Requiem











朝目覚めたら、誰もいなかった。

まるで冗談のような話だった。

もし僕が誰かに聞いた話なら、きっと性質の悪い冗談だと笑い飛ばしたに違いない。

しかし、僕の身に起きた事は、事実でしかない。それも残酷この上ない。





僕はその日ひどく落ち込んでいた。

音楽大学を出たものの、希望していた音楽家としての道が断たれ、どうにも先に望みが持てなくなってしまったからだ。

才能がなかったのだ。とは思いたくはなかったけれど、子供のころからの上がり症は、必死で挑むはずだったオーケストラのオーデションに体調不良のポカをやらかして受けることも出来なかったとなれば、プロとしてやっていく才能がなかったのだと思わざるを得なかった。

子供のころからの親友であるバイオリンを生きるための糧ではなく、趣味としていかなければならない決断をつけるのはとてもつらかった。

だから、もんもんと悩み、酒に憂さを晴らすことも出来ず(胃潰瘍が再発するのが怖かったためだ)自棄になることもできない小心者は、誰も知らない場所でこっそりと泣くしかなかった。

住んでいる場所の近くにいては大学関係の誰かに会うかもしれなかった。けど誰にも会いたくなかった僕は、新宿にあるオールナイトの小さな映画館に入っていった。

どうやら人気の無い映画に当たったようで、僕一人の貸し切り状態というありさま。にぎやかで空虚な音楽が響く中、僕は自分の夢と現実との折り合いをつけるために必死で諦めようとしていた。

映画などまったく目に入らなかった。

何度も自分の心を説得し、諦めるしかないと言い聞かせ、それでも諦められなくて悔し涙がこぼれ・・・・・。一晩中葛藤していた。

そうしているうちに、考えることに疲れてしまった僕は、うとうとと浅い眠りに落ちてしまった。

ふと目が覚めると、周囲のありさまにひどく驚いた。

もしかして、心の中で考えた事――――どこかに行ってしまいたいという想い――――が実現してしまったのではないかとさえ考えた。

それほど、僕が寝入ったはずの場所と雰囲気と違っていたんだった。






普段なら証明が点かなければ真っ暗なはずの映画館の中に、背後から薄く光が入っていた。扉が開いたのかと思っていたのだが、振り向くと扉自体がなくて、その向こうからの朝日らしい光が差し込んでいたんだ。

「いったいどうなっているんだ!?」

不思議に思った僕は、いつものように持ち歩いていたバイオリンを手に取ると、席を立って通路を歩きだした。

歩くにつれて薄明かりの中で、席があちこち壊れたり真っ白に埃をかぶっているのが見て取れた。

更に明るい所へ出てきてぎょっとなった。

そこは見たとこもないような廃墟が広がっていたんだ!

「おーい!誰かいませんか?」

僕は声を出しながら映画館(の廃墟に見えるもの)から出ると歩き出した。けれど誰もいない。あるのはただ壊れて朽ちた建物だけ・・・・・。

違う!すぐ先の角に動く影があるじゃないか。

よかった、人がいるんだ!

僕は走ってその誰かに向かって走り出した。

動くものを追って十字路を右に曲がって・・・・・呆然となった。

そこに立って僕の方を見ていたのは、一頭のシマウマだったんだ!

そいつは僕の方を振り返ったけど、すぐに興味をなくして足元に生えている草を食べはじめた。

そう言えば、それまで気が動転していて気がつかなかったけど、アスファルトで覆われているはずの道路はひび割れ、はがれおちてあちこちに草が生えている。これをシマウマは食べていたんだ。

まさかこんなところでシマウマに出会うなんて、夢としか思えなかった。僕は夢を見ているんだと思ってほっぺたをつねってみたんだけど・・・・・痛いんだ。

それでも諦めきれずに歩いていった僕は、新宿の高層ビル群を発見した。少なくともそのなれの果てを。

ビル自体はまだ建っていた。けれどひびが入り蔦に覆われ、緑色の巨大な木が立っているようにさえ見えた。それはまるで巨大な森のようだった。

入口らしいところから平然と出入りしているのは、犬か?それともイノシシか?

