モノローグ
ロン・ティボー国際コンクール。
ピアノとヴァイオリンとガラコンサートの年が順繰りに行われているが、今年はヴァイオリンのコンクールが開催される年だ。
私の名は、マルチェロ・パルニーニ。
音楽評論家の肩書を持っているが。友人でありオペラ・エ・ムジカ・クラシカ誌の編集長であるシモーヌ・オルシに時々頼まれて、記者となることがある。
今回のコンクールも同様に依頼されて、第一次審査から見守ることとなった。
最近人気が出てきたフランスの若手ヴァイオリニストが今回のコンクールに参加するということなので、取材して欲しいという依頼だった。
いかに女性向けするようなプロフィールの持ち主であろうと、聞かせる音楽が人気に見合うものでなければ私が聞く価値はない。
持ち上げるような記事は書くつもりはないし、審査員たちの審査基準も同様だろう。
私は会場であるCRRに出かけ、コンテスタントたちのプロフィール一覧が載っているパンフレットを手に入れた。
ここ数年のロン・ティボーはアジアと東欧からのコンテスタントが多い傾向にあるようで、今回のコンクールにイタリアから参加者はいない。
ルーマニア、韓国、ベネズエラ、ロシア、それからフランス。
日本からはなんと7人も参加しているらしい。
あの国は昔から舶来礼賛の傾向があると聞いていたが、今も同様らしい。
彼等もこのコンクールで名をあげて、演奏者として売り込みをかけたいというところだろう。
しかしコンクールの水準は高いが、優勝したときに与えられる2年間のコンサートはヴァイオリニストが欧州でどれほど活躍できるようにするための手助けをするに過ぎず、その後は本人の才能と努力が求められる。
おや。
私は出場者の中に見知った顔を見つけて喜んだ。
ユウキ・モリムラ
この名を初めて知ったのは、ケイ・トウノインがヤーノシュ・フィレンチク指揮者コンクールで銀賞を獲ったときのガラコンサートで、ケイから紹介されたのだった。
だからこの時はバイオリニストとして出会っていない。
はにかみ屋の美青年で、ケイ・トウノインの恋人という事実を知らされた事の方が印象に強い。
彼の母国のコンクールで入賞を果たし、現在は留学中ということだけは聞いていたが、彼がどんな演奏をするのかはまったく分からなかった。
バイオリニストして記憶に留めたわけではなかったのだ。
後日ヴィオッティ国際ヴァイオリンコンクールで彼を見かけ、意外なところで出会ったことを喜んだ。
彼がどんな演奏をするのか。どんなバイオリニストなのか、ようやく知ることが出来ると。
このコンクールはバロックの曲が審査対象だったのだが、弾いたどの曲もいい出来で、彼は優勝者なし同点二位の銀賞を得た。
私は彼の演奏に少なからぬ関心を持つことになった。
まだ完成形ではなかったが、いずれ彼がパッハを得意とする演奏家になるのは間違いなかったからだ。
プロとしていつ活動を開始するのか楽しみにしていたのに、なかなか始まらないことに業を煮やしていたが、どうやらこのコンクールに参加することで彼もようやく欧州での活動を始めることにしたようだ。
ヴィオッティのときの演奏と比べて、彼がどれだけ進化した演奏を聞かせてくれるだろうか。
「おや、いらしてたのですか」
欧米人に混じっていてもすらりと背の高い東洋人の青年は見慣れたポーカーフェィスで私に言った。
この若い知人にはロン・ティボー国際バイオリンコンクールの第一次予選会場の入り口を入ってきたところでばったり出くわした。
「君こそ今日は確かカナダで指揮してるんじゃなかったのか?」
今は注目される若手指揮者として大活躍している彼。
「それは昨日終わりましたよ」
「あのヴィオッティで銀を獲った彼が、いよいよ今回のロン・ティボーに名乗りを上げているんだね」
「ええ」
いつもはポーカーフェィスを得意としている彼が嬉しそうに微笑んだ。
ここでの彼は恋人の成功を祈る男というほうがふさわしいのかもしれない。 こうやって大急ぎで仕事を終わらせてここへ駆けつけて来るほどなのだから。
もちろん音楽家としての関心も大きいだろう。
