたがり、進む。

やがてバランスをとりながら足で蹴って前に進めるようになった。

「じゃあペダルをつけてみようか」

悠季がようやくそう言ってくれて喜んだ。今度こそ自転車の運転らしくなる。

だが、ペダルをつけると難易度は一気に上がった。

バランスをとろうとするとペダルがおろそかになり、ペダルに気をとられるとあっという間に自転車は転倒する。

悠季のアドバイスを受けつつ、ああでもない、こうでもないと悩みながら練習を繰り返していき・・・・・。

ついに、ふらふらとだが数メートルほど進むことができた!僕は内心快哉を叫んでいた。

「乗れましたよ!悠季」

「よかったねぇ!」

満面の笑みで悠季が喜んでくれる。

「あとは何回も繰り返していくうちにからだが覚えるよ」

「はい!」

僕が応えると悠季がちょっと目を細めてうふふと笑った。

「浩一郎たちに教えて、できるようになった時と同じ顔になっているなぁってさ。その・・・・・かわいいなって思ったりしてさ」

小さな声でうれしそうに言った。


ほう。かわいい、ですか。


僕に向かってその禁句を言うとどうなるか忘れてしまったのでしょうか。

ええ、そのむくいはいずれベッドで。



しかし、僕が悠季に報復することはできなかった。

たいして筋肉など使っていないと思っていたのに、夜になる頃にはあちこちが痛み出し、翌朝には全身が筋肉痛になっていたからだ。




やさしい悠季は今は僕のからだのことをひどく心配してくれて、あちこちが痛くて動けない僕のためにあれこれと世話を焼いてくれている。

僕が自分に対してどんなことをするつもりだったのかなど思いもよらずに。

「初めてのことをしてがんばっていたから、からだのあちこちの筋肉が緊張しちゃったんだよね。
慣れるまでの辛抱かな」

気の毒そうな顔をし、早く痛みがとれるようにおまじないだと言って、ちゅっとキスしてくれた。

ええ、恩をあだで返そうなどと考えたりしたから罰が当たったということか。

「君と二人でサイクリングに出かけるのが楽しみです」

やせ我慢で微笑んで見せるのがやっとのこと。





自業自得ということですかね。やれやれ・・・・・。









遅くなりましたが、ようやく今年の結婚記念日用(?)のお話です。
【虹の橋】で秋月先生が圭は自転車に乗れないと思うとありましたが。
私としては多少は乗れたかもしれないんじゃないか?と思いまして、
こんな話にしてみました。・・・・・が
すみません!いちゃいちゃはほぼ無しです。(;´∀`)




2014.8/26up