まるでここが自分たちの住みかであると心得ているかのようだった。

動物が出入りしているのなら僕も中に入れるかと思ったけど、やはりやめた。

野犬が恐ろしい猛獣になってしまうことは十分想像がついたからだ。こんなところで殺されるのはごめんだ。

僕はとぼとぼと元来た道を引き返し、新宿駅があったらしい場所へと戻っていった。

いったいこれから僕はどうすればいいんだろう?どこにも誰もいない、この場所で。たった一人で生きていかなければならないんだろうか。

まだ納得しきれていなかったけど、ぐうっと腹が鳴って気がついた。まずは食糧をなんとかしなきゃ。でもいったいどこに行けば僕が食べられるものが見つかるのかな。

かたっぱしから廃墟のビルをあさっていくしかないんだろうとは思ったけど、もしそこに死体とか骨とかころがっているんじゃないだろうか。

ずいぶんと迷っていたけど、覚悟を決めて建物の中に入った。

ほっとしたことに誰かが死んでいるという事態には陥らなかった。もっともその後も誰にも会う事が出来なかったけど。

埃をかぶりぼろぼろになった様々な品物が見つかった中で、なんとか使えそうな物も見つけられた。

乾物の倉庫があったのだけど、幸い扉がしっかりしていて動物たちが中には入れなかったのがよかったらしい。中には缶に入った食料品がいろいろと並んでいたし粉類もいろいろとあって、密封してあったために使えそうだった。

農機具のショールームだったのか、小型の耕運機がきちんと梱包された状態で見つかった。まだ開けられていないエンジンオイルも見つかったから、タネと畑さえ見つけられれば植物を育てることも出来そうだった。タネがあればの話だったけど。

皮肉なことに、農家の息子であることがこんなところで役に立ちそうだった。

僕はとりあえずパンの入った非常食用の缶やらコンビーフやら缶詰を幾つかかばんに入れて、この先住めそうな場所を探しに出かけた。

でもうかつにも僕はまるっきり気が付いていなかったんだ。シマウマがいたのなら、他にも動物がいるはずだということに。

それも出会っちゃまずいような肉食の動物に。

何も考えずにすぐ先の建物の角を曲がったところで、僕は大きなトラにばったりと遭遇したんだった!

「た、確か、逃げるとまずいんだったよな。じっとして目を合わさずに向こうが通り過ぎるのを待つ・・・・・はず」

冷や汗を流しながら、僕はトラが目の前から通りすぎてくれるよう祈っていた。

「ぼ、僕は不味いからね。食っても骨ばかりだし」

小さな声でつぶやいたけど、トラが理解できるはずもない。

いったいどれくらいの時間が過ぎただろうか。僕の目の前にどっかりと座りこんでいたトラは、ゆっくりと腰を上げると僕に息がかかるほどの距離を悠然と歩き、ゆっくりと角を曲がって歩み去っていった。

「た、助かった!」

僕はへたへたとその場に座り込んでしまっていた。

いったいどういうことだったのだろう。もしかしてあのトラは満腹だったのだろうか。それともうさんくさい奴にかかわるつもりがなかったとか?

いずれにせよ、これからは気をつけるようにしなくっちゃ。

僕はさっきのビルに戻って鉄パイプを一本持ち出した。これで身を守ることができるかもしれない。あまり役に立たないかもしれないけど無いよりはましだ。

その後も、猛獣と言われるような動物に幾度か遭遇したけれど、どの猛獣も僕を食料にしようといった動きは見せなかった。

ただ例外として、一度だけ襲われた事がある。

あちこち動き回って使えそうなものがないか調べていた時の事。

ばったりと野犬に出会ってしまったんだ。

まだ親から離れたばかりらしいごく若い犬みたいだったけど、どこか怪我をしているのか足を引きずっていた。飢えきっているらしくて、骨と皮といったからだで今にも倒れてしまいそうな様子だった。

そいつが、ついに僕を獲物として狙ってきたんだ。

それまで襲われる事がなかったから、反応が遅れてしまった。そいつは目が会ったとたんに飛びかかって来て足首のあたりにかみついたんだ。

もうだめだ!いや、なんとか生き延びなきゃ!でも指と手は使えないぞ!

