様々なトラブル続きで大変だった今回のコンサートが終わると、僕たちは社交行事は早々に辞退して退散させてもらうことにした。
マネージャー夫妻たちと軽い食事をとり、ささやかな悠季の誕生日祝いをするとそのままホテルへと戻った。
いつもならよく出来た演奏の後は疲れて眠ってしまう癖のある僕だが、今夜は興奮が残っているのか、まだ眠気には至らない。
逆に悠季はと言えば、集中力の限りを尽くしたせいか、眠そうだった。
しかし、このままで彼の誕生日を終わらせてしまうのでは、あまりにわびしいではないか?
僕たちの部屋へ入りドアを閉めた途端、僕は悠季のからだを抱きしめた。
彼のバイオリンは、ホテルの金庫の中。
今夜は邪魔者はいないというわけで、何の問題もなく彼を抱きしめる事が出来る。
「け、圭?!」
悠季の戸惑った声。
「ようやく君をミューズたちの手から取り戻すことが出来たのですから、もう少し感激を味わわせておいてください」
「取り戻すってねェ・・・・・」
ため息混じりではあったが、ゆったりと身を預けてくれた。
突然降ってわいたような、悠季との協演。
彼はほとんどぶっつけ本番のようなソリスト指名を受けてくれた。
彼がプロとしての自覚と覚悟がついてきたと思ったのは、僕たちが空港からシャトレ座へ戻る途中で彼にソリスト指名を伝えた時のことだ。
それまで恋人に逢えた嬉しさで柔らかな笑みを浮かべていた彼の顔が、一瞬にしてプロとしての真剣な表情に変わったのだ。
僕の依頼を受けて立つと同時に、恋人である僕のことは意識の外へと追いやり、一気にミューズとの交信を始めてしまった。
それはもう鮮やかに。
ある程度は仕方ない事なのだと諦めている事ではある。
僕自身も同じ音楽家として同様なことをしているのだから。
とは言っても、未だにわがままなベベを身の内に抱えている僕としては、彼の中から追い出されたようなしまったような気分を感じて不機嫌になってしまったのはどうしようもない。
「ミューズの手から君を取り戻します!」
などと、悠季を混乱させてしまうような台詞を吐くほどに。
ああ、なんて狭量な男なのだろう!
ブラームスのコンチェルトは、メンデルスゾーン、チャイコフスキーなどのコンチェルトに比べていぶし銀の渋さを持っていると言われる。
交響的な重厚な響き、主題の扱いなど実に彼の持ち味を存分に発揮した曲だ。
テクニックはもちろん難しいが、それ以上に難しいのは、この曲が必要とする演奏者の感性だ。
多くの協奏曲よりもこの曲は演奏者のひととなりを如実に反映する。
薄っぺらな取り組みしかしていない者には、手ひどく応じてくる。
悠季はそのことを充分に承知しており、演奏の中にふくいくとした香りをまとい、豊かな情緒を溶け込ませた演奏をしてくれた。
そして、その結果は当然と言うべきか、彼は聴衆からのブラヴォーの嵐を浴びながら舞台を降りることになった。
この荒れた天候にもかかわらず今夜のコンサートを聴きに来た人々は、来てよかったとしみじみ満足して帰宅の途についたことだろう。
そしてきっと『守村悠季』というソリストの名前を記憶に記したに違いない。
次に彼がどこで演奏するのか、捜したくなっただろう。それだけのインパクトを持っていたのだから。
おそらくヨーロッパでの彼の評価もおおいに上がったと思う。
その意味では、彼にチャンスを与えてくれたミューズたちに感謝しなければいけないのかもしれなかったが・・・・・。
「そりゃバイオリンを持っている時の僕は、ちょっとばかり君をおろそかにすることもあるかもしれないけどさァ。
でも君との協演は僕にとって一番気を使わないと太刀打ちなんか出来ないし、それにとても楽しみだから全力でぶつからないといけないんだ。
君の恋人としての僕はちょっと置いておかないといけなくて悪かったけど・・・・・」
僕の腕の中でそんな言い訳をぶつぶつとつぶやいている悠季の言葉の内容は聞き流した。
バイオリニストとしての悠季は、もう今夜はお役御免だ。僕の恋人の悠季に戻って貰わなくては。
僕は彼の髪に鼻をこすりつけ、首筋に顏をうずめた。
ああ、僕の悠季の匂いだ・・・・・!