「あなたが第一次予選から来られるとは思いませんでしたよ。二次予選か本選から取材されるのではなかったのですか?」
「まあ普通はそうするがね。今回は編集長が優勝するだろうと狙っているやつがエントリーしているので、最初から取材してくれと言われたのさ」
私は肩をすくめて仕方ないという心情を示した。
「それは残念なことになるでしょう。僕は悠季が優勝すると思ってますよ」
「私は誰に対しても平等に扱って表彰式まで見届けるだけだ。だから君のユウキが残念ながら優勝しても構わないがね」
にやりと笑って年下の友人の顔を見ると苦笑していた。
「ユウキは今日の審査なのかい?」
第一次予選は3日間開かれるのだが、どの日に当たるのかは分からない。
「匿名審査ですから、外部に審査番号をおしえてはいけないことになっています」
「でも君は知っているんだろう?」
軽く肩をすくめてみせ、何も言わなかった。
しかし彼がここに来ているということは、今日これからの審査なのだろうと推測できる。
なるほど、なるほど。それは楽しみだ。
「今回も彼のパッハは聞けるのかな?この間のヴィオッティではいい出来だったが」
「二次予選の中にシャコンヌが入っています」
「それはいい」
「もちろん」
と言いながらも冴えない顔をしている。
「まさか一次を通過出来そうもないというわけではないのだろう?」
「そんなことはありません。悠季はトップグループで通るでしょう」
「だったらどうして残念そうな顔をしているんだ?」
ぴくりと彼の眉が上がると、またいつものポーカーフェイスをかぶりなおした。
「失礼しました。実は仕事が入っていまして、二次予選にはいられないのです。出来る事なら最初から最後まで全て見届けたかったのですが。おそらく素晴らしい演奏になるでしょうからね」
彼が世に出る記念すべきコンクールだから全て聞きたかったのだと言いたいらしい。それでがっかりした表情をしていたのか。彼のことに関しては、なんて分かりやすい男なのだろう。
「君の代わりに聞いておいてやるよ」
からかい混じりで言ってやると肩をすくめてみせた。
「本選には戻って聞けるのですから、我慢します」
「本選に残ることが前提だがね」
「それは間違いなく」
「自信たっぷりじゃないか」
「その理由はあなたもご存じのはずですが」
まあ確かに、ヴィオッティの時にはバッハやアルビノーニでみごとな演奏を聞かせてくれた。
しかし今回のコンクールでの演奏にはバロック以外にも多くの世代の作曲家の作品が課題として出されている。
はたして彼は古典から現代曲まで幅広いジャンルをくまなく弾きこなしてみせるだろうか。
今日の審査のあとで飲みに誘いたかったのだが、ケイはユウキの演奏を聞いた後そのまま彼と帰るという。
それでは本選でまたお会いしましょう。
そう言って会釈してみせると、ケイはホールの中へと消えていった。
その日の午後に演奏した3人のうちの2人のコンテスタントの出来は伯仲していた。その後に演奏したもう1人の演奏者は気の毒にもまったく記憶に残らなかったほどだった。
その伯仲した2人とは、1人はあのユウキであり、もう1人は編集長ご推薦のヒロミ・マルセル・シャントレーだった。
2人の出す音は全くの正反対と言ってもよかった。
かたやシャントレーは一度聞いたら忘れられないような癖のある演奏で、好きか嫌いか真っ二つに分かれるような音をしていた。
かたやユウキはといえば、透明感が際立った演奏だった。
ぐいぐいと主張を押したてるわけではないが、いつまでも聞いていたい音を出している。
和を尊しとする日本人らしい演奏と言うべきものなのか。
間違いなくこの二人は二次予選に進むだろう。
その先まで進めるかどうかはまだ分からないが、このままでいけば本選でこの二人が競い合うのではないかという予感がある。
さて、僕の勘は当たるかどうか。
予想は当たった。
二次予選では特にユウキのシャコンヌが群を抜いて秀逸だった。
しんと会場中にいる観客たちが息を殺して彼の奏でる曲に耳を澄ましているのがわかった。
僕自身もそうだったからだ。
この1曲だけで本選に進む価値があると思わせた。
シャントレーの選曲も実によかった。