とっさにバイオリニストとしての本能が働いて手をかばい、必死でかみついてくるそいつの頭を蹴っ飛ばした。

そのとたんだった。そいつはぱっと飛び離れると、情けない悲鳴をあげながら逃げ出していったんだった。

た、助かった・・・・・?いったい何が起きたんだ?

不思議に思いながらも、僕は急いで安全な場所へと移動してから咬まれた傷を見た。

犬にかまれるなんて、狂犬病でも持っていたらまずい。そうじゃなくてもばい菌が入ったりしたら膿んだりして大変なことになる。

ちょっとだけ牙が食いこんで血が出ていたけど、急いで水場で傷を洗ってありあわせの布を包帯にして手当てした。薬なんてないからこれくらいしか出来ないし。

でもほっとしたことに、傷口はそのままふさがって何も問題なく治ってくれた。

それからはもっと警戒しながらあちこち出かけることにしたけど、もう襲われる事はなかったのが幸いだった。

でも気になるものを見つけてしまった。

とあるビルとビルの隙間にあの時の野犬らしい死骸が転がっていたんだ。動物同士の殺し合いではないようで、目立った傷はなかったけど、口から血泡を吹いていてまるで毒でも盛られたかのような様子だったんだ。

飢えて見境ない様子だったから、何か毒になる物でも食べたのかもしれない。飢えて死んだのかも。

ただ、逃げていった時の犬のただならない様子を覚えている。・・・・・だから思ってしまうんだ。もしかして僕が原因なんだろうか?と。

わからない。





さいわい僕が住めそうな場所が見つかった。水についても動物たちの水飲み場を見つけられた。

畑に出来そうな場所を見つけたし、野生化しかけたジャガイモとか麦とかも見つけられて小躍りしたりもした。

つまり、僕一人なら自給自足することも可能なめどが立ったんだ。

でも、人間は未だに誰も見つけられなかった。死体や骨に出くわすこともなかった。この世界には僕一人しかいないらしかった。

その事実は、プロのバイオリニストになりたかった僕にとって、ひどく残酷なものだった。

誰かに僕の音楽を聞かせたいと願っていたからこそプロのバイオリニストを目指していたはずなのに、ここで聞かせる事が出来るのはただ一人自分だけ。もしかしたら動物たちが聞いてくれるかもしれないけど、それはもう聴衆じゃない。

バイオリンは趣味というより僕一人のための慰めにするしか出来ないんだ。

僕はバイオリンのケースを開けてため息をついた。

幸いというべきか、必死でオーディションに挑戦していた時に弦の替えを幾つも買いこんでいたし、弓の毛も張り替えたばかりだったから当分は弾けるだろう。自給自足の片手間に。

生きることで必死なら、バイオリンのことなどかまけていられなかったはずだけど、中途半端に余裕があるからこんな風にまだバイオリンに未練がある。

いっそのこと、壊してしまおうか。

そんなことを考えて、でもバイオリンが無くなったとき、もう僕の生きていくための希望もなくなってしまいそうだった。

いや違う、バイオリンにはまだ大事な役目があるじゃないか!