久しぶりに逢えた僕の恋人。ようやく取り戻した最愛の人。
「・・・・・ね、ねえ、圭。シャワーを浴びないかい?」
悠季が居心地悪そうに身じろいだ。
「いえ、このままでかまいませんよ」
「だって、きっと汗臭いはずだよ」
「君の匂いはとてもそそられる匂いですかよ。・・・・・まあ確かに汗はたっぷりとかきましたがね。でもこれからまた汗をかくのですから構わないでしょう?」
ぱあっと彼の顔が赤くなった。耳たぶの色鮮やかさが愛らしい。
と同時に、汗のにおいが変わったようだ。
一気に甘くなったように思う。いや、僕の気のせいではないはずだ。
しかしそれを彼に話すつもりはない。
自分がどんなにあからさまに僕を誘っているかの証拠でもあるのだから、恥ずかしがってしまうに違いない。
悠季は恥ずかしさが怒りに変換してしまうことが多い。
怒りが僕に向かったらどうなるか。
――― ベッドから締め出されてしまうような危険を冒すわけにはいかないではないか?
「と、とにかくシャワーを浴びて来るから」
僕のからだを押し放して、そそくさとバスルームへと消えて行った。
ええ、君がその気になってくれているのはよくわかっていますから。
僕も悠季の後を追ってバスルームの中へと入っていった。
その夜の悠季とのセックスは、忘れられないものとなった。
「圭、もっと!・・・・・ねえ、もっと・・・・・!!」
悠季はベッドの中で抱き合ったとたんにひどく僕を欲しがり、身をよじってよがり泣いた。
僕にしがみついて何度もねだってくる様子は、どれほど多くの言葉よりも雄弁に、どんなに僕と離れて寂しかったのかということを全身で訴えてくれた。
はらはらと流れる涙は、快感と切なさと両方を含んでいたのだろう。
彼の色白な肌は薄赤く染まり、ピローライトの薄明るい光を受けて、みずから発光しているかのように輝いて見えた。触れればぬめるような肌触りで、僕を誘惑する。
強い力で僕を抱き寄せ、また押し放し、また強く抱きしめる。
無意識のうちに僕の背中をかきむしっていたから、おそらく僕のあちこちにみみずばれができたことだろうが、痛みは感じなかった。いや、痛みさえ僕の慾望を増していたのだ。
きつく僕を締め付けてくる快感も、解き放った時の甘いうめきも、更に渇きを煽ってしまう!
タガが外れたように、という表現をすることがあるが、その夜の悠季はまさしく全ての枷を外し、僕を巻き込んで発情していた。
まるで僕が彼を抱いているのか、それとも抱かれているのか分からなくなってしまうほどに。
だから僕は彼を寝かせてあげることが出来なかった。
翌日は日本に戻らなければならないのだから、彼を疲れさせないようにセーブしようという考えは頭の隅にあったのだが、日差しに融ける雪のようにあっという間に消えてしまい、夢中になって悠季をむさぼることしか出来なくなってしまった。
その結果はと言えば・・・・・。
「おい、いったいどういうつもりだ!?今日の便で守村さんは帰国しなけれりゃいけないことはわかっていたはずだ。
あんなふうに・・・・・その、よれよれに疲れさせてどうするつもりなんだよ!」
ガミガミと宅島が怒鳴りつけてきた。
ようやく空港の封鎖が解けたので、悠季は帰国することになっていたのだが、起きてきた彼の目の下には隈、足元はおぼつかないというなんとも気まずい状態になっていたのだ。
「失念していました」
「ボケッ!俺のカミさんの苦労を増やしてどうするよ」
宅島は井上と今後の相談することにしたらしく、僕に小言を言うだけ言うとさっさと行ってしまった。
確かに今朝の悠季のこの状態については何も言えない。
彼の色香についつい自制が吹き飛んでしまったのは確かなのだから、言い訳などせず甘んじて宅島の説教を受けることにしよう。
悠季は今日、日本へ戻る。
しかし僕はまだ欧州での仕事が残っている。当分はまたすれ違い生活が続く。
今年は悠季の誕生日を祝えなかったし、バレンタインも祝う事ができないのだから、多少の(宅島に言わせれば『多少』ではないかもしれないが)わがままは許されてもいいのではないだろうか?
これもまたマネージャーの仕事の内だと。
「気をつけてお帰りなさい」
「うん。君も気をつけて、早く日本に帰ってきてよね」
疲れがまだ表情に残り、目元にうっすらと青い影をひいている顔は、昨夜の名残か目が離せないようななまめかしい風情を纏っていた。
しかし悠季は僕の顏を見ると、疲れた様子など見せずに、それはきれいな笑顔を見せてくれた。
公の場所でキスなど出来ないのは二人とも承知している。
だから僕たちはしっかりと握手し、悠季の笑顔を胸にたたんで、彼が搭乗口に消えるのを見送った。
今度彼に逢う事が出来るのは今日から三日後。
やれやれ、なんと長いことだろうか!
僕はこぼれそうになったため息を押し殺し、宅島と共に僕が乗る予定の搭乗口へと向かって歩き出した。
2012.2/14 UP
なんとかV dayに間に合いました!
皆さんだって、コンサートがどうなったかとその後はどうなったかが知りたいですよね?(笑)
ということで、その夜のべべ大暴走の話でした!σ(^◇^;)