少々けれん味のある彼の演奏がここでは実に選曲にはまってうならせてくれたのだ。
だから二人が本選に進むことになったと知っても当然と思わせた。
その期待の本選。
リサイタル形式の60分の演奏会と、オーケストラを使ったバイオリンコンチェルトでは、どんな演奏を聞かせてくれるだろうか。
リサイタル形式では、本選に進んだ4人とも考え抜いた選曲と演奏を聞かせてくれた。
ユウキは途中でバイオリンの持ち替えをするという斬新なやり方をしてくれたのが楽しかったが、彼はおそらくあまりコンサートを開いた事がないのだろうと思われた。
全体的にゆとりが少ないことが、こちらに緊張を強いる。
聞いて楽しむにはいささか障りがあるのだ。
それとは対照的に、シャントレーの方は途中で休憩を入れたり曲目に大きな変化をほどこしたりと、聴衆にも曲を愉しむ余裕を与えた。
これは何回もリサイタルの経験を重ねていくうちにユウキも会得する類のものだろうが、現時点ではシャントレーに一日の長があった。
そして最後の審査はバイオリンコンチェルト。
4人ともそれぞれに特色を生かした味のある演奏を聞かせてくれた。
14番と17番の女性二人には申し訳ないが、私の好みとしてはいささか問題が多かった。
それはシャントレーにも少々言えることで、確かにプロコフィエフの曲にふさわしい音を出し、オーケストラを使いこなした演奏になっていた。
だが、今回はコンクールであり、彼自身の演奏が審査対象であるからオーケストラも彼の伴奏としての立場を守っていたのだが、もしこれが同等の立場で作りだすコンサートでは、自分のやり方に固執し主張しすぎて反発を買う事になったかもしれないと思えた。
ソリストは個性を強調し自分のやりたいことを声高く主張するものだが、リサイタルと違いオーケストラと共演する場合は協調性も求められる。
彼が今後そのあたりをどう修正していくつもりなのか、やや不安を感じさせた。
そして、逆を行ったのがユウキだった。
ブラームスのバイオリンコンチェルト
壮麗な前奏部が続き、いつバイオリンが入ってくるのか期待が高まったところで、ソロバイオリンが情熱的な音で演奏に加わり第1主題をオーケストラと歌い交わす。
ブラームスらしい美しい旋律が続き、後半の快活なカデンツァへと進んでソロバイオリンの奏でる心からの音楽への喜びと憧れを乗せて・・・・・。
第二楽章ではオーボエが美しい主題を奏で、ソロバイオリンがそれを引き継いでいき、やがてバイオリンが憧れを切々と訴える「バイオリンによるコロラトゥーラのアリア」と評される部分へとつながっていったが、高音部の音の透明感にぞくりとふるえた。
いや、曲に対する分析も批評も演奏を聴くには邪魔なものであり、このまま何も考えずに最後まで彼の音楽に浸っていたかった。
私だけではない。今この時、ホールに座っている者たち全てがそう考えていただろう。
オーケストラさえ更に絶妙な演奏を披露していた。
つまり彼の演奏に巻き込まれた演奏となっていて、彼の作りあげたブラームスの世界を楽しみ満喫していたのだ!
夢心地の時間は過ぎていき、ついに演奏は終わりバイオリニストは弓を下ろした。
しんとホールの中が静まり返り、次の瞬間割れんばかりの拍手と歓声とブラヴォーの声が起きた。共演していたオーケストラの団員たちからも、だ。
その拍手は長く続き、コンクールでは珍しく何度も呼び出され、そのたびにあたたかな拍手が沸き起こっていた。
私は確信した。
彼は間違いなくこれから素晴らしい演奏活動をすることになるだろう。
たとえ優勝を逃したととしても。
私が評論を書く日が楽しみになった。
さあ、間もなく表彰式が始まる。
私はわくわくしながら、審査委員長が壇上に上がるのを待ち構えていた。
マルチェロ・パルニーニ氏による、ロン・ティボー国際バイオリンコンクールの観戦記です。
本作では秋月先生が都留島さんの立場から悠季の演奏を客観的に話して下さるんじゃないかと期待(願望!)しているんですが、はたしてどうなることか。
素人が演奏の批評などおこがましかったのですが、どうしても書きたくて、こちらにこそこそと掲載してしまいました。(苦笑)