僕がバイオリンを弾けば、その音を誰か僕以外の人間が聞いてくれて、他に人間がいるのだと気がついてくれるかもしれないということに気がついたんだ。

それで時折高いビルの屋上に上ってバイオリンを弾く事にしていた。

風がなくて天気の良い晩に。つまりバイオリンのよく聞こえそうな夜に。

大声で叫ぶよりはバイオリンの音は響くけど、昼間よりは夜の方が音が遠くまで響きそうだったから。

なにより僕自身のための演奏だったけど、誰かが聞いてくれればいいと願いながら。

でも、いつもそんなかすかな希望は打ち消されていた。

僕が演奏している間、動物たちが静かになってくれるのはなんとも嬉しい誤算だったけど、演奏が終わったとたんに今まで以上にうるさくなってしまって、誰か人間が聞いてくれたという感触が無かったんだ。

一度だけ、満月の夜に弾いた時、遠くで人間の声を聞いたような気がしたけど、どうやら僕の願望が引き寄せた幻聴に過ぎなかったらしい。

そのあとは動物たちの声しか聞こえなかったから。



それからも僕はひとりで暮らし続け、畑を耕し、時折廃墟をあさっては使えそうなものを自宅と呼ぶ廃屋へと持ち帰る生活を続けていた。

そんなある晩のことだった。遠くで大きな音が響いたんだ。

いったい何かと驚いたけど、翌日見に行ってみると、ビルが倒壊しているのを発見した。

傷みのひどくなった建物の一部が崩れたせいらしかった。でもそれだけじゃなかった。思いがけないものを発見してしまったんだ。

「人間?!」

僕の友達になってくれたかもしれなかったひとだったけど、もうそれはかなわない。

僕が見つけたのは、人間の死体だったのだから。

どうやら昨夜廃墟が崩壊した時に下敷きになったらしかった。

昨夜、いつもなら晴れた晩だったから、僕は高いビルに昇ってバイオリンを弾いていただろう。でも少し畑仕事を張り切りすぎた僕は、疲れきってしまって、さっさと寝てしまった。

もしかしたら、この人も僕のバイオリンを聞いて、人間仲間を探していたのかもしれなかった。

考えれば考えるほどそう思えてくる。だとしたらひどく哀しくとても残念でしかない。

もし分かっていたら、助けることだって出来たかもしれなかったのに!



亡くなっていた人はとてもハンサムで、若くて背の高い男性だった。

何か身元が分かる物はないかと服の中を探らせて貰ったけど、上着にイニシャルらしい『K.T』と書かれているだけだった。

もしかしたら、以前僕が幻聴を聞いたと思ったのはこの人の声だったのかもしれなかった。だとしたら、どうして僕はもっと探そうとしなかったんだろう。生きている時に会えたかもしれなかったのに。

この世界に残っている人間は僕一人になってしまったのかもしれないじゃないか。

僕はひどく気落ちした気分になってしまってもう生きていく気力もなくなりそうだった。

それでもこのままにしておくわけにはいかなかった。僕は必死でなんとか穴を掘って亡くなった男性を埋めてあげた。

もしかしたら僕が出会えたかもしれなかった、おそらく唯一の同胞を。



その夜、僕はまたビルの屋上に出かけてバイオリンを弾いた。

誰かに聞いてもらうためのものではない。誰かが聞いてくれるのを期待するものでもない。亡くなった見知らぬ誰かのための葬送のつもりだったんだ。

その日も満月で、澄んだ空にくっきりと月が浮かんでいた。

僕は月の力ルナティックに引きずられてしまったのか、自分でも驚くほどの渾身の演奏で何曲も弾いてから、下へと降りた。

いつものように動物たちの啼き交わす盛大な声に送られて。

「あれ・・・・・今誰かの声がしなかったか?」

立ち止まって耳を澄ましたけど、もう聞こえなかった。

やはり気のせいだったんだ。


だって、もうこの世界には僕しか残っていないのだから。






















以前書いた、「TOKYO JUNGL」の悠季バージョンです。
悠季の方がサバイバルスキルはありそうですが、生き抜く根性は圭の方がありそうな気がします。(笑)
死んでいたK.Tが誰なのかは、ご想像にお任せということで。







2013.4/19 UP